自然①-自然によって作られた国民性
ウォルター・ウェストンは一八六一年生まれ。イギリス人。一八九四年に、宣教師として来日。日本各地の山を登り欧州に紹介。「日本アルプスの父」と呼ばれる。上高地、糸魚川市、戸隠キャンプ場、中津川市、高千穂町等で、等日本各地に彼の名を冠した祭りがある。著書『ウェストンの明治見聞記』(新人物往来社、一九八七年)からの引用
・世間でよくいわれるように、人間の性質はその人の自然に対する態度によって評価が決まるというのが正しいとすれば、世界の中でも日本人の占める地位は独特のものである。
・日本人ほど生まれつき自然に対する愛着が強く、それが皆の間に広まっている民族を見たことがない。この特徴は、日本人の生活全般に浸透しているもので、それは彼等の日常生活や休日の娯楽のみならず、宗教、芸術、詩歌等の全域に彩りを与えている。
・六世紀の中頃、中国から仏教が
コメント
コメントを書くウエストンさんの日本人の国民性考察は概ね正しいと私は思います。
明治維新以降、数々のキリスト教教団の教宣活動が米国関連筋から行われ、ミッション系大学が雨後の竹の子みたいにあちらこちらに設立され、今も尚、有名大学として健在だが、キリスト教徒が、テクニカルな意味においてでさえも、増えていないのがウエストンさんの考察を支える有力な証拠だと私は考えております。「神の偽物として人が造られた」とする信仰は「山川草木悉有仏性」というパンチラインには日本人の心の中では勝ち目が無いように思えるのです。
上高地には、6度訪れた。河童橋から少し歩くと、ウオルター ウェストンのレリーフがある。何度訪れても感銘を受ける。西欧スイスを連想させる景色に共感を覚えたのでしょう。
戦前時代世相は、活動写真、写真、書物によって覗うしかできないが、戦後間もない時期子供の時代を過ごした私と、現代に生きる子供たちでは、かなりの差がみられるといってよい。私たちの時代には、「イジメ」などという悪質な現象を見たことがない。遊び道具は、野球のミットとか竹とんぼ、竹馬などすべて自分で作って遊んだものです。小、中,高の学校生活も自由が尊重され、現在のような管理教育とは比較にできない自由さがあった。自分で考えることが大切にされた時代であった。
戦前憲法はドイツ、イギリスが基本になっており、戦後憲法は米国が基本になっており、大きく異なっている。生活の基本が大きく異なってきた。大きいのは葬儀であり、家族葬儀が主流になりつつあるし、江戸時代から続いている墓所の概念も消えつつある。
「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、最も違いが分かりやすいのは「歌」の内容、テンポなどカラオケなどをしていると違いがよくわかる。若い人の歌には全くついていけない。若い人の時代であることを強く実感する。
係るテーマでは ついまた大久保正雄氏との対談を聞きたくなります。
大昔、上高地・ウェストン碑の前で誰だかよく知らないまま気取って記念写真撮ったのを思い出しました。
今も殆ど知りませんが、120年も前に外国人がよく自由に彼方此方の山域を「探検」できたものだと思います。政府からの依頼もあったのでしょうか。
(1)この時代の日本には当て嵌まっていたのでないか。まだまだ自然とシームレスな暮らしがあったと思う。
今も当て嵌まるというなら、無駄なダム、道路、原発、リニアetc.を頑なに造り続けようとする者たちは「日本人でない」ということだ。
(2)地震は崇拝していないのでないか。自身が「静」の状態で捉えられるものに限られそうだ。
(3)正しいとすると、やはり日本人には抽象概念を思い巡らすのは不向きなのか。
(4)以前、旅先で会ったスペイン人が3.11の映像を見て日本人の秩序だった行動に感心したと言っていた。「スペインだったら絶対に ああはならない、みんな自己中に振舞うよ(笑」