ドナルド・キーンは一九二二年生まれ。日本文学者。日本文学と日本文化研究の第一人者。コロンビア大学を退職後は、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した。ドナルド・キーン著書『日本の文学』(筑摩書房、一九六三)からの引用
・十七世紀の日本の文学に起こった新しい運動の影響で伝統的なものが一切斥けられ、日本の詩人達が自由に酔った時、その結果は混乱に終る場合が多かった。しかし、芭蕉にとっては、変化と不易の両方が彼の俳句にはなくてはならなくて、彼の最も優れた作品ではこの二つが、ここで述べた意味だけではなしに、幾何学的に言えば、瞬間のものと恒久的なものの交る点となって表現されているのがみられる。その一例が、芭蕉の俳句の中では或は最も有名かもしれない。
古池や蛙飛びこむ水の音
その第一節で、芭蕉はこの詩で不易な要素をなしている時間を超越して動かない池の水を出している。次の蛙が瞬間
コメント
コメントを書く哲学者でもあり小説、戯曲を沢山書いたサルトルは、主としてコミュニストから「実存主義は静寂主義に陥っていて究極には静観哲学に帰着する。静観は一つの贅沢行為であるからそれは一種のブルジョア哲学へと導くものだ」と批判され、激しく反論した。
芭蕉の作品には上記の静寂主義、静観、贅沢行為という言葉があてはまると今になって私は思うのだが、高校時代に必須科目として与えられ、勉強させられた時に私はなかなか親しみを感じなかった。それにはそういうことが背景にあったのだろう。
私は根が貧乏根性なのか、親鸞や蓮如が好き。芭蕉には今も馴染めません。
「悟る」とは何だろう、時間を超越した静寂な古池に一瞬蛙が飛び込む音に触発されて真理を覚醒する?その真理とは禅の精神でもあり、無始無終のあらゆる可能性を秘めたダークマターに満たされた無限無辺の宇宙空間がある一瞬の物理的契機(例えば突然の局所的な空間の揺らぎ等)により生命が起源し今の自分が存在に至った事を覚醒する。そしてその調和の美を愛で至福の境地に至る?
別に悪い話ではないが、それで、この世の生きにくさが解消し、社会の不正義が正されるのか、貧富の差は解消するのか、強者の弱者への横暴な振る舞いは正されるのか?それともそれ等全ての矛盾を宇宙の摂理として悟ることにより受け入れ、是認しただ従う事を強いるのか。だとすれば悟りとは単なる科学的「気づき」に過ぎず、平等な権利を享受する等より深い生命の根本的欲望や社会環境の改革に資するものではないのだろう。ま次元の違う話ではあるが。
>>2
大変に参考になります。
私は子供の頃から読書が好きで、散文も詩も好きなのですが、
俳句にはまったく興味が持てませんでした。
それがなぜなのか、とても参考になる論考でした。
俳句の世界は、芭蕉にあっては、禅の思想であって、私たちが、どのように日常の言動に生かしていけるかが、重要なのでしょう。
私たちの心には、過去の現象、未来の可能性が一杯蔵されており、外部を見聞覚知する中で、様々な言動が、現出してくる。誰でも、行動するとき、自分の心と向き合い、言動を現出するわけであるが、様々な知識が災いして、簡単に言動として出ない場合は沈黙している以外ない。簡単に言動が出る場合は、例えば思想的に、体制派とか反体制派というように、偏る、捉われる、執着している場合である。心に、体制派の考えを肯定し否定し、反体制派の考えを肯定し否定している場合は,体制派反対派に組することなく自分の言葉を自分が発するということであり、自分の存在が、自分の言動によって確認することができる。孫崎さんの趣旨を慮ってみたとき、そのような考えが浮かんだ。
周りを見ても、自分の言葉で自信をもって話をする人が少なくなっている。体制に組み込まれた教育、有名人の学説などを覚えて、自身で考えることなく、あたかも自分の考えであるがごとくふるまう人が多くなっている。ほとんどの人は、学校の教育、他人の真似、模倣である。独自の世界観の中で、ただ、心に浮かんだ句が、ただそのまま発せられた芭蕉の俳句と距離感が出てしまう。