山縣有朋は1873年初代の陸軍卿となり、明治政府においては「国軍の父」とか、「日本軍閥の祖」と称された。彼の軍思想は様々な形に変遷するが、次第に攻撃的な色彩を強め、「外交政略論」(明治二十三年)で明確化する。特徴は「利益線」の防護にある。

「今列国の際に立て国家の独立を維持せんとせば、独り主権線を守禦するを以て足れりとせず、必や進で利益線を防護し常に形勝の位置に立たざる可らず。利益線を防護するの道如何、各国の為す所苟も我に不利なる者あるときは、我れ責任を帯びて之を排除し、已むを得ざるときは強力を用ゐて我が意志を達するに在り。蓋利益線を防護すること能はざるの国は其主権線を退守せんとするも、亦他国の援助に倚り纔かに侵害を免るる者にして、仍完全なる独立の邦国たることを望む可らざるなり。今夫れ我邦の現況は屹然自ら守るに足り、何れの邦国も敢て我が彊土を窮観するの念なかるべきは何人も疑を容れざ