山縣有朋は1873年初代の陸軍卿となり、明治政府においては「国軍の父」とか、「日本軍閥の祖」と称された。彼の軍思想は様々な形に変遷するが、次第に攻撃的な色彩を強め、「外交政略論」(明治二十三年)で明確化する。特徴は「利益線」の防護にある。
「今列国の際に立て国家の独立を維持せんとせば、独り主権線を守禦するを以て足れりとせず、必や進で利益線を防護し常に形勝の位置に立たざる可らず。利益線を防護するの道如何、各国の為す所苟も我に不利なる者あるときは、我れ責任を帯びて之を排除し、已むを得ざるときは強力を用ゐて我が意志を達するに在り。蓋利益線を防護すること能はざるの国は其主権線を退守せんとするも、亦他国の援助に倚り纔かに侵害を免るる者にして、仍完全なる独立の邦国たることを望む可らざるなり。今夫れ我邦の現況は屹然自ら守るに足り、何れの邦国も敢て我が彊土を窮観するの念なかるべきは何人も疑を容れざ
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日本は島国なのにサムライが多く尚武の風が強いことは世界で有名だった。
まず、織田信長はスペイン帝国から中国共同侵略を打診された。スペインにとって中国は美味しいマーケット。だけど、武力が無い。織田軍は魅力だったに違いない。だが、織田は賢かった。その誘いをきっぱり拒否している。
豊臣はスペインの誘いに乗ったか分からないが、朝鮮、明への侵略を7年掛けた。でもうまく行かず、撤退している。
家康は織田の拒否、豊臣の侵略をよく知って、三浦按針からも情報を得て、貿易をオランダ、中国、朝鮮三国に絞って外国と繋がる政策を断行した。その結果、世界に稀に見る長期の平和国家が成立した。
山縣らは自分らの革命が英国の援助で成ったのをよく知っており、英米の強さを知っていた。だが、その後の陸軍士官学校出の若手将校らが英米に弱い山縣や西園寺を批判し始め、それに憤った山縣は50人位手勢を持てば、乱暴な若手将校らを切り捨ててやりたいと嘯いたと言われている。
武器を持った若い集団は決起しやすい。米国のCIAを見れば分かる。武力を持ったCIAは大統領が知らないところで傍には見えない世界のいたるところで軍事行動を起こしているのだ。山縣らが老人だった時、日本の決起集団は英米に対決した。山縣や西園寺や近衛がいくら頑張っても止められず、英米に始末してもらうしかなかった。
これからの日本?ものすごく微妙なステージに突入している。日本で武力を持った若い集団が生まれ、自己主張し始めれば、危ない。落ちぶれつつあるからこそ、起死回生が必要な米国がその若い集団をほっとく訳はないでしょう。
歴史がサイクルだとすれば、織田はスペインを拒否し、豊臣は受け入れ朝鮮に侵入した。明治政府は英国との契りで大陸に侵攻した。その後の軍部は英米を拒否し、英米に戦いを挑んだ。そしていま、長い平和の後、どうなるか。今の日本人に課せられた大問題です。私は徳川家康に学ぶべきだと考えて居ます。
外敵の軍事的脅威に対する戦略を
①守勢戦略=領土に侵攻してきた敵を自国内で撃破する
②攻勢戦略=領土外に存在する敵を領土外で撃破する
に分けている。
ご投稿のように、山形有朋は「外交政略論」で日本の利益線の基点は朝鮮としている。
この考え方の基本は、オーストラリアの国家学者シュタイン氏の影響を強く受けている。守勢戦略は、日本は陸続きではなく、7か所ぐらいの要港の防御を堅固にすれば、日本国の防衛は全うできるということである。孫崎さんご指摘のように、結果論で言えば、利益線を朝鮮に置いたために負けたともいえるのでしょう。
現在この考え方を取り入れたらどのような戦略論がとりえるか。考えてみると面白い。守勢=自衛=攻勢が一体的でなければ、「外交政略論」となりえないのでしょう。守勢=自衛=攻勢をしないという考え方はあり得るが、米国従属国家として、外交政略論はあり得ないということになる。日米同盟の枠は外せず、外交政略論をとろうとすれば、「憲法改正」問題は避けて通れない。