芥川龍之介は1927年自殺でなくなっています。同年、『わが家の古玩』と題し「蓬平作墨蘭図一幀、司馬江漢作秋果図一幀、仙厓作鐘鬼図一幀、愛石の柳陰呼渡図一幀、巣兆、樗良、蜀山、素檗、乙二等の自詠を書せるもの各一幀、高泉、慧林、天祐等の書各一幀、――わが家の蔵幅はこの数幀のみなり。。陶器をペルシア、ギリシア、ワコ、新羅、南京古赤画、白高麗等を蔵すれども、古織部の角鉢の外は言ふに足らず。古玩を愛する天下の士より見れば、恐らくは嗤笑を免れざるべし。わが吉利支丹の徒の事蹟を記せるを以て、所謂「南蛮もの」を蔵すること多からんと思ふ人々もなきにあらざれども、われは数冊の古書の外に一体のマリア観音を蔵するに過ぎず。」と書いています。
この美術品のリストを見ると、例えば陶器では「ペルシア、ギリシア、ワコ、新羅、南京古赤画、白高麗、古織部」と列挙され、陶器愛好家の一般的傾向と一致しています。でもその中に「一体
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死後の世界があるのか、ないのか。
あるとすれば、どのような世界か。一つは偶像崇拝の天国・神の国。他の一つは、現実の世界がの延長である先祖尊崇の世界。
日本でも、戦国時代、江戸時代、明治時代と時代が変われば、仏教・儒教の影響度によって、先祖崇拝・先祖供養の考えも異なってくる。キリストを信じるか儒教の影響下にある仏教を信じるかの二者択一の状況に置かれる。
私などは、偶像信仰は否定、先祖崇拝・供養も選択しない。「生死」を区分しないから、死ぬ時が来れば、ただ死んでゆく。生きている間は、できる事は、大したことでなくとも目的意識をもって、目的に向かって進む。死後などどんなに考えてもわからないから考えない。
昔、「お時儀」だけのために買った文庫の「芥川龍之介全集5」に腕を伸ばし、もしやと思ったら「おぎん」アリ。早速読んだ次第。
ノーマークだったが、私には今読んでこそ意味深いと思える作品だ。主題は「キリスト教迫害」なのだろうが、一億総「アベ、スガ」化で目立つようになった日本の愚鈍さ、低劣さを痛烈に言い当てている風にも読めるからだ。
小学時代、担任教師が芥川の写真を指し、前頭葉が発達したバツグンに頭がいい人だったんだ と話していたが、世の中の皆がバカに見えて絶望してしまったのだろうか。毎日ジョギングしていたら、自殺はなかったのでないか。
「おぎん」は青空文庫でも読めるようだ。
TWTR:「人を殺して勲章受理なら...」━キャリアの終盤、「音楽で世の中は変わらないね」と述懐するアーティストは多い。「おぎん」の一節-
「実を云えばこの代官も、世間一般の人々のように、一国の安危に関るかどうか、そんな事はほとんど考えなかった。」
要はJ.レノンも、DS支配にヒビが入ると見做されたのでなく、「けしからん、生意気だ!」との愚劣な感情だけで殺されたのだろう。