これまでも脱原発発言をした人への圧力にはけたたましいものがあった。
今、脱原発の最前線で多々発言しているのは新潟県泉田知事。
最近、泉田知事がIWJの岩上氏と対談し、その発言が、ソーシャルメディアに乗っている。(具体例―晴耕雨読)。そこにつぎの発言が引用されている。
「泉田知事、インタビューのあと、“ここまで言ったら危ないかも”と呟いた。
“消されたり、自殺したり。でも、僕は自殺しませんから。遺書が残っていても、自殺ではない。もし僕が自殺なんてことになったら、絶対に違うので調べてください”と言われた。
Wikipediaは次を記載している。
「柏崎刈羽原子力発電所の再稼働
東京電力柏崎刈羽原子力発電所(柏崎市)の再稼働について、2011年3月の東京電力福島第一原発事故後は事故の検証なしに再稼働の議論はしない原則を公言していた。2013年7月、東京電力が柏崎刈羽
コメント
コメントを書く> 4:我々は何をすべきか
(3)スマホ中毒から脱して読書の時間を増やす。
戦後68年、私たち食べるものが充分でなく、おコメなど配給統制の時代を生きてきたものにとって、時代は違うと言えども物質が豊かで、生活が便利になっており、米国などに比較すれば、医療制度など社会保障の分野は充実しているといえる。一方、社会が平和であり、1500兆円を越える貯蓄高を誇っても、国民は、政府の支援が不十分だといって、社会制度をさらに充実させようと要求する。一方、円高により、多くの企業は海外で活躍しているが、TPPなどによって国家間の垣根が取り払われれば、日本からの輸出を増加させようとする。企業、金融など多国籍化が進行すれば自ずから、賃金なども多国籍化するからです。米国発の市場原理、競争の原理に反することは、あらゆる手段、謀略によって、反対する人を抹殺しようとする。平和な生活を享受していると考えている人が70%を超えていては、又、自民党に一切の政治を任せる状況にあっては、いまの大きな流れに抵抗するのが難しいときになっている。日本のように大勢順応型の人間が多くては、悲しいかな,その時にならなければ気がつかない。
マスコミ報道に流されず、お手軽なネット情報で済ませず、孫崎さんはじめ問題提起の本を読み、自分の頭で考え、気付いた人は、おかしいことはオカシイと主張し、行動することが必要です。
自民党が圧倒的多数の議席を占めていても、比例区の得票率は増えていません。選挙制度の仕組み、カラクリによって、議席数が得票率に比例せず、相対的多数派が絶対的議席数を得るようになっているためです。
日本は市民革命の経験がなく、お上意識が強く(官庁には逆らうな)、寄らば大樹の陰意識が強く(目立たず、その時の多数派に属して安心している)、おまかせ民主主義が多数派です。読書し、考える習慣が稀薄です。
でも、それを嘆いても何も変わらないから、気付いた人が声をあげること、気付いた人たちが、その声を拡散させ、広げることを持続することが、よりよい日本を子孫に伝える道です。
僕は、団塊の世代ですが、そのように考え、微力ながら継続してきました。
「遺書が残っていても、自殺ではないから調べて下さい。僕は自殺しませんから。」まるでサスペンスドラマの台詞だが、現職の知事の口から発した言葉である。
この国で原発の再稼働に反対するには、これほどの覚悟が必要であり、現実に、その危険を実感しているということだ。私たちも「再稼動反対」と唱えるだけでなく、泉田知事を守る術を考えなくてはなるまい。
秘密だらけのTPP。憲法を改定して言論や集会を規制。麻生副首相の「ナチを見習え」発言。この国は脱民主主義そして独裁国家に邁進していることに気付かなくてはいけない。だがマスコミは自民党の宣伝係に成り下がっており、重大な情報の報道は期待できない。
怖い世の中になりつつあることをなかなか実感してもらえなくて虚無感の日々。
周りの人に原発やTPPについて語ってもいつもの虚言癖と、バカにされて終わり。
(その人たちも原発再稼働には基本的には反対なのですが...私に説得力がないからかな)
水戸黄門がでてこないと誰も動こうとしない日本、でも水戸黄門の立場が危うくなれば手のひらを返して水戸黄門を排斥するのが日本人なんでしょう。
私達が今、享受している自由は決して空気のように当たり前に存在しているものではないのです。
これを得るためにどれだけの人々が犠牲になったでしょうか。
その自由のなかで全体主義を求めることはどれだけ愚かしいことか。
今はまさしく分岐点。
自分に直接的に利害の及ぶ問題に対しては、かなり敏感に反応する、直接的利害の及ばない問題に対しては、権力政府に一任、マスコミ報道がそのまま耳に入り、無条件に受け入れる。
議論することは,敵味方に分かれることなので、今の関係を壊したくないから、分かっていても、表面的には相手に反論し議論しようとはしない。情感的なつながりはあるが、個と個の本当の信頼関係は築かれない。直接話し合うことはしないで、スマホなどの通信機器で無機質な会話を続ける。スマホがなければ生活が成り立たなくなってしまう。
個と個が切磋琢磨しないで、小さな個に入り込んでいては、大きな流れに乗れず、社会から脱落していく。
このような人の集団が大きくなっていくと、社会に活気が薄れ、退廃的な流れが支配し、一部の支配者が富を独占してしまう。そんな社会を望まないのであれば、皆がおきな声で今の流れに棹ささなければ、何も変わらない。私たち年寄りの多くは、現状を変えようとはしない。若い人が頑張らなければ、頑張る人がいない。現状を肯定も否定もしないで、流れを流れとするような変な悟りは、生活保護に違和感が薄れてしまう。
>>2
言論はいくらでも賛成反対大いに自由にやるべきでしょう。孫崎サンのご意見によると、原発反対に対する反対の意見が多すぎると仰っているように思えます。外国を例にとるのは、外国かぶれと言われそうですが、米国でも中国でも、強烈な反対意見、また、反対意見に対する強烈な反対意見も日常茶飯事。皆さん「口角に泡」の状態ですよ。中には、米国政府の徴税に反対して組織的に納税拒否したり、果ては大統領暗殺、政府の建物を爆破することもやっていますから。
>>10
原発に関しては、一般国民(原発村と関係のない者)の感覚からすると、「大丈夫、大丈夫。日本のエネルギーストラテジーから考えるとこれしかないから。何万年に一回の確率でしか大きな事故なんて起こらないんだから。」と仰っていた方々が、福島の事故が起こってからは、「想定外だったんだよ~。仕方がないじゃないか。いじめるなよ。」と当初やや下手に出ていたが、時間が経ち長年の原発プロパガンダの甲斐もあって国民の反対熱が冷めてくるとだんだんあなたのように語気を強めてきている。私が一番胡散臭いと思うのは、原発推進者は日本の将来のことなどあまり関心がないであろうという点です。テレビによく出てくる経済評論家と同様に、単に個々のイデオロギー論争に終始している。そもそも「アベノミクス」なんて新しい経済理論でも何でもない。「いつやるの?今でしょ!」と同じでしょ。くだらない。東京電力、その下請け、孫請けまで事故前は地元の名士、権力者だったのが、事故後から身から出た錆のせいで黒いイメージが付きまとい、威張ることができなくなった。その現実が受け入れられない。ただそれだけ。それと、あなたは科学者の言うことをよく引用されますが、私もアカデミックな世界に生きる人間ですが、政治家多いですよ。純粋な研究者なんてほんの一握りですよ。それとあなたのいうことも一理あると思いますが、①反孫崎、②現状維持派、にまとめられてしまう気がしますが、もっと建設的な意見はありませんか?