東京都知事選挙の最大の争点を何故原発再稼働阻止としなければならないか
1: 何故都知事選挙で原発問題が重要か
東京都知事選挙は都行政の在り方を問う選挙である。
その中で何故、原発再稼働を最重要争点としなければならないか。
今の自民党は原発を再稼働と述べて政権をとった訳でない。
逆である。
2012年の衆議院選挙で、原子力発電所に対してどのような選挙公約をして、選挙に勝利したか。
「原子力に依存しなくてもよい経済社会構造の確立を目指します。」
脱原発と言う印象を与えて選挙に勝ったのである。
そして、今安倍政権は再稼働に向けて着々と進めている。
① 政府は基本的に原発再稼働を是認するエネルギー政策を新たに作成しようとしている。
「経済産業省は12月13日、国のエネルギー政策の中長期的な方向を示すエネルギー基本計画案をまとめた。原発を“基盤となる重要なベー
コメント
コメントを書く沖縄得に名護市民は、沖縄基地偏重依存と基地地位協定の不平等な条約に怒りをぶつけて勝利しました。国、県の包囲網と札束攻勢にもかかわらず、一致団結したことは、特筆すべきであり、国民主権は、このようにして勝ち取るのだという見本になりました。
一方、本土、東京の取り組みは、国民主権を取り戻そうという執念が全く感じられない。東京の一番大きな問題は、基地にしろ、原発にしろ他人事として捕らえている人が極めて多いといえる。
自分に直接降りかかる問題、例えば、都内に原発を設置するとしたらものすごい反対運動が起きるでしょう。しかし、原発被害について、東京から離れていれば、東京に直接的な被害が及ばないと考える人が多い。安全神話をいまだ信じて、経済的利益を優先させてしまう。
沖縄の人たちの必死さが、細川陣営、宇都宮陣営に欠落し、一本化が進まなかった。原発より、己の理念のほうを優先させたのである。都民の6割が原発のテーマを賛成しており、原発を取り上げるのは失敗でなかったといえる。しかし、当初から孫崎さんも懸念しておられたとおり、一本化が進まず、都民も己の理念に基づき投票すると、原発意識が増せば増すほど、細川、宇都宮分散化傾向がますことになりかねない。
「騙されていることを選択している」は結果論的な指摘です。「政官財癒着」ムラによる国民支配は、筆者には想像もつかない巧妙かつ強烈なものがあります。多くの国民は「騙された振りを」しているのです。自身に災いが及ばないように…。次回はその辺をきちんと思慮したブロマガを頂きたい。
坂井は、「原発の最大の問題は地震である。東電福島原発事故後、地震から津波まで原発に何が起こったかを隠し、これを十分に調査することなく、再稼働しようとしている。原発は配管の塊。一基あたり約5万本、総延長120キロ。冷却水は必須」と言う。
「一基あたり約5万本、総延長120キロ」であるかどうかは別として、(A)「原発の最大の問題は地震である」、(B)「原発は配管の塊」と言う意見には同意する。
ただし、「東電福島原発事故後、地震から津波まで原発に何が起こったかを隠し」という意見は不正確であろう。なぜならすでに膨大な報告がなされているから。「これを十分に調査することなく、再稼働しようとしている」という意見は、どこまでやったら充分な調査であるかが示せれていない限り、無意味である。いくら報道しても、まだ不十分だと言うことはかのうであるから。
「配管の塊」であるからなぜ原発は危険なのか坂井は説明していないので、配管の多さがなぜ危険なのか読者には理解できない。また、東電福島原発で発生した水素爆発の発生原因は、配管の故障ではなく、冷却ポンプが稼働しなかったからである。配管が多ければ配管事故による故障の確立が高いというだけでは、ほとんど無意味の議論である。
東京都知事選で原発を争点とすることは当然だと思います。TEPCOは東京都で使う電気を作るのに原発を他県に持っていき、その地で大きな事故を起こした。東京は日本の首都で日本で最もたくさん電気を使う自治体です。都民は原発に対する責任を政治に押し付けるのではなく、自分の問題として考えるべき。
福島の原発事故の責任の一端を東京都民も背負っているのです。
> 放射線被ばくの不安におびえる住民を置き去りにし、記者が逃げ出していいのか。
思い出したのが、スペイン内戦で反ファシスト義勇兵として戦った体験を綴ったG・オーウェルの「カタロニア賛歌」です-
「戦争のいちばん恐ろしい特徴のひとつはあらゆる戦争宣伝、あらゆる絶叫や、嘘や、憎悪が、いつもきまって、直接戦っていない連中から生まれる、ということだ...我々に反対のパンフレットを書いたり、新聞でわれわれをけなしつけたりする連中は、ひとり残らず、ぬくぬくと本国に腰を落ち着けているか...弾丸や泥からは何百マイルも離れたヴァレンシアの新聞社にとどまっているのだった。そして...お決まりのあらゆる戦争記事も...例によって...銃をとるくらいなら、いっそ百マイルでも逃げるほうがまし、と心得ているような連中によって書かれたものだのだ。この戦争の、いちばんやりきれない結果のひとつは、それが、左翼の新聞にしても右翼の新聞と同じで、どれもこれもいんちきでうそつきである、ということを私に教えてくれたことだった。」
一方、
> ではメディアはどうすべきだったのか。
以下、著者の指摘は全くその通りと思いますが、その前に、「逃げた」記者たちの中で、後ろめたい気持ちを抱いている人がどれだけいるでしょうか。案外、皆ケロッとしているのではないですか。
「頭では分かっているが、怖くて体がついていかない」軽症?ならば、著者の処方箋は効き目がありそうですが、元々「頭でも分かっていない」重症の場合、被曝地の住民を「どうでもいいアカの他人」と感じる感覚を治すことから始めねばダメでしょう。
誰もジャーナリストなんかの命を守ってくれないんだから、自分で守るのは当然ですよね。頭でわかっていれば十分です。
でも記憶が戻ればもう逃げられないんじゃないでしょうか?本当の人間は誰でも自分のやるべきことや自分の進むべき道は、頭で考えるのではなく自然とわかるものです。その声が聞こえる人間はそれを否定するのが難しい。
記者が現場から退散したことが、話題になっているようだ。
メディアの使命は、「何時 何処で、何が」起きているかを、読者に伝えることではないか。
この基本的なことすら放棄して、体制にとって都合の良い話題を取り上げ、都合の悪い話題は、カットしたり、取り上げなかったりする。
ただ、命に関する情報は、記者だけ知っていて、読者には報道しないというのは、人間としての倫理観に欠けるのではないか。社の方針で退散,避難することは否定しないが、避難しなければならないような危険な情況であることを、読者に最低限のこととして知らさなければならないのではないか。無責任すぎるし、危険を喚起する義務があると思う。
記者も、学校の教師も普通の人間だよ。「人間としての倫理観」て、それは何?豚の倫理観とどう違うの?人間って豚より偉いのかねぇ。なぜ?他人のお金を盗んだり、他人を殺したりしないというのが、倫理観なのかね。自分が知ったことをどこまで書くかは記者の自由でしょ。職業なんてものは、雇用契約に基づききめられたあるサービスや労力を提供してお金を支払って貰うという動作を定常的に行うというだけじゃないの?知っていることをすべて書かなかったことについて雇用者からとがめられることはあるかもしれないが、それは雇用契約契約に違反する範囲であろう。倫理観なる摩訶不思議なものが組み込まれれいるのかな?その罪で記者は法律的に裁かれることも無いだろう。虚偽報道で他者が損害を被ればべつだが。