松井久子監督は次の作品を手掛けている。
1998年、吉目木晴彦の芥川賞受賞(1993年)の小説『寂寥郊野』を原作に、新藤兼人が脚本を担当した、戦争花嫁として国際結婚をしてアメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュに在住、晩年にアルツハイマー症を発症した日本人女性を描いた「ユキエ」で、監督デビューした。
第二作「折り梅」(2001年)も、やはりアルツハイマー症の女性高齢者とそれを介護する嫁の実話、
第三作は、彫刻家イサム・ノグチの母レオニー・ギルモアを描いた日米合作映画の「レオニー」。
そして、今「憲法」の映画を作ろうとしている。
日本の政治の危機を前に、いまこそ「憲法」に関する映画を作らねばならないと思っている。
憲法は次の条文を持つ。
「第99条天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
では、松井
コメント
コメントを書くネトウヨは私のことを九条教徒だと嘲笑します。
私の宗教は浄土真宗五木寛之派です。住職見習いの私の姪にも冗談でなく私が五木寛之派だということを明言して承認を余した。でも、私は浄土真宗徒としてより九条教徒としての自分に誇りを感じます。
ささやかですが、カンパします。
余談ですが、レオニーはアイルランド系の小柄な美人ですね。その息子イサム野口は母親似のハンサムな国際彫刻家です。彼は単なる芸術家でなく抗日運動の闘士である張学良にも会ったりして国際問題にも深い関心を持っていたんです。好きな人物の一人です。
民主党は、国民不在という点では、自民党とどこが違うのか?
国民の選択を自分勝手に無視し、仲間内でいがみ合い、勝手に党を瓦解させてしまった。選挙で国民から徹底的排除されたのに、いまだ、反省して今後の方向付けができない。ものの見方、考え方が違い、一つの党にお互いとどまるのが難しいことが分かっていながら分党しない。党内右派の人が望んでいるのに、あっさり別れられない党執行部、岡田氏では、民主党が再起できない。理屈っぽいが、優柔不断な人間の集まりでは、再度の政権奪回は出ない。孫崎さんのお話のように分かれたらよいのに別れられない、残念ながら、情けない人たちの集まりではないか。
残念ながら日本の現状は-
「政治に無関心」である
「政治」は自分とは関係ない
「憲法」についてしっかり考えたことはない
将来、国民投票で「護憲」か?「改憲」か?「護憲的改憲」か?と問われても分からない
憲法こそ政府の権力を制限するためのもの、と言われてもよく分からない
という人が大半でないでしょうか。だからこそこうした映画を作ろうと決意されたのでしょう。
それくらい政治も憲法も一般国民にとって ずーっと馴染みの無いものにされ続けてきたと思います。
それがこの国の政治を仕切ってきた勢力の狙いだから-と考えると辻褄が合うことばかりです。
今サイドバーに表示のツイート"憲法・平賀健さん「自民案憲法。前文、われらは、米国への土下座とお追従で生き抜くことを決意した。第一条、日本国は米国に隷属する。以上、終わり」"
まさにこれに向かって日本人は戦後この方 骨抜きにされてきたことに思い至ります。何故この国の殆どのエリートは抗わなかったのか。それとも漸くこれから反撃が始まるのでしょうか。昔、職場の若手が「東大生を変えなきゃダメですよ」と言ってましたが、実は孫崎さんも周りの東大生に幻滅して、さっさと東大から足を洗われた口でしょうか?!
マスコミも東大生から卒業した方がいいのではないか?知性だってマスコミよりすぐれているとは思わない。性根がねじ曲がっているだけマスコミの方がマシともいえる。まあ喧嘩するつもりもないけれど、まともに相手にする必要はない気がする。
意味が分かりにくいが他力本願のことをいっているのか?それは憲法とは真逆ではないのか?そういう意味では法は権力を守るものだ。いつの時代もそうだったし、法が権力を縛ったことなどあるのか?法はいつもそれを司るものの道具に過ぎない。既存の権力が形骸化するのは、誰が見てもそれを超えるものが存在するときのみだ。それがないと嘆く暇があったら、自分で超えてみせればいい。