組織と個人。生徒と先生との対話による解決。
 親と子供、社長と社員、対立を解決へと両者の努力で導くことはできるのか。

一緒に考えてください。


(2回目)


【1回目の内容】

全校生徒による耐寒訓練ボイコット事件を新聞記事から紹介。
この小さな事件を、いまさら、ではあるが、いま、書き残しておこうと思った。

ひとつは、当事者の一人、中村幸宏が舌癌で7年前に死んでしまったこと。
ベーシストだった彼の残したベースラインを書き残しておきたかったため。
もうひとつは、たとえ学校には不名誉な事件であっても、春日井高校の校史として誰かが書き残すべきだと考えたからである。


==吹き荒れる管理教育の嵐==


1980年、愛知県には新設高校を中心とした管理教育の嵐が吹き荒れていた。

生徒の自殺が相次いだ。愛知の行き過ぎた管理教育は社会問題となる。

1980年2月には週刊プレイボーイで
「今、高校生に襲い掛かるファッショの嵐」
と特集。東郷高校はT高校との表現で掲載された。

1982年7月にNHKは「愛知の教育を考える」を放映。
宇治芳雄の「禁断の教育」を1981年9月に発表。管理教育を告発した。

その後、当時の東海高校の生徒の藤井誠二の「おいコラ!学校」(84年)がベストセラーになった。
学校が生徒へ行った洗脳教育の手法や生徒への恒常的な暴力が生々しく描かれている。

春日井高校は新設校ではなかったが、じわり、じわりと周辺高校の管理思想の影響を受ける。

実際、僕たち生徒はどんどん厳しくなる規則に辟易としていた。


「ゲームセンター事件」が起こる。

放課後に繁華街のゲームセンターに入り浸っていた生徒数人を生活指導部の先生方が補導するという事件であった。
まあ、たばこを吸っていたのはいけなかったのかもしれないが、学校の外の話。
捕まった生徒たちは、一週間、校庭の草むしりをする羽目となった。
僕はこのことを歌にして反抗した。


さらに、頭髪事件が起こる。

服装検査という検査が急に始まったのだ。
校門前で生活指導の先生方が、生徒を呼び止める。
スカートが長すぎる、化粧がいけない、学生服のカラーが外されている、
など、服装の乱れは心の乱れというスローガンで始まった。
僕はこのことも歌にして反抗した。


事の発端となったコーヒー牛乳の自動販売機。

学校で飲むコーヒー牛乳が楽しみだったのに、ある日突然、夏休みが終わった途端、白牛乳だけになってしまったのである!

生徒は騒然。
え?なんで? おい、どうしてだよ!

生徒が先生に理由を尋ねる。
理由は「コーヒーは健康に悪い」であった。

憤りしかない。
コーヒー牛乳を飲む自由を取り戻す。
僕たちのささやかな戦いが始まったのである。


===戦いの始まり。中村幸宏という男のとった髭ボウボウ作戦===


「頭髪」検査に反抗して、幸宏は「髭」を伸ばした。
「髭」は「頭髪」ではない。

それでも、学校からは「髭」を剃れと言われていたが、そのとき、学校に対して幸宏はこう返した。

「髭はなぜか生えてくるんですよ。剃ってもまた生えてくる。キリがないでしょう」
学校にすれば問題行動であった。

髭を伸ばしてジャズを聞いていた幸宏はもう大人の雰囲気を漂わせていた。
ベースが飛び切りうまい。彼の弾くチョッパーは高校生離れしていた。
学校帰りはDo Musicというスタジオでバンドの練習をしていた。

幸宏は制服のカラーを外して、ボタンを閉めないで、髪の毛を少し浮かせていたのだが、髭は濃かった。

幸宏に勇気付けられた僕らは、反撃に出る。

「指導部なんかぶっとばせ!」というジャズ風の曲を作り昼休みに放送。
曲のアレンジは幸宏であった。生徒の反骨精神を鼓舞。
放送部の部長は林。後輩だが信念のある男だった。

(歌詞は、「一体全体、どうしたわけだ?生徒はいつも苦しんで。。。これじゃ嫌になっちゃうぜ。指導部なんかぶっとばせ!!」。)

さらに、規則の虚しさをロックにした「なんちゅうふうだ」という曲を文化祭で広めた。

(歌詞は、「希望に燃えて夢を求めてこの学校に来たけれど、なんじゃらこんじゃら、がっかり後悔、お家に帰りたい。。。」)


1980年の秋の文化祭。

幸弘のベースラインが小気味よく弾ける。流れるカウンターライン。
富也と僕は、それに飛び乗る。
音楽室で行ったライブだった。
17才の僕らは汗だくになって、叫び続けた。
「生活指導部なんか、ぶっとばせ!」と。

(注意:生活指導部というのは、生活指導室という詰所に控える体育会系の体格のよい数人の教師の集団であり生徒の頭髪検査などを統括していた。)


===バンドメンバーの生徒会への立候補===


僕らが教室でたむろしていると、サイドギター担当の久野が、次の生徒会に立候補をし学校を変えたいという。

教室の黒板で、有志が集まって、あみだくじ。
適当に会長、副会長、書記、会計などを決めた。

まるで勉強ができない劣等生たちが生徒会に全員当選した。
しかも得票率9割という圧倒的な支持を得た。

なにせ、生徒会立候補の演説の代わりに「ロック」を演奏してしまったのだから。

その内容の過激さから生活指導部の先生によってすぐにマイクの電源は切られてしまったが、聴衆には熱が伝わった。

歌のベースラインはすべて幸宏がユニークに作った。
ドライブするベースラインでみんながノリノリになる。

今度の生徒会は学校と戦う生徒会なんだ。
みんなの期待を一身に背負った。

ターゲットは制服検査。こいつをまず、やめさせる。
僕は髪の毛の色などはどうでもよいと思っていたし人権の侵害ではないかと思っていた。
校門に先生たちが立って、女子生徒のスカートの長さや前髪の長さをチェック。
ひどい場合はハサミが登場した。

これは心情として許せなかった。

自由な校風の学校は、こんな検査はやらない。
管理教育に染まった先生の一部が急に他の学校を真似してしまったのだ。

教室に入ると服装検査に慣れていない生徒たちがプンプンに怒っている。
女子は特に反抗した。

服装検査は先生ではなく、生徒が自主的にやることを生徒会で決議。
評議会でも議決した。

先生に要望を伝えた。
が、何も変わらない。


===ボイコット前夜===


ボイコット作戦は富也が指揮した。成績学年トップクラスであった。

4月に配られた年間行事表をとってあったのだ。
1月29日、生徒会議会の前日に、富也は興奮していた。

「おい、見つけたぞ」。

富也は得意げであった。彼の右手にはピラピラとB4のわら半紙。
1980年度の春日井高校の年間行事予定表であった。

耐寒訓練は年間の行事表には載っていなかったのだ。
つまり、これは生活指導部の思いつきにすぎないということを示していた。
恣意的な力が働いて、耐寒訓練が急遽実施される。

春日井高校では学校行事は生徒会の主催であった。
耐寒マラソンは生徒会の主催ではなく学校主催なのだという。

僕らは学校主催ではなく、生徒会主催であるべきだと主張した。
そのためには、拙速な訓練を中止し、やるにしても生徒主体の来年度からの実施を要請した。

そうでなければ、先輩たちが築いてきた自由な校風が死んでしまう。


この富也のファインプレーによって、全クラスが集う生徒会議で、全クラスの評議員が憤慨してボイコットに賛同したのである。

僕らは耐寒訓練をボイコットすることを決議して、耐寒訓練の当日を迎えた。


===ボイコット当日のこと===


1981年の2月2日ボイコット当日の朝はよく晴れていた。

朝7時半、チャリンコを駆って僕は高校へ急ぐ。
僕は名古屋市とはいえ、北の端っこの守山区の高島町から、松河戸橋を渡る。
そこは一面の畑。あぜ道を突っ切ると春日井市立中部中学を右手に見て通りすぎる。
あとは、中央線の無人踏切をわたり、愛知県立春日井高校はすぐだ。

チャリで10分の行程である。

ちょうど、春日井高校の東に位置する正門前では、生徒会議長の富也が重たそうにアンプやマイクを搬送していた。
アンプを持つのを手伝って、富也の2年1組の教室にアンプとマイクは隠す。


午前8時前、放送部の部長の林が、僕を放送室に通す。

先生方がかけつけても放送室には入れないように入り口をロックアウトした。
林は、入念に、全校放送の準備をしているが、故意に職員室にだけ放送が流れないようにした。

「山本さん、こうすると職員室には放送は流れないですよ。
職員会議で先生方はこの時間は職員室にいます。
放送するならいま、このタイミングしかない。」

放送室から職員室のスイッチだけをオフにして、僕の放送は始まった。

これが愛知県教育委員会の主張した「公共の施設を占有しての扇動」だ。

わたしたちの行動は「計画的で極めて悪質」であると愛知県の教育委員会は決めつけた。


「お知らせいたします。生徒会議会において、本日放課後に予定されていた耐寒マラソンは無効となりました。つまり、中止です。
放課後に、全校集会を中庭にて開催いたします。全校生徒のみなさま、耐寒マラソンは中止します。放課後は全校集会のため中庭に集まってください。」


幸い、先生方は放送室に飛んではこなかった。

職員室にはいかないでクラスで放送を聞いていた先生方もいらっしゃったが、容認してくれた。

「ほう、生徒会か。面白いやないか」
と言ってくれた先生もいた。


すぐに放送室を出た。
富也と僕と幸宏は1年1組からオルグに回る。他の役員も総出でオルグした。

先生の指示を無視して(先生を振り切って)、マラソンに参加しないで、中庭に集まるようにと。

「このまま学校の言いなりになれば、君たちはダサいヘルメット通学になるぞ」
と。

ただならぬ生徒会役員の気迫あふれるオルグに一年生たちは、ただ、うんうんとうなづいてくれた。

クラス担任がすでにいるクラスもあり、僕らのオルグを先生方はよく聞いてくれた。そして、僕らの行為を容認してくれた。


そして、放課後。
先生たちを振り切って、僕らは中庭に集まった。

野球部の主軸3番バッターの原科が
「おーい、来たぞう!途中で(野球部顧問の)饅頭(服部先生のあだ名)がいたから、心臓ばくばくだよ」。

僕は感謝の印として「来てくれてありがとう」といった。

こうしてボイコットは成功した。
先生の呼びかけを振り切り、中庭に全校生徒の3分の2の生徒が集結した。

僕は集会のアンプの電源を2年3組のH先生のクラスのコンセントからとろうとした。
しかし、H先生は、コンセントの前に立ちふさがって、それをさせない。
H先生の担任クラスのコンセントを使われるとボイコットに加担することになるというのがその拒否の理由だ。

僕は諦めて、隣の2組から電源を引いた。
H先生に隣のクラスならいいのかと聞くと、それは知らないという。

僕は、こういう二枚舌の人間にはなりたくないと思った。


幸宏は集まった生徒たちを見て満足していた。
生徒会の役員たちが、マイクを持ち、「いい天気だねえ」とのんきに演説した。

特に新聞記事にあったような、明日以降もボイコットを続けようと意思統一したということではない。
集まって、みんな、よく来たねで終わりにしたのだ。なんの要求もせずに。


山本八郎校長は、勇敢にも一人で集会に乗り込んできた。
激怒のあまり、右コメカミに青筋が浮き出ていた。

中庭に集まった500人を超える生徒たちを前にして、さすが校長。
「中止中止」と大声で怒鳴っている。

「おい、何を勝手にやっとるんだ。解散しなさい。こら、誰だ、これを扇動したやつ、誰だ!」
と続けた。

怒り心頭のあまり、どもっていた。


僕は校舎をよじ登って、2組の窓枠に立った。
そして、有りっ丈の声で叫ぶ。

「校長先生、僕らは僕らで物事を決めることにしたんだ!学校は生徒のものだ!」

集まった生徒たちはやんやの大喝采である。
そのとき、生徒たちが、ザザッ、ザザッという音で校長を取り囲む。

校長は、僕を下ろそうと窓まで近づこうとしたが、周りの生徒たちが校長を完全に取り囲んでしまった。

校長は、悔しそうに声を張り上げた。

「おい、お前が扇動したんだな、お前だな!お前には校舎に触る資格はない。お前は退学だ!!」

生徒がズッズと校長を取り囲み、身の危険を感じた校長を生活指導部の先生方が体を張って救助する。

生活指導部長が、
「な、な、お前たち、話し合おう。話せばわかる。どうだ、いまから体育館へ行かないか?」
と述べた。


当日の夜遅くまで職員室には先生方が残ってくださった。
先生同士の話し合いの内容はわからないが、深夜まで激論が続いた。

富也と幸宏と僕は、夜10時ごろ校庭から職員室の中を覗いていた。


===ボイコット翌日 1981年2月3日 春日井高校===


先生方は疲労の色は隠せなかったが、授業は行われた。

約束通り、生徒会と校長との話し合いは行われた。
冒頭、山本八郎校長は、僕たちに「冷静にいこう」とおっしゃった。


===1981年2月4日 中日新聞記事 (原文そのまま)===


(大見出し)耐寒訓練の春日井高 事態収拾へ動く
(小見出し)学校と生徒代表話し合い
(記事)
【春日井】
耐寒訓練を生徒がボイコットした愛知県春日井市の県立春日井高校(山本八郎校長)で三日放課後、事態収拾のため生徒代表と学校との話し合いが行われた。
席上、学校側は学校行事については生徒たちの意見を十分に聞くと約束したうえで延期している耐寒訓練を再開するとの意思を伝えた。
生徒たちは四日、各クラスでホームルームを開き、話し合いの内容を伝え、クラスの意見をまとめた上、再び学校側と話し合うことになったが、大勢は収拾に大きく動き出した。

この日の話し合いに参加したのは生徒側が一、二年生十八クラスの代表二人ずつ、生徒会役員八人の計四十四人。
学校側は校長、教頭、学年主任ら八人。
話し合いは放課後午後三時三十分から二時間半にわたり行われた。
「事態収拾のため感情的にならず話し合おう」と山本校長が切り出し、生徒の質問に学校側が答えるという一問一答形式で進められた。

この中で生徒の「学校行事に生徒たちの意見は反映させられないのか」の質問に対し、学校側は「生徒の意見は十分聞く。とり入れられない場合は、納得のいく説明をする」と答えた。
さらに、学校側は今後も話し合いの場をつくるなども約束した。

この後、学校側が「耐寒訓練を再開したいので、クラスに帰ってみんなの意見を聞いてきてほしい」と提案、生徒代表も了承した。
同校では四日の授業を五分間ずつ短縮、午後約三十分のホームルームの時間を設け、クラスごとに生徒たちと話し合った後、同日放課後、もう一度、生徒代表と学校側と話し合うことになった。

(山本八郎校長の話)
父兄のみなさんもかなり心配しているようなので早く収拾したい。
生徒たちが間違っていることははっきり指摘するが、意見は十分聞いてやりたい。今回のボイコットに対しては当面処罰は考えていない。

(生徒代表の話)
いままで学校側は生徒の意見を無視し続けてきたが、今回の話し合いで機会があるごとに生徒と学校との話し合いの場を設けてくれると言っており、評価している。学校側が熱意を見せており、問題の収拾を図りたい。



===僕らは早期収拾を図った===


ルールはルール。逆らった奴が悪い。
これが管理教育の根っこにある思想であった。
でも、それは教育とはいえない。

先生方は、頭ごなしではなく、生徒との話し合いの場を設けた。
それだけではなく、連日、夜遅くまで議論をされていた。

幸宏と僕は、深夜まで先生たちは会議している現場を校庭からチャリに乗って眺めていた。

僕たちの中に自然に溢れ出た思いは
「先生たちに、こんな深夜まで会議させて、申し訳ない」
という感情であった。

幸宏と僕は目を合わせた。
「引くところは引かなければならない」。

学校と生徒は上下の関係だ。
上下の関係だからこそ、話し合いは重要であった。

県教育委員会から毅然とした態度をとれと指示されていた山本八郎校長であったが、彼の英断で、僕らは退学にならなかった。


P.S.

1982年。卒業を控えた僕たちは、愛知県教育委委員会を「偏差値怪獣」と命名し、「偏差値怪獣にねりわさび光線をあびせる会」を結成した。
「ねりわさび」とは、僕たちの作成した雑誌名。「ねりたてのからさ」が売りであった。
習熟度クラスに反対、賛成のアンケートを実施。圧倒的な生徒が反対を表明していた。

富也は、学年トップの秀才で、どの大学にもいける学力があった。
なぜか地元の私学に第一志望で工学博士となり、いま、某大学で工学教授をしている。

あのボイコット事件を思い出すとき、幸宏のベースラインが鳴り響く。
音楽室。体育館。公民館のホール。Do Musicのスタジオ。

僕らは卒業後もライブをした。
大学生のときは幸宏とはジャズライブハウス「Aトレイン」に通ったものだ。

幸弘は、生協でロジスティクスを担当していたが、残念ながら、2010年6月1日46歳の若さにも関わらず舌癌により死去。

幸宏は昭和38年12月16日生まれ。
春日井市立東部中学を卒業後、春日井高校へ進学した。

1981年2月2日。
幸宏もまた、退学覚悟であったし、僕たち全員、退学覚悟であった。

服装検査に抗議する幸宏の勇気ある「髭ボーボー作戦」から、僕らの反撃は始まった。
「髭はなぜか生えてくるんですよ。剃ってもまた生えてくる。キリがないでしょう」と幸宏は主張し、学校と対決した。


36年後、2017年の我が母校、愛知県立春日井高校。
ボイコットの集会を決行した中庭。その西側に校舎をつなぐ渡り廊下がある。
渡り廊下の下に飲料の自動販売機が設置されている。


自動販売機は、当時のガラス瓶ではない。
紙パックジュースが並ぶ。MEIJIの乳製品群だ。

白牛乳だけではなく、いちご、バナナ、コーヒーなどの様々な豊かな飲料が並ぶ。
後輩たちは、少なくとも自動販売機に関しては、「自由」を謳歌している。

この自由は、当たり前のものではない。勝ち取った自由なのだ。


日本株ファンドマネジャー
山本 潤


【お知らせ】

土曜日の午後3時のティータイムに東京都文京区で数学のサークル開催中です。
数学の博士たちが社会人や学生相手に数学の基礎を講義、演習します。

数学は学問の基礎です。
高校数学を忘れてしまった方、これから数学を勉強しようかなと考えている人、
ちょっと覗きにきてください。
勉強後に軽い飲み会もあります。

無限の世界が広がります。
老後の趣味に、学び直しに。
希望者はおしらせください。初心者、文系の方、大歓迎!
okuchika.mail@gmail.com まで。


(情報提供を目的にしており内容を保証したわけではありません。投資に関しては御自身の責任と判断で願います。万が一、事実と異なる内容により、読者の皆様が損失を被っても筆者および発行者は一切の責任を負いません。)


山本潤氏の過去コラム → http://okuchika.jugem.jp/?cid=6