第272号 2018.6.5発行
「小林よしのりライジング」
【今週のお知らせ】
第279回「『謝ったら死ぬ病気』に罹るな!」
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>>119 tasuuさん
レスいただき、ありがとうございます。
端的に申しますと、「セクハラ」や「性的からかい」について、ご自身の周囲の日常という範囲でしか捉えられていないのではないか、という気がしました。
実際に目撃されたことがあるのかもしれませんが、それで「一般論」を語るのは無理があります。
『ゴー宣』でも書かれているように、福田前事務次官の「セクハラ」は職場では何とも思っておらず、福田は優秀な事務次官として部下から慕われていた、とのことです。
そういう「現場」は、そこら中にある、ということは「想像」できる必要があります。
「セクハラ問題」の報道の一環で、街行く女性に「セクハラを受けたことがありますか?」というインタビューが放送されており、その中で女性達は「しょっちゅう、上司に下着の色を聞かれる」「飲み会で脚を触られた」とあっけらかんと顔出しで回答していました。
彼女たちにとっては、何らトラウマを感じるものでもないのでしょう。
こういう実例があるから、「セクハラ」の可否はTPOによって千差万別、としか言いようがないのです。
「原則禁止」というのは、言われた側が「不快」であれば、ということでしょうか?
それは単に「不道徳」「マナー違反」ということであり、それと「原則禁止」というのでは随分と意味において差があります。
よしりん先生は、「不道徳」ならば相手にその旨を指摘して、自分の言動が「恥」だったと気付かせるプロセスを経る必要がある、と主張されています。
自己を省みたり、釈明する機会すら与えずに、「原則禁止」と断じてしまうのは、もはや「一律禁止」と同じ事になります。
そして、我々が「現実的な周囲の日常」だけに囚われて、「セクハラ」を「原則禁止」と断じてしまうという動きは、寄せ集まって大きなうねりとなり、結果的には「芸術・文化」という世界で生きる才人を排除することに繋がってしまいます。
よしりん先生や木蘭先生が、さんざん訴えておられるのは、そういうことでしょう。
そんなの、小市民には想像することが難しいですか?
いやいや、我々は「不倫」という「不道徳」に必要以上に反応して、山尾志桜里という才人を議員の座から追い落とす寸前にまで到ったではありませんか。
小市民の「周囲の日常」は、場合によっては視野がえらく狭まっていることがありうるわけですよ。
もし、「セクハラ」が「原則禁止」になれば、真っ先に思いつくのは、桑田佳祐は今までのようなパフォーマンスが出来なくなるな、ということです。
実際には「明るく笑えるエロパフォーマンス」であっても、「セクハラ」を誘発する可能性がある、と指摘されればそれでお終いです。
よしりん先生が、「セクハラ罪」なんてものが成立すれば「内心の自由」が束縛される、と主張されたのは、そういう意味でしょう。
いや、そこまで規制する意図はない、と言われても、「原則禁止」が定められればそこまで行き着いてしまうと思います。
アメリカの「外見で判断しないミスコン」という、笑えないジョークが好例でしょうかね。
結局、不道徳か否かについて、常に「TPO」が準拠となるからこそ、人間のコミュニケーションは多種多様に変化しながら続いていく、ということだと思います。
平安時代の日本では、男は女の元に夜這いしていましたが、これは今の時代では当然NGでしょう。
では、当時の男性を「色狂い」と非難することができるでしょうか?
女性に対して「何故、声を上げない?」という疑問を投げかけられるでしょうか?
そういう「文化」のもとでの行為であり、それは時代によってその時々の人間が築き上げていくものだと思います。
「原則禁止」という発想は、「多様性」だけでなく、そうした「変化」すらも容認しない、という急進的な立場であるように感じます。
また、志村けんが『バカ殿様』で一時期を境に女性の裸を出すことをやめると決断したように、「時代性」を鑑みて、良識的な立場から方針を変えるということもあります。
志村けんは、そういうバランス感覚を持ち合わせているからこそ、幅広い世代に支持されているのでしょうが、要はそうした才人の「感覚」にある程度は任せてもよいのではないか、とも思います。
表現者はそういう「感覚」を研ぎ澄ませている方が多いでしょうし、そういう「変化」が徐々に人々の意識を変えていく(あるいは時代が変わっていく)ものなのではないでしょうか。
こうした観点においても、やはりタバコと「セクハラ」は異なります。
タバコが悪者扱いされたのは、健康被害が喧伝されたからでしょう。
それも「吸っている本人」だけではなく、傍にいる人間も副流煙の被害を受ける、という事実が明らかになったからであり、「文化」の変遷以前に「健康被害、まったなし」という切迫した状況が浮上したのだと思います。
今のような分煙体制が確立する遙か以前でも、食事や飲み会の席で「吸ってもいいですか?」と断るのは当たり前のマナーになっていました。
そういう意味では、「多数派に圧殺されてきた少数派」という構図には納得しかねます。
吸ってもいないのに煙の巻き添えになる、という事実が判明してからというもの、喫煙者に気を遣う非喫煙者というのは、私はほとんど見たことがありません。
私も当初は、テレ朝女性記者を擁護する内容の投稿を書き込みましたが、『ライジング』『辻説法』『ゴー宣』を読んですっかり変わってしまいました。
己の未熟さを恥じるばかり。
やはり「恥」を感じるのは、己の精進のために必要なのかなと思います。
「恥」は過去のもの、未来に向かって「意識」を変えていけばよいではないか、と。
そうやって「本人が変わる」可能性すら奪ってしまうから、「原則禁止」には全く賛成できません。
もう一つ追加で
セクハラというのは先生も書いていましたがパワハラと同列だと思います。ライジングでも先生がフランスの法律を紹介していました。
「ある人物が性的な快楽を得る目的で、自らの職務によって得られる権限を濫用し、命令、脅迫又は強制という手段を用いて、他者に対して執拗に嫌がらせを行う行為」
つまり絶対に反論できない立場の人間、弱い立場の人間に対して行う性的な嫌がらせということになります。
仲の良い女性に「やらせてよ」と冗談で言った場合と絶対に逆らえない上司が部下に「やらせろ」「今度家に行かせろ」というのは全然違う事象になるということですな。テレ朝では日常茶飯事で行われていそうですが…
パワハラがない状態の性的な言動を一律に罰するということになると、これは全体主義社会、密告社会になるしかありません。
常に盗聴器を携帯し、他人の言動を録音するしかありませんからね。
ただ、パワハラ自体も上司が善意で注意したことを部下がパワハラと認識したというケースも充分にあり得る話なので
法制化するのにかなり難しい話ではあると思います。
もうこれは社会人が一人一人、自分の言動に注意していくしかありませんね。
道場、お疲れ様でした。何とか裁判員漫画が、フィクションの形で実現することを祈ります。
「相棒」でも題材にできたのだから。
SPA!感想です。
長谷部という人が引き連れている群れが「白い巨塔」などに描かれている医師団のように見えました。ドクターXが現れたら、一挙に崩れてしまいそうな砂上の楼閣のようです。
ノーベル平和賞は、アンリ・デュナンの時はまだ権威や価値があったのでしょうが、これも時代を経るにつれ、文字通り墮落していったのでしょうか。第2回目以降の人が頭に浮かんできません。何の人々の幸福に貢献する人の居なかった年は、「該当者なし」としても良いと思います。
今週は発売されないのが残念ですが、その分、来週の号を期待します。
木蘭さんの記事とあまり関係ないかも知れませんが、昔、「アタックギャルギャル」というコーナーが某深夜番組にあったのを思い出しました。ただディスコで踊っている女の子にハイレグの水着を着せて踊らせるというだけのコーナーだったんですが、今の風潮では明らかにセクハラになってしまいますね。当時はばかなことをしていると思いつつ見ておりましたが、ああしたパワーが生まれない限り、マスコミの活力は復活しないと思います。
よしりん先生のされたように、外来語を漢語や和語でいいかえる工夫は大事だと理解しました。私たちは言葉によって、概念をどれだけ理解したか、を表現することができるのだから。ただ、本を正せば漢語も外来語で、中には日本語に訳しづらい概念もあるので(イデアとかアイデンティティとか、セレンディピティとかマクガフィンとか。ハードボイルドもそうだと思う)、なかなか難しいのでしょう。要は言葉とはその語を用いる人の情念によって左右されるもので、辞書の意味は参考でしかない、ということなのでしょうか。
でも、だからこそ、辞書で基本の意味を定義し、日本語化することで、恣意的な用法を少なくする努力は要るのだろうと思うのです。セクハラを拡大解釈して使用して行くと、バベルの塔になってしまいそうだから。そうしないと、私たちは言葉に責任を持てなくなってしまうとも感じます。常識とはそのような人間の共通認識や理解力から生まれるのではないのでしょうか。
憲法のことは專門家にまかせておけ、ではいつまでたっても常識は生まれず、専門知識は一部の特権階級の独占所有物で人目に触れずにやがては劣化し、蟲食い状態になってしまうのではないのでしょうか。蔵の中にしまってあるものも、天日で干さなければいけないのだ、ということを権威におもねる学者たちは学んで欲しいです。傘も使用したら、広げてほしておかないと、かびがはえて使えなくなります。
少し長くなりましたが、以上のようなことを考えてみました。
それでは、次回を期待します。
まあ9条に関しては
自衛隊の前身の警察予備隊がポツダム政令で誕生したことが混乱の火種でしょうな。
これは成立当初から憲法違反だと言われていましたが、占領軍の圧力でかわすことができました。
しかし独立回復後はポツダム命令は失効するために保安隊、自衛隊法に移っていき
政府は自衛隊は戦力にあたらずという
破茶滅茶な解釈を生み出したわけですな。
と歴史を振り返ると最初の段階が間違っていた。改憲をしておけば…になるわけですね…
九州ゴー宣道場、師範方、設営隊の皆さま大変お疲れ様でございました♪
m(__)m
後程レジュメと合わせて拝見します。
新潟県知事、自公支持の方が当選してしまいました。
(~_~;)
>>125M.Oさん
ご回答いただき、ありがとうございます。
おそらく、「煙草」や「芸能人の表現」等に関する部分は、認識と経験の違いから、議論が平行線になると思います。
しかし、『「本人が変わる」可能性すら奪ってしまうから、「原則禁止」には全く賛成できません。』という点は、全くおしゃる通りだと思いました。
私も、「『性的からかい』もある、人が成長可能な社会」と「『性的からかい』はないが、人の成長もない社会」なら前者を選びます。
コミュニケーションも含めた表現規制は、影響が大きいので難しいと思います。
「性的からかい」に対し、直接、拒絶出来ない人のためには、会社内に通報窓口を作ることで対応するしかないかと勝手に納得しています。
M.Oさん、ありがとうございました。
こんにチワワ。
もくれん師匠のトンデモ見聞録を読みまして。
SPA!デビューが袋とじとは…
やっぱ持ってますねぇ。
ライジングを通して師匠の書く文章の振れ幅の広さにいつも驚かされていますが、そんな危ない仕事もされていたんですねぇ。
しかし時給2000円換算とは…強かですねぇ。
たった十数年間でこれほどまでに表現の幅が狭まるとは恐ろしいことです。
今もまたセクハラ糾弾が先鋭化し、更に表現の自由は有名無実と化しそうな勢いです。
時代とともに価値観は変わる、というのはわかりますが、議論もなくヒステリーで変わるのはやはり受け容れ難いです。
笹さん考古学の方を学んでいたんですね。
復元された集落とかほぼ想像で任せられるから色々と更新されるとそれがまた否定されると言うことになるから考古学は面白いんですよね。
自分もどうやら謝ったら死ぬ病のようで、以前から妻に指摘されています。
たぶん家の外に出て、仕事になると謝ることはできると思います。
夫婦間では、軽い話題なら謝れるのに、肝心な時には絶対に謝れません。謝れないことを告白して理解してもらおうという作戦にでましたが、反応はいまいちでした。
自分にとってゴー宣は、情報源でありつつ、自分を省みる機会です。
ライジングは毎週配信なので、まだまだ理解も反省も追いつかない状況ですが背伸びしながらついていきたいです。
以前Q&Aコーナーで答えていただいたこともまだ消化できていませんし、お答えにあった、福沢諭吉の分限を知る、もまだ実感にいたらず、本を読むつもりです。福翁自伝を買って読みましたが、収穫は大きかったものの、分限のこととはあまり関係なく、学問のススメか文明論之概略を読まなければと思っています。