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 ぼくは普段あまりアルコールをたしなまない。

 どうにも気分よく酔えない体質だし、特に美味いとも思わないのだ。

 しかし、時には琥珀色の洋酒でも流しこみながら読んでみたいと思う小説がある。

 石田衣良の性愛小説『水を抱く』はまさにそんな不埒な一作。くらりと視界が歪むような酩酊感がこの作品にはふさわしい。

 石田はいままでにも何作か性を主題に据えた作品を物している。

 幾人もの女たちに体を売る娼「夫」の若者を主人公にした『娼年』と『逝年』の二部作がそうだし、大人の恋を描いた『夜の桃』もその系譜に位置付けられるだろう。

 『sex』という直截的なタイトルの短篇集もあるくらい。

 しかし、『水を抱く』はそのいずれとも違う。それでいて実に秀抜な仕上がりである。

 かぎりなくなめらかでありながらどこかに心さわぐざらつきを秘めた読み心地は、高価で贅沢な革張りの椅子のよう。

 読み進めるほどに昏い頽廃の夜を巡る懶惰なひと時を味わえる。小説を読む歓びである。

 主人公は国内屈指の医療機器メーカーに務める青年、伊藤俊也。

 その名前と同じく平凡な若者で、最近、恋人に別れを告げられたばかり。

 だが、かれの平和で退屈な日常は、ネットで知り合った凪という女と出逢ったことから呆気なく歪み、崩れてゆく。

 その紛れもなく破滅の予感を秘めた、それでいて底しれず蠱惑的な日々がこの小説の読みどころである。

 ひとはなぜときに破滅に魅いられ、危険に陶酔するのだろう。

 俊也はその先に待つものが凄惨なまでの地獄であると知りながら、どうしようもなくエロティックな深淵に堕ちてゆく。

 あたかも少女に採取されピンを打たれた蝶のように、かれの心は凪に釘付けにされてしまったのだ。

 くり返す快楽と頽廃の日々。刺激的なプレイの数々に惑溺するうち、俊也の日常はしだいに狂ってゆく。

 やがてビジネスとプライヴェートの双方で試練が訪れる。

 そして、それにもかかわらず俊也はさらに深く凪に溺れてゆくのだった――。

 石田衣良の描く性愛小説は、どんなに倒錯的なプレイを描き出しても小説としての品格が失われないところに特徴がある。

 それでいて、そこで活写される淫らで妖しい世界は、ひとを捉えて離さない邪な魅惑を秘めている。

 性教育の教科書では捉えきれない性愛のダークでビターな一面。

 倒錯と変質だけがもたらす刺激もまたあるということ。

 俊也は凪と知り合うことで、初めてその深淵のほんとうの深さを知る。

 危険とうらはらの快楽。

 ただペニスとヴァギナでつながるだけではなく、心のいちばん深いところをさらけ出して触れあうことの途方もない悦び。

 それはただコミュニケーションというにはあまりにあやういスタイルかもしれない。

 しかし、それでいてかれがいままでに経験してきたどうにもぱっとしない恋愛とは桁外れに刺激的な悦楽の形だった。

 いままで俊也が経験してきたベッドを共にしたその瞬間から色褪せてゆく恋とは異なり、凪は深く掘れば掘るほどに新しく湧き出てくる清冽な泉なのだった。

 ところが、彼女には大きな秘密があって――と、物語は続く。

 ここら辺りのストーリーテリングの技巧はやはり卓抜なものがある。

 とはいえ、それ以上に印象深いのは、繊細な言葉遣いで綴られる性愛の描写だろう。

 快楽とは薄められた苦痛であるに過ぎないといったのは誰だったか。