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※この記事は、およそ13分で読めます※

 おもちゃのカンヅメクルクル回ってまっ可愛い!
 というわけでこんにちは、森永チョコボールを買って銀のエンゼル五枚か金のエンゼル一枚を送ったら、いまだにおもちゃのカンヅメをもらえると知って驚愕している兵頭新児です(『トクサツガガガ』風イントロ)。
 でも、このおもちゃのカンヅメって元々は「男の子向け/女の子向け」に分かれていたんですよね。ところが今ちょっと調べたところ、どうも現在では性別による区分をしていない模様。
 こうして日本の文化はフェミニズムによって破壊されていくのだなあ……と思ったことでありました。
 終わり。
 終わってしまいました。
 そうじゃありません。今回のテーマは『トクサツガガガ』です。
 以前にも幾度にも渡って採り挙げたものの*、最後(その3)はどうにも消化不良なままで終わり、しかしもうさすがに書くこともないなあと思っていたのですが、最近、新しい巻が出たので一応、読んでみました。
 もう一つ、最近、ドラマ版の最終回がHDDに録画されていたことに気づき、それもネタにしつつ、ちょっと残り物で記事をでっち上げておくか、と思い立ったわけです。
 しかしその前に、一つだけおもちゃのカンヅメに立ち戻り、指摘しておきましょう。
 この世には男の子と女の子がおり、両者の好みは違うのだから、「男の子向け/女の子向け」の区分をなくすべきではないというのがぼくのスタンスです。ただ、「多様な性ガーーーーーーーーーー!!」と言う人に対しても一応、首肯しておきましょう。
 確かに人間のジェンダーは二つではないのだから、三つのおもちゃのカンヅメを用意すべきである。それはつまり、「男の子向け」と「女の子向け」と、そして「ブス向け」を……と。

* 過去の記事は以下を参照。
 フェミナチガガガ
 フェミナチガガガ(その2)
 フェミナチガガガ(その3)
 また、当エントリにおいてはこの一番最初の記事(無印)を便宜上、(その1)と表現します。

●グッバイ・ママ!二人はリベラル友だち

 できれば前回記事を読んでいただきたいのですが、ここで最低限の説明をするならば、ぼくが本作にこだわるようになったのは、NHKで放映されたドラマ版の最終回で主人公の仲村さんと母親との決裂が描かれ、非道いと思ったからです。ドラマ版ではそこでばっさりと話自体が終わってしまい、まるで親子愛を否定したいかのように見えてしまいました。まさにNHKがそのようなメッセージを、我々の血税を使って垂れ流し、国民を洗脳しようとしているのだ、NHKから国民を守れ!!
 ……とまー、そういった感想を持ちました。これについては(その1)において詳述されています。
 そして、(その3)の「●助けて! 2人のオタ友!! 母ちゃんが鬼になる」で書いたように、いざ漫画版を読むとそれなりに仲村さんの内省も描かれ、賛同できるかどうかはともかく、一応のバランスを取ろうとしていることに好感が持てる、またそもそもそれ以降もストーリーは続き、仲村さんはずっと母との関係を気に病み、また関係を修復しようとしており、それもまた好ましい、とそんな感想を抱きました。
 が、いよいよ母との対決が書かれると思っていた16巻は仲村さんが母親に「あんたはもう母じゃない、母でないなら、何と呼べばいい?」などと言い、そこでばっさりと終わるというもの。ぼくはこれについて、

 しかし……恐らくですがこれは、いつもの思わせぶりな演出で、仲村さんの本心ではないと思われます。でなきゃ、帰省を決意するはずもないし、母と会う間際、「母に冷たく拒絶される悪夢」を見てうなされるといったエピソードもあるのですから。


 と予測しておりました。
 そして、先日、17巻が出たので一応、読んだわけです。
 が! この17巻では仲村さん、「お母さんと友だちになる」という提案をするのです。彼女は「人は学生、社会人と肩書を変えていくのに、どうして母とは一生親子関係なの」とどちて坊やのようなことを言い出します。例によって特撮も引きあいに出し、「戦隊も毎回リニューアルするんだから、親子関係もリニューアルしてもいい」とわけのわからないことを言います。「ママをとりかえっこ」かよ!
 結局、母親に対しての感情は、「嫌いな部分もあるが好きな部分もあるので、あなたと関わり続けたい」というところに収まっていて、一読者としてはほっと胸を撫で下ろす展開だけれども、「母と、親子関係を辞めて友だちになる」というのは言葉の遊びみたいなもので、要するにどういうことなのかさっぱりわかりません。リニューアルも何も、子供が成長するに従い、自然と親との関係は変わっていくものです。でも、だからといって親子が親子でなくなるわけではない。そこを今日から急に「対等な友人」になれるものなのか。
 仲村さんは母親が「あなたのため」と称して自分をコントロールしようとするのに辟易としており、そうした関係性を抜け出したいというのが彼女の真意なのですが、しかし逆に言えばそんな母親の性格を何とかしなければ、「友だち」になったとしても関係性は改善されないのではないでしょうか。いえ、まあ、好意的に解釈するなら、「友だち」は言葉のアヤで、「私ももう大人なんだから違う扱いをしてほしい」程度の宣言だと解釈すれば、いいのですが。
 ただ、ここを読んでぼくはやはり、この描き手のことをフェミなんだなあと感じました。
 少子化担当相を担当していた福島瑞穂師匠が自らの家庭で「家族解散式」をやっていたことをご存じでしょうか。今回時間がなく、書籍の記述には当たれませんでしたが、ネット上で数多く言及されているので、これは間違いがないと思います。
 時々書くように、フェミニズムが家族解体を志向していることは疑い得ません。上の仲村さんの宣言も、「家族解散式」などに着想を得ている可能性が、かなり高いのではないでしょうか。

●歩く完全負のポルノ図鑑

 さて、ここまで見てくれば自明なように、『トクサツガガガ』のテーマは「母との葛藤」です。
 少女漫画が常に母親との葛藤をテーマにしてきたらしいこと、つまり本作が「以前存在していた、文学的と評される少女漫画」に極めて近い存在であることも、以前指摘しました。
 そうした指摘自体、フェミニストの受け売りですし、一昔前のフェミニストが実に熱心に少女漫画評論をやってきたことなどを鑑みれば、(かつてのブンガクっぽい)少女漫画とフェミニズムに強い親和性があるのは自明です。本作が『フェミナチガガガ』であると共に『ショウジョマンガガガ』であること、おわかりいただけようかと存じます。
 時々言うように「少女漫画」そのものは、かつてに比べメディアとしての影響力を著しく失っているわけなのですが……本作を見ていて、気づきました。『サルまん』において竹熊健太郎氏は「かつての忍者漫画は換骨奪胎され、現代にエスパー漫画という形で生き残っている」と喝破しましたが、それと同様、言わば「(かつてのブンガクっぽい)少女漫画」は目下、「BL」になり、「負のポルノ」となって生き残っているのです。
 というわけで、ちょっと今さらなのですが、もう一度本作の構造について見直してみることにしましょう。
 以前も書いたようにヒロインの仲村さん、毎回表紙で何でこうもと思うほどに険しい表情を見せつけてくれています。ドラマ版のスチールで美人の女優さんがニッコリ笑って写っているのとは、まさに対照的((その1)と(その2)の冒頭の画像を比較してみてください)。何せ、NHKのサイトにあるドラマ版の紹介文には

 いつもニコニコ笑顔で女子力が高いと思われている。でも・・・。本当の私のことは誰も知らない。


 とあり、どうにも奇妙に思えました。はて、或いはドラマ版は原作とは敢えて、キャラクターイメージを変えてきているのでしょうか。
 いえ、ところが原作でも何巻だったか、かなり後期の巻において、ご機嫌斜めの仲村さんが任侠さんに対して、「私がいつも特撮観てニコニコしてると思ったら大間違いだ」などと語るシーンがあるのです。いや、アンタ、いつも険しい顔で、ことに任侠さんにはキツく当たってるやないか
 しかしこうして見ると作者としては一応、仲村さんを「いつもニコニコ笑っているキャラ」として設定しているということになりましょう。
 一体、これはどういうことなのでしょうか。
 或いは、(その2)の「●ウソマツ作戦第一号」でぼくが書いたことを、覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね。第一巻の第一話、仲村さんは笑顔で登場、職場の仲間の飲み会の誘いを断ります。
 この笑顔は、前にも書いたように「会社ではイケている私(しかしそれは、仮の姿である)」との描写なのです。仲村さんは会社では、一般ピープルを相手にしている時は、笑顔の仮面をつけている。しかし、ひと度素顔になるや、険しい顔の特オタの本性を見せる! そう、笑顔は特オタの醜い素顔を隠すための仮面に他ならなかったのだ!
 すみません、『仮面ライダー』の原作では、あの仮面は改造手術でできた醜い傷を隠すためのモノである、という設定をもじったつもりなのですが、あまりうまく行きませんでした。
 ともあれ、初期には仲村さんの周囲にチャラ男、小野田君といった男性たちが取り巻いていて、彼女のリア充ぶりをアピールしています。即ち、本作は近年ぼくが時々言及する『私がモテてどうすんだ』や『うまるちゃん』、『オタクに恋は難しい』などと同じ「オタク女子のための願望充足コンテンツ」、引いては「ブスコンテンツ」としての側面を持っているのです。これは(その1)で述べましたね。
 そしてまた、それらが『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』や『オレの妹がこんなに可愛いわけがない』などの「男の子向けのオタクネタコンテンツ」のブームに乗っかったものであることも、幾度も指摘してきたところです。

 ――それのどこが悪い。男も女も自分に都合のいい夢を見る、お互いさまではないか。

 いえ、それが違うのです。
 ぼくは冒頭で「男の子向け」「女の子向け」「ブス向け」の三種の「おもちゃのカンヅメ」を用意すべき、と言いました。つまり、「ブスコンテンツ」こそがこの最後のカンヅメの中身であったわけなのです。
 確かに「男の子向け」にも(「女の子向け」にも)、取り柄のない主人公が異性にモテるというのはあります。
 そして「ブスコンテンツ」もまた、「ブス(=女子力に乏しい女)がイケメンにモテる」ことを楽しむコンテンツであると言えます。正直、男であるぼくから見るとキモいのですが、しかし女性が楽しんでいる分には罪のあるものではありません。
 しかしこうしたコンテンツでは非常に往々にして、「ヒロインが異性を振る」描写が執拗に繰り返されるのです。仲村さんはチャラ男に冷たくし、小野寺君の求愛をそれと気づかずスルーし、イケメンに恋をしたと思わせておいて、ただヒーローの真似をしてもらっただけで満足する。
 17巻にもそうした描写がありました。そもそも母との葛藤話って17巻の1/3くらいで終わっちゃうんですよね。後はいつもの「例えになってない例え」を並べる日常回が延々続くのですが、バレンタイン回は以下のような具合です。
「バレンタインにおけるチョコを安くあげたい女子社員たち。仲村さんは『巨大ロボの戦闘シーンでは予算の都合でCGと実際の着ぐるみとをうまく使い分ける』という逸話を思い出し、一点だけ豪華なチョコを買い、他は安物と組みあわせたセットで豪華に見せる(何だそりゃ)」というお話で、仲村さんにチョコをもらって喜ぶ小野田君をモブ子が「義理なのに男って夢見てんなー」とdisって終わり。
 これは他の「ブスコンテンツ」でも定番の描写です。実は『おそ松さん』の六つ子がどうしてあそこまで腐女子に支持されたのか、という疑問も、この概念を導入することで理解が可能になります。ダメ男に憧れられるが、相手にしていないトト子、というのがここでは重要なのですね。『CLANNAD』の春原もそうですし、また『スーパーダンガンロンパ2』に登場した左右田というキャラクターもこの系譜と言えます。この左右田君はヨーロッパの小国の王女様に横恋慕しているのですが、彼女は田中というイケメンといい仲で、左右田がこの両者から見下される様が、劇中では執拗にギャグとして描写されていました。
 ネット上でよく挙がる、(そしてまた「負の性欲」という言葉の提唱者であるリョーマ氏が持ち出してきた)「何か、エラそーな女が男に対して論理的整合性を一切持たないお説教をして、男が黙り込む」類の漫画も同等のものと考えていいでしょう。
 そう、「ブスコンテンツ」の中に非常に往々にして立ち現れるこの種のモチーフをこそ、ぼくは「負のポルノ」という、独特のモノである、と考えるのです。
 これらは自分に求愛してくる男をやっつける、というシーンをこそ「抜きどころ」としていますが、男性向けの娯楽でこのようなものは見当たらない。「ムカつくブス」をやっつけるといった内容のものはあるかもしれないけれども、それは「ムカつく」ヤツをやっつけることが主眼でしょうし、男性向けの負のポルノというのはちょっと、思いつかない。
 負の性欲とは(リョーマ氏による概念なので、彼のオリジナルを尊重すべきかもしれませんが、敢えてぼくの咀嚼したものをここで提示するならば)女性は「自分を性的に求めてくる男性を拒絶する」というイメージに「欲情」するという一定の傾向がある、とでもいうものです。
 それは言うまでもなく、女性の性欲が自らの性的魅力を立証することに向けられているからであり、言わば女性は「自分が誰かに求められるというシチュエーションに萌える」生き物であるから、と説明することができる。
 彼女らに普通の性的魅力があるのであれば、普通に男性からの求愛を受けることができ、そのまま普通におつきあいすればいいだけの話です。しかし彼女が男性からの一切の求愛を受けることがないような性的魅力に欠けた人物であったら? その時は「私は男性から求められることなど望まない」との妄想に耽るしか、他にしようがなくなる。「負の性欲」の発動となるのです。
 例えばですが、この求愛者を悪者とすれば(例えば、『マリオブラザーズ』シリーズでピーチ姫をさらうクッパのように)、エンタメとして普遍性と「男の子向け」性、を獲得できるのですが、だんだん、だんだんとそうした普遍性が崩壊しつつある。
 これは純粋にコンテンツの発信側に女性が増え、感覚がマヒしているからかもしれませんし、女性側が過激なものを求めるようになっていったからかもしれません。しかし一番の原因は女性たちがいよいよブスに、非モテになっていっているところにあると考えるべきでしょう。いえ、これは『女災』でも書いたように絶対的な意味でのブスではなく、フェミニズムによって非婚化に追い込まれた「相対性ブス」が急増しつつある、ということですが。
 もちろん、ぼくはこれらを発禁にせよ、と思っているわけではありません。しかしおもちゃのカンヅメの「ブス向け」に入れておけとは、思う。しかしそれがグリコの方針のせいで、いや、グリコじゃなかった森永だった、じゃない、要は男女共同何ちゃらやら多文化強制やら矯正やらのせいで、「女の子向け」どころか「男の子向け」とごっちゃになっている。ゾーニングしてりゃ問題ないんじゃないの、とぼくには思えるのですが。

 ――さて、冒頭では残り物で記事をでっち上げるなどと書きましたが、書き終えるとテキスト量がいつもより増えていたので(!)、続きはまた次回。
 実はNHKのドラマ版については誰も想像していなかったすごいオチが用意されています。
 待て次号!!