先ず、ドナルド・キーンの論評の中に出てくる歌を見てみたい。
・額出王:あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
・柿下仲麻呂:家ならば 妹が手まかむ草枕 旅に臥やせる この旅人あわれ
・柿下仲麻呂:草枕 旅の宿りに 誰が夫か 国忘れたる 家待たまくに
・仲麻呂:君がため 手力疲れ織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺りてば良けむ
・作者明記なし:水の上に 数書くごとき わが命 妹に逢はむとうけひつるかも
・依羅娘子:今日今日と 我が待つ君は 石川の 貝にまじりて ありといわずやも
・大伴旅人:ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にあるらし
・山上憶良:世の中を 憂しとやさしと 思えども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
・大伴家持:春の野に 草食む駒の 口止まず 我を偲ふらむ 家の児
・山上憶良:世の中を 憂しとやさ
コメント
コメントを書く奈良末期7~8世紀に編纂されたという。
歌い手は、天皇、貴族、下級官人、防人など幅広い。
律令制度で身分制度が固められていない時代、「歌の前には平等」で、「言霊」が感じられる歌が取り上げられ、歌会始には、だれでも参加できたようだ。
汚れていない自分の気持ちを、ただ直截に、率直に表現したので、何人の気持ちにも訴えることがあるのでしょう。
「右翼」にそれがあるかとの問いかけは、体制に言論の自由を認める風土があるかどうかを、問うているのでしょうか。体制の問題であれば、「左翼」でも同じことがいえる。残念ながら何を基準にしているかを理解できない。
はっきりしていることは、どんな体制であっても、望月記者のように抹殺に等しい権力行使をすることは、日本民族の精神に劣るということはできるでしょうか。
左翼と右翼は対称していない存在。
水と油が対称していないように。
無理やり対称させたがるのは右翼に親近感を
持っている人。
もう、そうじゃないふりをするのはやめたらどうかな。
楽になれますよ。
>>2
久しぶりにコメント欄を覗きましたが、いきなり正論に触れて少し感動しました。
仲中、本物の右翼・保守人間には会えません。予断・偏見・先入観の思考で頭が一杯の、リベラルっぽい偏狭保守はゴロゴロ居ますがネ。
>>2
何も困って言っているわけでなく、何故「右翼」という言葉使わなければならなかったかということである。推測では、「ネット右翼」のことをツイッターで言っておられるので、該当するのかもしれない。
私は、「右翼」「左翼」どちらに立とうとも思っていません。ただ、その時の気持ちをその時表現しているだけです。それだけなので、ストレスなど起きません。御心配無用です。
大変気を使っていただきありがとうしています。
古代は、どちらかといえば、唯心的社会であり、現代は、どちらかといえば、唯物的社会であり、神、仏、霊魂,霊界の存在に無頓着というか、否定的である。特に日本はひどい。自称「右翼」だけが、唯物的とは言えない。自称「左翼」を含め、我々すべての言動を見れば、唯物的に生きているといえないか。