高田昌幸氏は元北海道新聞記者。2004年、取材班代表として北海道警裏金事件取材)で新聞協会賞受賞。だが北海道警察は恥部を暴いた高田昌幸氏を許さずとして追求し、北海道新聞は彼を守らず、道警と和解し、高田氏を差し出す。高田氏はその後、高知新聞記者、東京都市大学メディア情報学部教授。
「月刊日本」掲載の「なぜ記者は権力のポチになるのか」からの抜粋
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―なぜ記者は権力の問題を追及しないのですか。
高田:第一に構造的な問題があります。事件報道の場合、情報源は警察に限られていて、メディアは警察から情報をもらうしかありません。そのため、警察と記者は「エサ」を与える側と与えられる側という主従関係に陥りかちです。
第二に記者の問題です。警察を怒らせたら情報がもらえなくなり、デスクから怒られ、自分の評価が下がります。こ
コメント
コメントを書く情報源は、行政、国会、司法三権の最先端で働く人たち、官僚である。
国外からは、海外に駐在する外交官を通じて伝えられる。自衛隊派遣者から伝えられる。国内は諸官庁から、企業活動から国民生活に至るまで最大漏らさず情報を把握している。警察情報などは、きわめて個人的な情報を把握しており、親族に及ぶ情報は、個人の行動をかなり制約するというより、ほとんどできなくしているとみなすべきでしょう。
記者といえども、人の子であり、家庭があり、親族があり、所属する企業、団体があり、出身大学の友情に結ばれた仲間たちがいる。体制の基盤、例えば、財政的に言えば、特別会計、検察警察の内部規律、自衛隊の機密事項などは、日本国の基盤でもあり、体制崩壊転覆に至る革命的事態に至らない限り、生命の危険にさらされ、明らかにされることはないとみるべきなのでしょう。絶対の権力者米国でも否定できないし、他の国は、程度の問題に過ぎない。
通常の事件報道を警察に頼るのは当然だが、警察内部の不正が疑われる場合は記者は独自に調査して真相を究明しなくてはなるまい。
さらに森友学園にように政治家の関与が疑われる場合に、被疑者の言い分だけを報じるなら、記者としての資質がないといわざるを得ない。最近は権力に懐柔された上司からの圧力も大きいようだが、素人でも疑問を感じることを調査し、追求できないのなら、即刻、記者という職を辞するべきだ。
> こうした事情は政治報道でも同様です。
報道分野に限らず、日本社会のあらゆる組織に巣食う病。
それで多くの国民は大手メディアのゴマスリ、ヒラメ記者に何の違和感も覚えない。
> 権力の問題を追及しても今の時代、死ぬことはありません...それだったら、最後まで恰好つけろということです。
かつて小泉首相がイラク派兵を決めたと伝えた記者会見。記者が誰一人として声を上げなかったことに辺見庸氏は「どいつもこいつもクソバエだ。(「死ぬこと」どころか)小指の先から少々血を流すことにすら怖気付く情けない連中だ」と。
しかし、凡人が「取られて困るのは命だけ」の境地に達するのはカンタンでない。そこへ、組織のヒモ付きで生計立てる国民が殆どの日本社会となれば主従関係が支配的になるのは自明だ。
所属組織から弾き出されようが、十分まともに暮らしていける社会環境が整っているならば、凡人でも自分に忠実な人生が選べるのでないか。だが、そうは問屋(米国)が卸さないのである。
「権力者」といえども、選挙で有権者による洗礼を受けるのが、今日の民主社会における鉄則である。その選挙で国民の多数の支持を獲得しなければ、権力者といえども即刻「ただの人」になる。
要は、「選挙」。選挙に勝てば世の中は変えられるし、選挙に勝たないと世の中変えられない。その選挙における投票のカギを握るのが「情報」であって、情報に基づいて有権者は自分の判断(=投票先)を決定する。
故に、最も重要になるのが、その情報を提供する「メディア」ということになる。メディアを担う記者たちには、その責任と自覚を何より大切にして欲しいものである。
自慢話になるので恐縮ですが、50年以上位前に私は英検の試験を受けた。筆記試験合格後確か口頭試問で合格すれば資格者となるということだったように記憶しています。質問は次のようなことだった、
「新聞等のメデイアは権力に対して中立的ジャーナリズムの立場を維持できるか?」
私は商取引関係を想像して「維持できない」と答えた。理由としてご提供の高田昌幸氏が書いているようなことを話したのを記憶しています。そのような口頭試問の後、「言い過ぎたかな」と内心不安になった。翌日、幸い、合格を知った。私はその時「自分がリベラルだ」と気づきました。
米国権力の腐敗のありようを素人研究し始めて5、6年経ちますが、種々面白いことを発見します。その一つ、ロバート・レッドフォードとダステイン・ホフマン主演した「ウオーターゲイト」(正式の名を忘れた)というタイトルの映画です。
駆け出しの二人の記者がニクソン大統領の盗聴の疑いを追求します。リベラルの二人の記者は事件の大きさにエキサイトします。インサイダーからの助けも得て記事にしてニクソンは失脚し、ワシントン・ポストは一躍大いなる脚光を浴びたのです。でも、そこには暗黒の裏があたのです。映画では描かれていませんが、「ベトナム戦争後、平和主義に転向し始めたニクソンを失脚させるための米支配層の陰謀があったのです。「やった!」と喜んだのもつかの間、駆け出しの二人はポチだったことに気が付くのでした。その一人だったバーンスタインは反省し、フリーになり米国ジャーナリズムの実態を調べ始めたのです。その結果、何と!記者の大半がCIAの所属であることを突き詰めたのでした。これって、やはり、自由と民主主義を看板にする米国には大きな恥部ではないでしょうか。米国がそうだから、米国のポチの国日本の日本のメデイアもポチだと断定しても的外れではないでしょう。ということは中国も北朝鮮も日本も米国も「本質の部分」報道の自由は無いということでしょうか。特に戦争となると攻撃国は嘘をメデイアを通じて乱発するということ(戦略・戦術の一環)になります。今の米国のラッソフォービア現象を見ているとなるほどと思わざるを得ません。