私は今、『豊饒の海』を読み返している。契機は三島由紀夫のアイヴァン・モリスへの手紙である。
彼はモリスへの手紙で「これはあなたへの小生の最後の手紙です」と書き、あわせて、「小生はそれ(『豊饒の海』)に、小生が感じたすべてを表現しました。小生は、自分の文武両道を実現するため行動するまさにその日、小説を書き終えました」と記載している。
三島は1970年11月25日陸上自衛隊の益田東部方面総監を監禁し割腹した。この日、『豊饒の海』の第四部『天人五衰』を編集者に渡す手配をして出かけている。三島が「小説を書き終えました」と述べているので、モリス宛手紙は死の直前に書かれたものである。彼が、「小生はそれ(『豊饒の海』)に、小生が感じたすべてを表現しました」と述べている以上、三島の自決を理解するには、『豊饒の海』を読まなければならない、特に第二巻第二巻・『奔馬』は主人公が治安攪乱のため、変電所を襲い、更に
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どんな組織でも、例えば軍部であれ、企業組織であれ、改革精神の土壌がなければ、組織は停滞し、滅亡の道をたどる。
組織の主流の方向性に疑義を抱き、行動に移す決起の覚悟を問うているのでしょう。
デシジョンメイキングの問題でしょう。
① 組織との決別を合理的に自己判断確立しているか。
② 時節・時期の判断が、その時であるか。
三島でなくとも、我々はいつもデシジョンメイキングを問われている。大なり小なりデシジョンメイキングしなくてよい時はない。他人事でなく、自己自身の問題としてとらえるべきでしょう。
デシジョンメイキングせず、その時その時を無為に過ごせば、期待通りの成果がなく、衰退の道しかないということは現実あちこちで垣間見られる現象である。
コメントできることはないはずだったが、今日読み始めた山口果林著「安部公房とわたし」に次の件が出てきた-
”安部公房は、何度も三島邸での対話の楽しさを語ってくれた。対話の相手として、三島由紀夫は政治信条は全く違っていても最高だったと話していた。「もしも、クーデターが起きて反対勢力を捕えることになっても、安部君だけは家の地下室に匿ってやるから心配しなくていい。そのかわり少食になっておくように・・・・・・」と冗談を言っていたという。”
三島を考える時、ナチスを容認し、死ぬまで懺悔しなかった思想・哲学の巨人ハイデッガーを思い出さざるを得ない。しかも、この哲人はナチスの原初形態たる突撃隊に深く関与しているのだ。
三島は余り論じられることはないが、2.26事件の青年将校たちが財閥否定に立ち上がったことに強いシンパシーを感じている。
2.26事件に遅れて世に出た三島は処刑された青年将校たちの追討をどのようにするか、考えていたに違いない。当然、青年将校たちが嫌った米帝国主義に日本の全てが呑み込まれている状況に不満だったことが背景となろう。
星条旗の下で、ぬくぬくとサラリーマンする自衛隊に喝を入れ、米駐留軍を神国日本から追放することも三島の内面にあった。東大での全共闘との対話がそれを証明している。また、その情念は彼の短編「午後の曳航」に簡潔に表現されている。
今、自民党は中国との戦争を視野に入れている。それも、三島が嫌う米国の指図に従って敢行されるのだ。三島の存在を、そのような脈絡で眺めれば、キラキラと光って来て、戦争やめろ!と呟くのが聞こえる筈だ。
>>3
第三コラムの追討は追悼の誤りです。
私は、三島の真髄は小説より評論にあると思っている。
彼の自決の謎は、死の直前に産経新聞に掲載された評論文によってかなり解明されるだろう。以下は、多くの人によって引用される産経新聞掲載の「果たし得ていない約束ー私の中の25年」の最後の部分。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」(1970年7月7日)
彼は、戦後、日本が政治的に真に独立した国家になることを願ったが、実際は米国に支配された、欺瞞に満ちた「民主主義」国家になってしまった。しかも精神的基盤のない「経済偏重」の国家に。彼はそれに絶望したのである。
彼は自決の前年に行った東大全共闘との対論の中でも、「戦後民主主義の虚妄」を断罪する点で全共闘と意見の一致を見ている。ただ全共闘と異なるのは、天皇制を認めるか否かだけ。
ただ、その後の日本は「経済的大国」ですらなくなり、相変わらず対米従属の偽善的な「民主主義」国家に成り下がってしまったが。その意味で、三島の予言は皮肉な形で的中した。
(注)
以下は「三島由紀夫 果たし得ていない約束-私の中の二十五年」の全文
(昭和45年7月7日 産経)
私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。
この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。
◆からっぽな経済大国に
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。
肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離(かいり)に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、万葉集でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失った。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚という徳が欠けており、果ては上田秋成や平賀源内のようになるのがオチであろう。
自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。(作家)
三島の有名な「日本はなくなって」「・・・抜目がない、或る経済的大国」ということばは、米国を強烈に意識していることに間違いはなく、この点が日本の反米な自称サヨクには、むかしからウケている。しかし、かれらに反米から先の考察はない。そこまでで時間がとまっているようだ。
三島の自決した1970年は、中共の経済的地位はほとんど無であったし、尖閣が中国領であるとの主張もまだなされていなかった。政権党に中共の工作は及んでおらず、日本はほぼ米国のことだけを気にしていればよかった。
もしいま三島が生きていたら、当時とは様変わりした現在の国際情勢をどう分析するだろう。これは右寄りから右翼にとっては、よく話題になるテーマだ。意見は様々だが、「日本はなくなって」ということばは、【原因となる相手を米国だけからさらに拡大しつつ】、現在もまったく変わらぬ危機認識だという点ではだいたい一致する。
日本の安全保障、昔は敗者の屈辱であり、今は敗者の脅威。
屈辱は,智者の論理であり、脅威は、大衆の論理である。
中国の覇権国家に対する日本の大衆の脅威は、戦争はなくとも、厳しい緊張関係に発展する可能性あり。
>>7
大衆の脅威?その脅威はDSから植え付けられたものですよ。
コロナの致死率が一般のインフルと同じなのに、それを伏せて、「怖いぞ!怖いぞ!」と米国政府、ファイザー、WHOらから日本政府を通じて日本の大衆が心理操作されてしまって、ワクチンに殺到するみたいに、「中国、怖いぞ!怖いぞ!」と繰り返し耳元に囁かれ、貴殿みたいな善良で無垢な日本人がまんまと洗脳、扇動されて、「中国、嫌い!」になっているのです。
緊張だけで終わればいいが、特攻隊みたいなものが突然列島に誕生し、攻撃を加える事が起こることだって否定出来ませんよ。米DSはそれを期待してない訳がないのですから。