私は最近、しばしば皇居の二の丸庭園を散歩します。何よりも入園無料がいいです。
私の高校は金沢で、当時兼六園はまだ無料でした。高校から駅まで遠回りですが幾度となく兼六園経由で駅まで歩きました。そういうことで、庭園巡りはよくします。京都の苔寺には感動致しましたし、高松の栗林公園の松は見事でした。松に感動して、公園入口で販売していた松の盆栽を買い、ベランダにおいて10年位立っているのでないでしょうか。
日本三名園と言われる上述の兼六園や、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園も訪れましたが、私は島津氏第19代当主島津光久によって磯に別邸として建設された仙巌園が最も素晴らしいような気がします。案内の一部に「其地の勝たる、翠嶺後に圍み、裏海前に閘き、南開聞嶽より、海を隔て東福山に至り、凡そ三十里の景色、一望に入り、連山逶迤、潮水湛然、其山其水、清麗澄媚にして、櫻島海心に特立し、浮ぶが如く漂ふが若し」等と書
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高齢化してくると、意識なし無意識に、「自然」に素直に同化するのは、実感として共有できる。
循環する自然現象は、心が無心の境地にあれば、意識せずとも、自然が次から次とありのままの姿を現してくれるから、感動が大きい。詩になり俳句になり短歌にもなる。
政治に善悪はないのであるから、「右とか左」「親米とか親中」などとらわれることなどないと思うが、若い時は双方向を平等に見られるが、年を取るにしたがって、頑固になり、人の言葉が耳に入らなくなる。若い人の言葉が素直に聞けないし、変に凝り固まった考えから「新しい見方・考え方」ができない。
客観的立場であると、素晴らしいことを言うが、現実の世界とか国内の政治になると、主観的になり、依怙地が顕著になる。学者とか専門家といわれる人にこの傾向が強い。人のことは良く見えるが、自分のことは「棚上げ」することが多くみられる。
サラリーマンしていた時、私、何度か仕事を干されたことがあるんです。そんな時は、例外なく、皇居の庭を散策しました。
でも、花の美しさに心を動かされたことはありませんでした。
今、コロナで隠遁を徹底してます。そのお蔭か、拙宅の庭は種々の花で埋まってます。その中でも、ゴーヤの小さくて黄色い花に見とれてます。
昔、貧乏自転車旅行で能登半島を目指した途上、兼六園にも立寄ったが殆ど思い出せない。学食目当てで潜入しに行った金沢大学が「城」だったことに驚いたのは覚えている。
仙巌園も知らなかったが、行ってみたくなるHPがあった。気になっていた指宿温泉にも比較的近い。
> 発信する人間も気分が滅入ります。
そこで出番が来るものに音楽、絵画がある。両方こなす知人の「音楽より絵の方が ずっと深い」に反発を覚えるも、音楽は「動」、絵画は「静」だ。「静」の力は侮れない。
>「しかし、今私達の生活に自然が入ってくることはない。私達は何かを失っている」と思い始めました。
これまで突っ走り続けておられた孫崎さんも、漸く そのように達観する余裕が出てきたということでしょうか。
モスク、庭園、絵画、花は「静」ながら、花の場合、「生」も孫崎さんを惹き付けると想像致します。