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ども。本日四本目の記事です。ここ半月ばかり、正月を挟んだこともあってだいぶ記事数が減っていたわけですが、ここらへんで再始動したいと思います。今回のお題は「変わりゆく日本語」。
何日か前にペトロニウスさん(@Gaius_Petronius)のオフで日本語文章の技巧について簡単に話したのですが、その際、いろいろ思うところがあったのでした。具体的に何を考えたのかといえば、ひとつには、文章の良し悪しの基準は永久不変ではないのだな、ということ。もうひとつはじっさいにいま、もの凄い勢いでその基準は変化しつづけているのだということです。
日本語に限らず、文章を書く際には、ほとんど不変と思われる法則があります。「饒舌を避け、簡潔を貫くべし」、「同じ単語をくり返すな」といったものです。これらの法則はおそらく1000年前から何も変わっていないはずで、たぶんこれから50年や100年では変わらないでしょう。
しかし、「簡潔」の意味するところは変わっていて、いまの文章はほんとうにシンプルになってきているわけです。かつての漱石や鴎外の文章も、当然、かれらなりにシンプルではあったわけですが、現代人の目から見ると、やはりいくらか堅苦しい。
「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という一文は、いまのぼくたちなら「ぼくは猫だ。名前はまだない。どこで生まれたかまったく見当がつかない。」とでも書くでしょう。
文豪漱石の名文にケチをつけるつもりはさらさらありませんが、やはり現代人が読むにはそのほうが読みやすい(まあ、現代人でもそのままでわりにすらすら読める漱石の文章は当時はそうとう平易に見えただろうと思うわけですが)。
ぼくたちは往時の日本語をかなり極端に噛み砕いて使っています。そういうふうになる理由のひとつは、かつては文章の背景に厳としてあった教養が存在しなくなったからです。もはや現代人は文語的な教養をあまり持ちあわせていません。だから必然的に作家も「日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。」などと書いたりしないわけです。書いたところで読めませんから。
これからも日本語はより噛み砕かれてゆくことでしょう。言葉の繊細な表情だの、詩的な情緒だのといったものを理解し賛美する読者は減っていく一方でしょうから、そういう文化は亡び去る運命にあるに違いありません。
日本語フェチを自認するぼくとしては残念なことですが、どうしようもありません。時代はよりシンプルで飾り気がなく、読みやすいかわりに特別おもしろくもない文章を求めているのだと思います。ようは語られる内容がおもしろければ良く、文章そのものに華美なものを求める必要はないという思想がその背景にあると思われます。
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テキストへの興味は、書かれたことよりも書かれなかったことにシフトしている。
良し悪しの基準はあまり変わっていないのではないでしょうか。
ちょっと不思議ではありますが、昔から名作と言われ教科書に載っているような、
枕草子や平家物語などの古典作品の文を美しいと思う人は多い。
現在使われている言葉とは違うにもかかわらずです。
古語で文章を書く現役作家がいると聞いたことはないので新たな名文が生まれることはまずないでしょうが、
失われていくというのは言い過ぎではないでしょうか。
現代の名文は現代文から生まれてくるだけだと思います。
例えば、ショートショートの天才の星新一は、いつまでも続く文章を目指して、なるべく簡易な文章を書いてたよね。そして、いまでも十分に読めるし、下手な現代作家よりも文章が上手い。昭和に書かれた文章が平成の今でも通じるから永久とまでは行かなくても、長い間通じる文章を書くことはできる。