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秋だ! 一番ネオリブ祭り(再)
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秋だ! 一番ネオリブ祭り(再)

2021-09-15 18:06

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     さて、引き続きピル神凍結記念です。
     当記事を書いたのは丁度三年前、2018/09/15です。
     当時は全く顧みられなかった当記事、今になってみれば多少の評価をされるのでは……との期待と共に、再掲しています。
     では、そういうことで……。

    *     *     *


     しゅっちょうスカスカ なくてガラガラ
     そっれがどおし~た ぼくネオリブ♪
     昭和の世界の~フェミ型ロボット~♪
     どんなもんだいぼく ネオリブ♪

     キミョウキテレツ マカフシギ
     キソウテンガイ ジカドウチャク
     ケイリョセンボウ サンビャクダイゲン♪

     ……というわけで今年もやって参りました、「ドラえもん祭り」に代わってすっかりお馴染みとなりました、「ネオリブ祭り」!
     ご無沙汰しております、みな様。
     何だか最近、ちょっと忙しいです。
     本を読むヒマも、なかなか取れません。
     が、まあ、何とか月に一度は更新しておきたいので、こういう企画をでっち上げました。
     今までもネオリブに対してはいろいろ言ってきてはいるのですが、ちょっと気になるトピックスがいくつかあったので、まとめておこうという気になったわけです。
     ということでよろしく。

     先日、「表現の自由クラスタ」で「ネオリブ支持者」の御仁が以下のようなことを述べていて、仰天してしまいました。

    俺にとって「フェミニスト」は「殺人テロを実行したカルト教団」とほぼ同義なので、「殺人に加担してないフェミニストもいますよ」とか言われても、カルト教団の信者だってほとんどは善良な人々ではあるんですよとしか言いようがないというか……。

     この人はつい最近まで「ネットのフェミは偽物だ、真のフェミは他にいるのだ、いるのだ」と病人のうわ言のように繰り返していた人です。それがこんな「不敬罪」になりかねないような発言をしたことに、ぼくは驚きを禁じ得ませんでした。
     さて、しかし、そうは言っても、上にあるように、彼が「ネオリブ支持者」である以上、この発言は予測できたことかもしれません。
    「表現の自由クラスタ」がこうまで平然とフェミニストを罵るようになったきっかけは、「ネオリブ」が「フェミニズム」を名乗るのを止めた(と自称し出した)ことでしょう。
    「ネオリブ」とは多摩湖師匠を提唱者とする、フェミニズムの新たな潮流――あ、いや、当初はそう(いう設定)だったのでしょうが、本人たちが「フェミニズムを名乗ることを止める」と言い出したので、今となってはフェミニズムとは呼べない、えぇと、何と言いますか、フェミニズムを超克した新たな女たちのための思想――あ、いや、多摩湖師匠が(ネオリブを名乗りだして随分経ってから)「理念はこれから作る」と言っていたので理念はまだないのでしょう、えぇと、ツイッターで「立ち上がる」とか何とかふわっとしたことを勇ましくつぶやくことを主なる業務とする、女性たちの一団を指す言葉のようです。
     さすが多摩湖♡ナルコレプシーこと多摩湖師匠、そしてピルとのつきあい方(公式)ことピル神がこのネオリブの二大巨頭ということになるのでしょう。これ以降、「表現の自由クラスタ」というか、「オタク左派」とでもいうか、そうした人たちの「フェミ批判」が根源的絶対的なもの(「フェミの中にも悪しき者がいる」ではなく「フェミは全て悪」という論調)になっていったように思われます。以前も書いたように、市井のツイッタラーと言うよりはもっと上の立場にいる、まあぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような人たちまでが「フェミニスト」を主語にして全否定するような発言を繰り返すようになったのには、さすがに驚きました。
     少し前までは「ラディカル/リベラルフェミニスト」という言葉を故意にねじ曲げ、或いは「ツイッターフェミニスト」「ツイッターレディース」「まなざし村」などというありもしない概念を次から次へと捏造してまで「ツイッター上のフェミニストは偽物だ、アカデミズムにいるフェミニストこそが真のフェミニストであり、彼女らはオタクの味方、正義の味方なのだ」と泣き叫び続けていた彼らが、まあ、随分な変わりようです*1
     これは「ネオリブ」と直接の関係はないのですが、以前から表現の自由クラスタは上野千鶴子師匠のことをオタクの味方だ、オタクの味方だと強弁していました。ぼくが上野師匠がポルノを全否定しているという客観的事実の指摘をすると、狂ったように罵詈雑言の限りを尽くしてきました。これは表現の自由クラスタの団体が師匠に近づき、師匠に「オタクの味方」発言、「表現の自由を重視する」発言を取りつけたという経緯が関係しているように思われます(上野師匠が表現の自由を守ると称する記事と、ポルノ全否定の記事とをチャンポンにして単行本を出していることについては、*1の「まなざし村」関連の記事を参照してください)。
     しかししかる後に上野師匠のダメさがネット上で話題になると、彼らはあっと言う間に手のひらを返してしまいました。
     一体全体、何が彼らのスイッチになっているのやら、さっぱり理解ができません。
    「過ちを改むるにはばかることなかれ」といったことわざを持ち出せば、無理矢理に誉め上げることもできるかもしれませんが、それにしても彼らの変わり身の速さには呆れます。さらに言えば、彼らの中にはフェミニストを支持したこと(や、乗っかって反対者を貶め続けたこと)に対する反省など、微塵もないことでしょう。目下の彼らの中にあるのは専ら、「こんなにも信じていたのに裏切られた」との被害者意識だけなのではないでしょうか。
     彼らの言う「フェミニスト」という言葉には「ボクのことを全て受け容れて肯定してくれる、ボクのママ」以上の意味があった試しがただの一度もありません。彼らは「ママに自分のエゴを全て叶えてほしい欲」と「ママに全ての判断を委ねたい欲」の間で揺れている……いや、そのいいとこ取りをして当然と信じきって疑ってもいないのです。それは丁度、フェミニストの男性に対しての要求がそうであることと、全く同じように
     彼らはフェミニストを「お気持ち」だの「家父長制」だのといった攻撃呪文で罵ることが大好きですが、言うまでもなくもちろん、彼らもまた「お気持ち」や「家父長制」が大好きなんだから、本当にお似合いのカップルという他はないでしょう。

    *1 彼らが流し続けて来た「ラディカル/リベラルフェミニスト」についてのデマについては「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を、「まなざし村」については「京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?」を参照。

     ――いや、お前こそ何故アンチフェミの批判をするのだ、アンチフェミである以上、お前は彼らと共闘すべきだ。

     そんな声が聞こえてきそうです。
     いや、聞こえてきそうな声なのですが、意外に聞こえてきたことがありません
     それは恐らくですが、みなさんおわかりだからではないでしょうか。
     即ち、彼らは実のところ「アンチフェミ」でも何でもないということを、です。
     彼らはものすごく単純に「エロの自由を認めてくれるフェミ」だから、「ネオリブ」を支持しているというだけであるということを、です。
     彼らがいかにフェミニズムの悪口を言おうと、それは「エロを認めない」点だけに文句をつけているに過ぎないのが、どんな馬鹿の目にも自明だということを、です。
     多摩湖師匠が自ら誇らかに宣言したように、「ネオリブ」には何ら理念がありません。最低限、「エロを認める」ことだけがネオリブ、ネオリブ支持者の理念であると言えそうです(ただしそれはあくまで「理念」です。彼ら彼女らの「実体」がそうでは全くないことは、後にお話しします)。
     しかし、これは非常に奇異なことと言わざるを得ません。
     いつもいつも言うことですが、ぼくは彼ら彼女らが、例えば「ジェンダーフリー」などといった「ラディカルフェミニズム」の理念について否定的なことを言っているのを、聞いたことがない。しかしこれは非常に奇妙なことなのです。
     例えば彼ら「表現の自由クラスタ」が大・大・大・大・大・大・大・大・大好きなろくでなし子師匠。彼女は「フェミニズムアート」と称して自らの女性器をかたどった商品を切り売りしています。彼女が正当逮捕(何か裁判でひっくり返ったみたいですが、ぼくは逮捕されて当たり前だと思うので、このように表現します)された時はオタク界のトップが大慌てで彼女の味方をし、積極的にバックアップしました。ろくでなし師匠、オタクを見下し切った人物なんですけど*2、何でそんなのの味方をするんでしょうね。
     しかし師匠の自己申告によれば、品性下劣極まりないフェミアート(笑)とやらを製作する理由は「女性器の意味づけを手足と同じようなものにするため」。これは一種のジェンダーフリー、否、人間のセクシュアリティーの在り方を根源からリセットする、差し詰め「セクシュアリティーフリー」とでも呼ぶべき思想です(ちなみに、上野千鶴子師匠も丸っきり同じ主張をしています*3)。
     どんな馬鹿でも理解できることですが、しかしそうなった暁には(いや、いかに師匠らが醜いフェミアートで女性器の地位を貶め抜こうと、そうはなり得ないのですが)ぼくたちは女性器に性的欲望を抱くことがなくなっている。無修正ポルノが手足の写真と全く同じになってしまっている。
     そんな(到来し得ない)社会は想像することも困難なのですが、しかしそうなればエロも萌えもこの世から消え果ていると考える他はない。
     つまり、もしネオリブや表現の自由クラスタが本当にエロの自由を守る気があるのであれば、ジェンダーフリーなど真っ先に否定しなければならない。しかしそんな主張を彼ら彼女らがしているのを、ぼくは見たことがない。
     何故なのか。
     答えは一つしかありません。「表現の自由クラスタ」の目的はエロも萌えも完全に絶滅させるという、そのただ一点のみである、ということです。

    *2 ろくでなし師匠のオタクへの見下しっぷりは「デコまん」参照。
     また師匠は

    (´-`).。oO(性器のアートはじぶんの身体性をとりもどしたくてやっている。とことんじぶんのため。欲望の対象として性を表現してる人に「僕も女性器をモチーフにしてるので仲間」と言われても、全く話がちがうんだよなぁ
    https://twitter.com/6d745/status/483375281122455552

     とも言っており、一般のエロも否定しているのですね。その彼女の靴を舐めながら「サポートさせてください!」と哀願する人たちの気持ちが、ぼくには理解できません。
    *3「上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件

     これはまた、最近、表現の自由クラスタの覚えもめでたい、柴田英里師匠についても同じことが言えます。ネオリブと自称してはいなかったと思いますが、まあ、近い位置にいる人物であることには間違いがないでしょう。
     この人、正直どんなことを言っているのかよく知らんのですが(随分前に言い争ったような記憶があるのですが、具体的に何を話したかは忘れちゃいました)、先日、以下のようなことをおっしゃっておいででした。

    攻撃的で異性愛再生産に向かっていたインセルと、自らの快適な消滅を求めるMGTOWや、リベラルの欺瞞を批判するwalkawayは明確に違いますからね。後者二つは、生活保守化するフェミニズムやリベラルへの痛烈な批判があります。(https://twitter.com/erishibata/status/1040053237645279232)

     い……インセルが「異性愛再生産」を肯定しているのであれば、それはフェミニズムへの批判以外の何物でもないはずなのに、そっちはダメなんだ……。
     以前ご紹介した八田師匠のような*4、インセルに対しての憎悪を剥き出しにするような物言いとは違いますが、(また一方、ミグタウに対して妙な「評価」を与えている辺りも一歩進んだ視点を持ってはいましょうが)それにしても、という感じです。

    男性の非婚指向の台頭は、一部のネットフェミニストのようなヒステリックな女性の可視化の影響もあると思うし、彼らは一部の傲慢なファミニズム的なもののカウンターだと思っているし、そこから異性愛の結婚幻想が壊れるのは、フェミニストとして喜ばしいことだと思っている。

    自称フェミニストの実質的な生活保守化や、家父長制を批判しつつ女性に都合の良い家父長制を求める論理破綻が暴かれることは、本来であればフェミニスト的にも歓迎すべきこと。

    矛盾や論理破綻の露呈よりも、それの隠蔽を求めることは、フェミニズムをバカにしている。矛盾や論理破綻を隠蔽し、とにかくお気持ちのエモさだけでどうにかしようとすることは、フェミニズムを都合の良く空虚な商業利用することに他ならない。
    https://twitter.com/erishibata/status/1037324907984510976

     ね……「ネットフェミニスト」とやらが可視化されたのなんてこの十年だと思うんですが、それ以前から暴虐の限りを尽くしていた「アカデミズムフェミニスト」のせいではなく、あくまで彼女らが非婚化の原因なんだ……。
     いえ、それよりも重要なのは、彼女がここでも非婚化を喜ばしいと言い放っていることです。
     もう、語るに落ちるという他はありませんね。
     そしてこれが、上野師匠が「オタクはマスターベーションをしながら死んでいけばいい」と放言していたこと*5と「完全に一致」するということは、誰の目にも明らかでしょう。
     そう、柴田師匠もまた、ごく一般的なフェミニズムを唱えている、ごく一般的なフェミニストでありました。
     確かirrさんがフェミニズムを「死の思想」と評していたことがあったかと思いますが、これ以上に当を得た形容もなかなかないことでしょう。それを、一体全体どういうわけか、表現の自由クラスタたちは「フェミニズム(ネオリブ)は全ての人に優しい世界を作る運動」だと信じて、今も疑っていないようではありますが。

    *4「八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
    八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
    *5『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎、2006年。

     さて、話がネオリブからそれすぎました。
     まあ、彼女らが大したことを言っていないので、周辺を洗っていかなくては真意に辿り着けない、といった事情もあり、こうした紆余曲折を経ましたが、それでも見ていけば彼女ら自身も、迂闊な発言を続けていることがわかります。
     一つは幾度も繰り返している、ピル神によるおっぱい募金の否定です*6
     もう、ちょっと時間もないので簡単にまとめますが、要はAV女優がボランティアでそうした企画を行ったことを、彼女は「ダメなモノはダメ」と全否定したわけですね。それで、一体全体どういう理由で、表現の自由クラスタが彼女に失望しないのかさっぱりわかりませんが、彼らは上野師匠がポルノを全否定しても師匠の傀儡を続けていた人たちなので、まあ、そういうことなのでしょう。
     ピル神は「ひょっとしたらAV女優は自由意志でやっていないのかも知れない」との理由で「ダメなものはダメ」と全否定なさっておりましたが、彼女がそう考える理由は不明です。言うまでもなく、これだとあらゆる性行為を全否定することが可能ですね
     ピル神は驚くべきことに、以下のようなことまでもおっしゃっておいででした。

    社会的合意(道徳)だという強制に人間は弱いのよ。私たちは多かれ少なかれ、この目に見えない強制に屈しているのよ。しかし、そのことをどうこう言うつもりはない。見えない強制をどう感じるかは、個人の自由だ。
    https://twitter.com/ruriko_pillton/status/674206806986506240

    おっぱい募金の女優さんは自由な意志だったかもしれないし、何らかの強制が作用したかもしれない。それを詮索しても他者にはわからないし、しばしば本人にもわからない。自由な意志とはそんな微妙な物なのよ。
    https://twitter.com/ruriko_pillton/status/674206373953998848

     要するに「我々が自由意志で行っていると信じている行為も、何らかの刷り込みによる外からの影響があるやも」というロジックですね。
     しかし言うまでもなく、これまたあらゆる私的な性関係を全否定してしまえます。そしてこれがジェンダーフリーの理念と全く同じであることも、ここまでくればみなさん、おわかりのことでしょう。
     もう一つ、挙げてみましょう。

    女性の身体について男性は、美しいとエロいを区別できない生物。太古から、現在まで、そして未来永劫に。女性は男性のこの感覚を受け容れてきた。それを脱し、女たちがやっと【女の(私の)身体は美しい】と主張し始めているのが現代。ろくでなし子さんや太もも展の女たちは歴史と闘っているのだと思う。(https://twitter.com/ruriko_pillton/status/971558543810732032

     これは女性の太ももの写真の展示会が猥褻であるとして中止されたことに対してのものでした。確かカメラマンが女性で、だからエラい、との主張ではなかったでしょうか。そう、『セーラームーン』とか峰不二子を称揚する時の、フェミニストのテンプレですね。
     しかしここでピル神がろくでなし師匠を持ち上げているように、その主張は古拙なフェミニズムと変わるところが、全くありません。
     男性たちは女性たちを性的な目で見てきた、けしからぬ。その意味づけを変えねばならない。
     それが、ラディカルフェミニストたちと全く変わることのない、ピル神の揺らがぬ信念だったのです。
     そう、ピル神は、多摩湖師匠は、ろくでなし師匠は、柴田英里師匠は、全フェミニストは、「まなざし村」でした
     いつも言うことですが、吉本隆明は上野千鶴子師匠を「娼婦である」と喝破しました。
     そして、それは今風に表現するならば、「オタサーの姫」ということです。
     もう一つ、これもまたいつも挙げることですが、大塚英志は上野千鶴子師匠を「悪の『とらば~ゆ』である」と喝破しました。女性たちを無責任に社会進出させた、これも今風に表現するならば「キュウべえ」であったということです。
     そう、あらゆるフェミニズムは「オタサーの姫」となるため、下っ端たちに本を売りつける一種のネズミ講であり、「ネオリブ」は邪魔となった下っ端(つまり、社会的地位を得ることの適わなかったツイフェミ)の処刑役を表現の自由クラスタにやらせるという夢のシステムを構築した、「フェミニズム」の最終形態であったのです。

    *6「おっぱい募金への反対論者との議論
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