DYKGaming/Normal Boots、VSauceが、ゲームボーイ伝説の中に隠されたトリビアを動画で紹介してくれています。
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開発の裏側から面白周辺機器、そして開発者にまつわる噂やゲームボーイの宇宙旅行まで、濃密なトリビアをお愉しみあれ!
■ゲームボーイは宇宙空間で初めてプレイされたゲームハード
ロシアの宇宙飛行士アレクサンドル・セレブロフは、宇宙で『テトリス』をプレイし、「宇宙飛行士誰もがそうであるように、私もスポーツが大好きだ。特に好きなのはサッカーと水泳。フライト中に余暇時間を持てた時にはゲームボーイを楽しんだ。」とのメモを付けてゲームボーイを地球に送り返したんだとか。
彼が遊んだゲームボーイと『テトリス』、そして彼のメモはチャリティーオークションに出品され1220ドル(約12万円)で落札されたそうです。196日間宇宙に滞在し、3000回地球を回った貴重なゲームボーイでした。
■ゲームボーイが作られたきっかけは電卓で遊ぶビジネスマン
1989年に発売されたゲームボーイは横井 軍平さんによってデザインされました。横井さんがゲームボーイ開発を始めたのは1986年でしたが、ゲームボーイの起源は1979年。横井さんが電車で帰宅中に見た光景でした。
その電車の中で、暇を持て余したビジネスマンが電卓のボタンを適当に押して時間を潰しているのを目撃し、それがきっかけとなって携帯型ゲーム機の有用性に気づいたのです。それまで玩具会社だった任天堂が開発したゲームと言えば、試験的に出したカラーテレビ用のゲームシステムくらいでした。
■ゲームウォッチはゲームボーイやニンテンドーDSの元祖
それまでにもヒット玩具を送り出していた横井さんのアイデアは任天堂でも一目置かれており、その後ゲーム&ウォッチで、任天堂で最初の携帯ゲーム機である『ボール』が発売されます。
ピクセルを用いたダイナミックディスプレイ型ではなく、決まった形しか表示できないカスタムプリントされたLCDスクリーンを用いたことで、要求される処理能力も低く、安価な素材で製造することが出来ました。
当時の他の携帯ゲーム機のほとんどはカードゲームやスポーツゲームであったため、ゲーム&ウォッチシリーズの斬新性は人気を博しました。11年間で59種類のゲーム&ウォッチが作られ、世界で4300万台売れたそうです。
マルチスクリーン版のゲーム&ウォッチはニンテンドーDSにも影響を与えています。また、1982年のゲーム&ウォッチ版『ドンキーコング』は十字型方向キー/Dパッドを備えた最初のゲームでした。
■もっと性能の良い他の携帯ゲーム機より人気だった理由
「DMG」(Dot Matrix Game)という製品コードでも知られたゲームボーイは、製造コストも低く、電池の持ちもいいデバイスを目指して開発されたゲームボーイ。液晶背景の緑色は、様々な光量のもとでLCDオーバーレイヤーの可視性が一番良いためにそうなったそうです。
「枯れた技術の水平思考」が上手かった横井さん。価格と電池の持ち(89.99ドルでバッテリー10時間)のお陰で、よりパワフルだったりカラフルだったりしたAtari Lynx(189.95ドルで5時間)やセガのゲームギア(149.99ドルで6時間)よりも好評でした。ゲームの質もゲームボーイ人気の理由であり、横井さんがプロデュースした『スーパーマリオランド』や、『テトリス』のおかげもあり大ヒットしました。
■爆撃されても起動する頑丈さ
湾岸戦争中に爆撃を食らったアメリカ軍兵士のゲームボーイは、表面こそ焼け焦げているものの、まだ動きます。そのゲームボーイはニューヨークのニンテンドー・ワールド・ストアで実際に展示されています。
■世界一高価な携帯ゲーム機もゲームボーイ?
安いことで知られるゲームボーイですが、世界一高価な携帯ゲーム機もまたゲームボーイでした。イギリスのブランド「アスプレイ」の店舗では、2万9500ドル(約299万円)でゴールドプレートを施され、スクリーン周りにはダイヤモンドが散りばめられたゲームボーイが販売されました。重さは元のゲームボーイの6倍もあるそうです。
■ゲームボーイが国の政策で禁止された国でも販売されちゃう人気
第二次世界大戦後の韓国では、映画や音楽を始めとする日本文化の輸入が禁止されていました。しかし1990年には、任天堂の代わりに韓国企業サムスンがミニコンボイという名称に変更して販売していました。サムスンは他にもセガのメガドライブやマスターシステム、ゲームギア、NES、SNESなども名称を変えて販売していました。
■ ポケットカメラは当時最小のデジカメ
1998年には、ゲームボーイ用にポケットカメラとポケットプリンタが発売されました。ポケットカメラは発売当時最小のデジタルカメラでした。シンガーソングライターのニール・ヤングさんが2000年にリリースしたアルバム『シルバー&ゴールド』のジャケットはポケットカメラで撮られたものです。
クレジットが流れている時にBボタンを押すと、宮本茂さんが踊る姿を見ることが出来るイースターエッグがありました。任天堂は雑誌ニンテンドーパワーマガジンを通じてポケットカメラの『ゼルダ』スペシャル・エディションの販売もしており、カートリッジが金色で、グラフィックの多くが『ゼルダ』のものに置き換えられたものでした。
他にも世にでることのなかったスペシャル・エディションとして、コロコロコミックのキャラクターなどが出てくるものが作られていました。発売されることはありませんでしたが、日本版のポケットカメラのROMにはデータが入っているようです。
■スーパーゲームボーイはゲームボーイにスクリーンとボタンが付いてないだけ?
スーパーゲームボーイという、スーパーファミコンでゲームボーイのゲームが出来るという周辺機器も販売されました。面白いのはスーパーファミコンにはゲームボーイをエミュレートする能力がなかったということ。スーパーゲームボーイのカセットにはゲームボーイの中身がほとんどそのまま入っていたということです。
■バーチャルボーイの悲劇
「ゲームボーイ」シリーズでの変わり種といえば(「ボーイ」しか共通点がないかもしれませんが)バーチャルボーイです。横井さんによってデザインされたデバイスうちの一つであるバーチャルボーイは、赤い3Dグラフィックでおなじみです。
ライン上に配された赤色LEDと、斜めに置かれた前後に動く鏡を通じて3Dグラフィックを可能にしていますが、赤いLEDが用いられているのは、青や緑のLEDは高価で信頼性が低かったからだそうです。
プロトタイプ版ではユーザーの頭にゴーグル状のものを(Oculus Riftのように)着けるものや、1994年のCESでお目見えしたゲームキューブのコントローラーに似たコントローラーを持ったものがありました。
1995年に日本と北米で販売されたものの、遊びづらかったり、一部の人には頭痛や酔いを与えたりするということで販売台数は芳しくありませんでした。任天堂は100本以上のタイトルをバーチャルボーイ向けに開発中としていましたが、販売されたのはその内22本でした。
■横井さんが任天堂を離れた本当の理由とは
「横井さんはこの失敗の責任を取る形で任天堂を去ったのでは」という噂もありましたが、横井軍平さん自らが記した本『横井軍平ゲーム館』では、「長年、任天堂を去り、自分の会社を持ちたかった」、「バーチャルボーイは餞別」として否定されています。
ただ、バーチャルボーイが失敗したことですぐに辞めたら、その結果として任天堂を去ったように見えるとのことで、希望していたよりも長く任天堂にとどまり、ゲームボーイポケットを作ってから退職。株式会社コトを設立しますが、任天堂とは顧問として関わり続けていました。
最後のプロジェクトは日本でしか発売されなかったバンダイ向けのワンダースワンでした。しかし横井さんは、ワンダースワンの発売を前にして、1997年に自動車事故により亡くなられました。横井さんは2003年にはGDC、Game Developers Choice Awardsにてゲーム界への数多くの貢献を讃えられ特別功労賞を受賞されました。
次にナカミ分解ストップモーション動画も見て、トリビアを探してみましょう。
■ 一番売れたゲームは『テトリス』
3500万本売れちゃいました。
■ 発売当時の売値は89.99ドル
インフレ調整すると、これは今で言えば3DSの値段と同じくらい。
■ゲームボーイはNESより2.3倍早い
RAMは4倍。道理でスーパーゲームボーイのカセットの中にゲームボーイの中身がそのまま入ってるわけです。
■ゲームボーイのスクリーンは4階調モノクロ液晶
■ゲームボーイカラーを含めると1億1800万ユニット売れた
それら全部を集めれば、月の周辺を1.5回覆えちゃいます。
いろいろな豆知識がありましたが、皆さんご存知でしたでしょうか? これからも末永く遊ばれるデバイスであって欲しいですね。
[via Kotaku]
(abcxyz)
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