ランドセル置き場というものがあることを知った。近所の児童館の中だ。放課後、家に帰っても保護者が不在な小学校1年生から3年生はそこにランドセルを置いて遊びに行ったり、雨の日には本を読んだりするのだという。
浜辺を散歩している時にそれらしき子供たちに出逢うことがある。「こんにちは」と無邪気に挨拶されるので、こっちも「こんにちは」と笑顔を返す。長閑でいいな、と思う。思っていた。思っていたい。けれどあんなニュースを見てしまうとどうしてもそんな子供社会の裏側やそれを取り巻く大人社会の闇に目を向けざるを得なくなる。
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
同情しろとはいいませんが、なぜ差別しなければならなかったのか、また恐喝したのか。心が育たない子供が多くなっているのでしょうか。
差別したこと、恐喝したことが正しいというなら、子供であっても名前を公開し、なぜそこに至ったのか話させる必要があるのではないかと思います。
守られているから何をしてもいい そんな考え方をしているのではないでしょうか。
元はと言えば地震により親方日の丸の企業が起こした事故が発端ですが、こんなところまで企業や国はケアなど補償することができるのでしょうか。きっと何も考えていないのでしょうね。
おはようございます!
子ともの事件を、目にするたびに、自分の子供が加害者になったら?と想像します。
ちゃんと育ててるのだろうか?、人の痛みがわかる子供になってるのか?
親として毎日、自問自答しています。
上の子は学校でいじめにあい、いまも友達がほとんどいません。保育園から一緒に過ごした友達も集団にはいると変わってしまいます。何度も何度も学校とも話し合いましたが、ほんとに、らちが明きません。親も子供の前で平気で罵りの言葉を笑いながら話しているのを見てぞっとしました。
親の姿が、その子供に反映するのかなーとかんじます。親が、周りの大人が一番ちゃんとしなきゃいけないなと。ちゃんとした姿、考えをみせていれば、曲がった子はできないんじゃないかと。
痛みのわからない子供たちが増えたことを嘆くより、
痛みのわからない大人たちをなんとかしなければと思います。
私は子供を育てた経験がないので決して偉そうなことは言えないのですが、それを前提にして自宅で塾をやっている者として言わせていただくと、ちゃんとしておられる親御さんのお子さんはだいたいちゃんとしておられるケースが多いです。「ちゃんとしている」というのは漠然とした言い方ですが、いろんな意味で「ちゃんとしている」以外の表現はなかなか思いつきません。子供の性格はそれこそ千差万別ですし本当に色々な子がいますが、大人としてちゃんとしていない親御さんのお子さんは何か何処かが破綻しかけていることが多いように見受けますし、それは子供と接している時間の多少にも関係しているようにも思えます。
人間の心根や他人の痛みがわかるとかわからないとかという問題とは少し違うのかもしれませんが、自分も含め周りの大人たちが子供に与える影響は計り知れないなと日ごろ感じています。
「心根」って、いい言葉だったんですね。
改めて思いました。
「親を悲しませてはいけない」
確かにそうかもしれません。
傷つけてしまったり、傷ついたりしながら、
人との距離の取り方を学ぶのでしょうか。
距離の測り方が苦手な私は、
まだまだ日々に試行錯誤です。
いつも素敵な文章をありがとうございます。
>>1
国や企業が命よりも経済を重んじ続けているうちはこういう「歪み」はなくならないのかもしれませんね。
>>2
痛みのわからない大人、まさしくその通りですね。彼らの親が家で同じような差別的発言をしているのが目に浮かびます。
子供の前での発言というのは本当に気をつけなければいけないですね。
>>4
子育てしている人たちよりも、周囲で子育てを見ている人たちの方が真実が見えているのかもしれませんね。実はそういう人たちが「自分たちは・・・」と言わずに声を上げることで何かが変わるような気もします。
>>5
親を悲しませてはいけない、という思いが強過ぎたがゆえに、いじめられていることを1人で抱え込んだ挙げ句、という悲劇を生むこともありますよね。他人にやさしい人になって欲しい反面、同時に「自分以外はみんなカス。カスに何を言われても屁でもない」くらいの強さも併せ持って欲しいという矛盾した思いを抱いてしまいます。