26日朝日新聞は「新潟知事選 原発争点に」という大々的記事を掲載した。
この中に次の記載がある。
{「“まずは知事を代えてからだろう”
「麻生財務相は陳情に来る新潟県の首長や自民党の県議に対して、こう告げることがあったという。麻生氏は電力会社との関係が深く、原発停止による経済的打撃を強調する国会答弁もしている。再稼働を進める政権にとり、泉田氏はやっかいな存在だった」
しかし、記事は別の記者が継続して書く形をとり、次のように締めくくっている。
「ただ、そもそも知事に原発を止める法的な権限はない。三反園知事は九電に対して
即時停止し安全性を再点検するように要請したが、いずれも拒否された」
この記事を読めば「知事に権限がない」ような印象を受ける。
それならなぜ、麻生財務相は陳情に来る新潟県の首長や自民党の県議に対して“まずは知事を代えてからだろう”というのか。
朝日新聞が意識的
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
「ジャーナリズムの新聞の使命はどのようなものか」の回答が、「法を根拠とする」記事になっているのでしょう。
ジャーナリズムの本懐は、「社会正義であり、体制を批判することをいとわない在野精神にあり」という高邁な信念があれば、法などは、体制によって決められるものであり、必ずしも社会正義といえないことを、身をもって経験しているはずである。現在のジャーナリストは、体制の代弁者となって、生活の安定を確保することが先決となっている。致し方ない面はあるが、社会正義を社会に訴えるにはどのようにすべきかの方法がなく、体制に順応した不活性化した社会が営まれることになる。典型的な例は、アベノミクスは破たんしているが批判が出てこない。人口減少社会で、消費を増やしGDPをあげようとすることが間違っているが、GDPに頼れば国民一人一人が痛みをこうむらないから反対する人が出てこない。日銀が国債を肩代わりし、お金をどんどんばら撒いているので現状維持はできるが、国民の生活は、どんどん厳しくなるが、退場すべき企業がわが世の春を謳歌することになる。異常な社会が続いているのに、多くの人が声をあげない社会になっている。
知事に、原発を「止める権利」はないが、一度止まった原発を動かすには「知事の承認が必要」である。
原発は1年間稼働させると、点検のために停止しなくてはならない。点検後に稼働させるには、知事が「安全」と確認して承認しなくてはならないことを、安倍政権迎合の朝日は隠蔽しているのだろう。
読者に正しい情報を伝えることより、政権に忖度している新聞には存在する価値がないのだ。
なるほど、やはり、朝日新聞の昨日の記事は狡猾そのものですね。私、その記事で泉田知事の後継候補が見つかったと知って安心して、最後まで読みませんでした。改めて読んでみて狡猾だな!と感じた次第です。
日本にはニューヨークタイムスやワシントンポストは公平な立場で記事を書くと受け止められていますが、実はオーナーが国境なき巨大資本ですから、巨大資本の利益に反する記事は紙面に載せません。それだけではなく、巨大資本の利益に資するために欺瞞の記事を載せますから油断できません。最近の朝日新聞も体制の方向に寄与する欺瞞の記事が多くなってきました。とても残念です。
昨日、九州の知人から連絡があって、三反園知事と九電社長との間で激しいやり取りがあったとのことです。九電社長は「定検」を部分的停止で行い「定検後の再稼働許可」の手続きをスキップすると知事に言明したのです。知事はそんな暴挙は許されないと全面対決を表明しました。
これから、安倍体制の沖縄弾圧とアベックで原発共同体(実態から言えば核武装を視野に入れて居ることから核共同体と呼んだ方がふさわしい)の横暴が展開されることは間違いないと考えてます。それへの対策等は国民全体が考えて行動しなくてはならないと思いますね。そういう弾圧と横暴は全体主義国家への移行の兆しですから。
新聞に嘘が載っているといっても、通常の社会生活のレベルでは、まちがいではない。一般の社会生活では、ウソ、になる。
ちなみに朝日が嘘を書いているとは言っていない。一般人の、一般的レベルでは、こういう解説は「うそ」の範囲にはいるものだとして解釈されるだろうという解釈の問題だ。
もちろん、真実と嘘の問題に関しては、一般のわれわれよりも、新聞の方がよく理解しており、しかも、法的にも理論武装しているにちがいない。ここまでは法的には「嘘」にならないという線引きについては明確なマニュアルがあるにちがいない。
そのうえで、記事は書かれているのだろう。だから、記事が訂正されることはあるまい。
実に悲しいことですね、これは。
マックス・ウェーバーが言った「精神のない専門人」とはこのことだろう。
泉田さんが知事選に出られなくなった事情について、いずれ、分析するような考察が出るだろうが、そのときは遅いのだ。
孫崎さんが、ノースウッド作戦やトンキン湾事件について書かれたようなことが背後にあっただろうことは、孫崎さんの著作の愛読者であればだれでも着想することだ。
だが、昔の人は、むしろ、そういう見方が基本であり、おかみは騙すものという視点でものを考えていた。
今の人より賢かったわけだ。