『思想 2019 11』「危機の文学」を特集、冒頭、池澤夏樹著「文学の危機なのか、
その抜粋
・文学書が売れなくなった。書店がどんどん減っていく。電車の中で誰もがスマホかタブレ
ットを見ていて、たまに本らしいものを開いていても実用書の類ばかり。しかしこれは日本
の文芸出版の衰退の姿ではあっても文学の危機ではないだろう。
・日本では江戸時代に入って書物が大衆化された。
・世界に目を転ずれば、商業出版だけが文学を支えているわけではない。
・究極の文学の危機は絶対的独裁者のもとで,刊行も販売も読書もすべて禁じられていると
いう状況である。それを具体化した文学作品は『華氏451』
中国の『三体』スケール感で際立っている、『セレモニー』は中国政府の崩壊というテーマ。
コメント
コメントを書く文芸出版の衰退と文学の危機を別物と考えるのは
よくわからない。
両者は切っても切れない密接な関係にあると思う。
文学の危機は絶対権力者による焚書よりも、列車内
でのスマホとのにらめっこでもなく、まともな本など
おそらく一冊も読んだことがないと推察され、漢字も
まともに読めない男をあっけらかんと総理大臣に選び
続けるこの国の現在の反知性主義にあると思う。
願って已みません、とかりに原稿にはあったとしても、
そして「已む」の読みがわからなかったとしても、
一定の読書経験があれば必ず「願ってやみません」と
読めたはず。
これを願っていませんなどと呼んだら昔なら切腹もの。
このなバカが今でも総理大臣だもの、誰が本など読む
だろう。
云々、でんでん。
背後、せご。
どうやってこの国に文学の 興隆が。
中国の国体を論ずる時、「文学の自由が保障されてないから、駄目だ」という命題が日本のミリタリスト達によって叫ばれる。私みたいなアナキストにとっても、否定しがたい命題だ。そして、そのミリタリスト達は「中国を武力で開放して文学の自由を与えねば、と言わんばかりの主張を行う。長いこと日本工作に余念なく携わって来たCIAが随喜の涙を流すほどの主張だ。
私は「それは違う」と言いたい。物事には順序があるのだ。まず、知るべきは、CIA、その背後にネオコンというカルト、そしてその背後にウオール街の強欲な陰謀があるという事実だ。そういう構造がある限り、中国の文化統制は存続せねばならない。だって、ちょっと歴史を紐解けば分かることだ。中国は、二度と辛亥革命以降50年続いたカオス、換言すれば、今の中東みたいな泥沼、に嵌り込むことは避けなければならない。香港の中国の主流から外れた与太者同様の若者や台湾の金権主義者たちの星条旗に惚れ込んだ連中に大義は無いことを日本人は認識すべきだ。この日本のアナキストが言うのだから、間違いない。
米国の邪悪な構造が解体され、再び、復活すること無い歯止めが出来上がれば、文学の自由は中國に戻って来よう。僕の好きな村上春樹が読まれているのだから間違いなく戻って来る。
自分の生き方を求めれば、自己研鑽に努めるでしょう。自己研鑽の道は、己を忘れて他人の主張を目で見て、耳で聞いて、心に刻み込み、よりよい選択・よりよい生き方を求めていく。文芸作品が不可欠となる。
人間は、小説とか詩といった「文芸作品」を」求める。求める方法は、①書店に出かけて求める、②新聞などの紹介で求める、③テレビ等での紹介によって求める、④PCなどでの紹介によって求める、⑤友などの紹介などが浮かぶ。池澤夏樹氏も全作品の電子アーカイブの構築を進めている。
問題は、自己研鑽する人が少なくなると、「文芸作品」を創作する人がいなくなる「文学の危機」が訪れるということではなく、読み手をいかにして「文芸作品」に近づけられるかということになる。「文学は何か」=自他の垣根を取り除き自己研鑽の道を切り開くということが忘れ去られると、文学が一部の知識階級の専有物になってしまう。昔に戻ることになりかねない。AIとかロボットが主役になっていく時代を無視した行動であり、日本だけでなく、世界的に大きな問題でしょう。