私は2010年、『日本人のための戦略的思考入門』という本を書いた。基本は安全保障に焦点を当てた本である。だが執筆にあたり、経営戦略の本も見たし、「ゲームの理論」も取り入れた。近代の戦略論だけではなく、紀元前500年頃の「孫子」や紀元四世紀頃に書かれたとされるインドの『実利論』なども見た。戦略とされる本は一応目を通してきた。
その中、驚く本が出た。「私達の眼の前にいる生き物達は,全て三十八億年の進化の歴史の中で勝ち抜いてきた勝者である。この進化の歴史の中で、生き物達は勝ち抜き、生き抜くための戦略を発達させてきた」としてその戦略を学ぼうとするのである。本は稲垣栄洋書『38億年の生命史に学ぶ生存戦略』である。幾つかの記述を見てみたい(適宜修文)。
・「ナンバー1しか、生きれない」これが自然界の世界に存在する唯一の真実である。
・ゾウリムシとヒメゾウリムシを同じ水槽で飼う。最初のうちは双方とも数を延ば
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> 私は2010年、『日本人のための戦略的思考入門』という本を書いた。基本は安全保障に焦点を当てた本である。
その「あとがき」で我々が戦略を学ぶべき理由がまとめられているが、一言で言えば、対米隷属に凝り固まった権力者の嘘と詭弁に騙されないため━ということだ。
しかし、本題の件、車の運転ができるわけじゃなし、何が楽しくて生きているのか気が知れないゾウリムシなどと一緒にされたくない!とは思う━それは冗談ですが、孫崎さん含め、勝ち抜いてきた人の視点が「如何に勝負に勝ち、トップに上り詰めるか」となるのは避けられないのかと思う。この視点こそ新自由主義の源だからだ。
新自由主義には、言わば、森の中の一本の巨木が養分を全部吸い取って、周りの小さな草木を全滅させてしまうイメージがある。そうなれば土壌も痩せ、早晩 巨木も倒れるのがオチだ。
あるいは、収穫するのに苗木もろとも、漁獲するのに稚魚もろとも獲り捲って、次のシーズン以降もはや獲るものが全く無くなってしまうようなイメージだ。
資質に恵まれ「オレはいけそうだ!」と思う者が「トップ」を目指すのは一向に構わないが、万人の道でないのは明らかだ。先日の種苗法改定(改悪)もそうだが、何処までも弱肉強食を前提にする権力者側の戦略に一般大衆が反撃するための戦略こそが緊要だ。
生存をかけた生き残り戦略は、弱肉強食が基本であるが多岐に渡る。
①国家対国家の生き残り戦略
②企業体企業の域の生き残り戦略
③人間対人間の生き残り戦略
各々個体の能力は,高低があり、得意不得意があり、千差万別となるのでしょう。
政治の問題で議論する場合、とかくすると,優生思想につながりかねず、気を付けないととんでもない方向に行きかねない。例示すると、
①ホロコーストの悲劇は、私たちの脳裏から消えることがない。ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人への組織的・国家的迫害と殺戮は残虐であった。
②新しいところでは、トランプ大統領の米国の白人至上主義と、習近平国家主席の漢民族至上主義は、様々な波紋を世界に発信している。
孫崎さんの随想は、多岐に渡って展開しており、企業体企業ともいえるし、個対個ともいえるし、的を絞らないとあらぬ誤解というか飛んでない方向に発展しかねない。優生思想につながる場合は、極めて危険な方向に発展しかねないことに十分留意する必要がある。
マイケル・ポーター、なつかしいな。でも、私の今の世界観から言えば、彼の説は良い響きを奏でているとは思えません。
その学説は技術革新段階における企業間の争いには通用するが、大国間の関係、中小諸国間の関係には適用厳禁といたしたいものです。やはり、國際関係では中国が推進してやまない「ウインウイン」、つまり、「共存共栄」を世界は受け入れるべきだと私は考えます。
マイケル・ポーターを信じて実践しているようにしか見えない米国の「金融資本」と「軍産複合体」はこれから10年くらいのスパンをかけて解体さるべきだと思います。
米国の偉大な政治家、フランクリン・ルーズベルトもアイゼンハワーもジョン・F・ケネデイーもその解体を視野にいれていたのです。
余談ですが、適者生存、いやな言葉です。自然の選択も嫌な響きです。尤も嫌な響きは「選民」です。選民を否定する回教や仏教を私は好みます。
>>3
お好きなら「回教」という言葉はあまり使われないほうが
無難かと。
わたしもあまりくわしくないのですが、かつてその言葉が
つくられた古代の中国では蔑称的な意味あいもあったのだそうで、
今では日本ではほぼまったく使われません。
中国ではどうなっているかは存じません。
それにてもカナは便利です。
すぐに「イスラム教」に変えられますから。
中国が漢字だけの表記にこだわる理由がわからない。
>>4
そうですか。知りませんでした。気を付けます。
今回の記事のお話は、「自分が」競争で勝つための戦略についてでもあろうが、俯瞰的にみると、「皆が」無益な競争をさけて勝者になるためには、どのような発想が必要かということについででもあろうと思われる。この点は孫崎さんの意図の解釈において重要だとおもうので、指摘しておきたい。
ところで、今回のお話を、「皆が」無益な競争をさけて勝者になるためには、どのような発想が必要かという観点でとらえた場合、経済学においてそれを合理的に説明したのがリカードの「比較優位」の考え方だとおもう。「比較優位」の考え方に従えば、その考えによって各経済主体が行動すれば、そうでない場合よりも、各経済主体は経済的に幸福になれるのである。
高校のとき、授業で「比較優位」「比較生産費説」について説明してくれた先生は、これが自由貿易の基本にある考え方だとし、結論として、日本は工業製品の輸出に特化して、食料(農業生産物)は全部輸入するという考え方もありうると述べられていた。
いま、あらためてこれについて思い出して検討してみると、いろいろと考えるべきことがあると感じるが、根本的に重要な問題として、自由貿易をおこなう各国が、ある一定の倫理規範に従わなければ、この考え方はうまく機能しないということを強く思う。
たとえば、ここにN国とC国とがあるとしよう。C国は工業製品が比較優位である。N国はかつては工業製品が比較優位であった時代もあったが、いまの比較優位は観光である。C国人に観光にきてもらいそれで得たカネでC国の工業製品を買うのである。ところが、C国人はときどきN国に疫病を持ち込みN国人が死に経済活動は停滞する。そのうえ、C国は、そうなるのはN国の対策が悪いのだと言いたげである。また、C国は自国の政治的意思をN国に押し付けるために、ときどき「そんなふうでは観光客を送らないぞ」とN国を恫喝する。
つまり、C国には、観光を取引する自由貿易を「比較生産費説」がうまく機能するようにおこなうためのある一定の倫理規範がなく、N国はC国と観光を取引することで、取り返しのつかない大きな痛手を受ける側である。それに比べて、C国人は、観光などしばらくしなくてもなんということもない。それにC国国内にだって観光地はあるのだ。
N国がC国に観光を売る取引で「比較生産費説」は成り立たないのである。
さて、N国はC国と、観光を取引する自由貿易をおこなって、幸福だろうか。それとも、ほかの相手あるいは考え方を選ぶべきだろうか。
C国と観光を取引する自由貿易をおこなってN国が共存共栄できると思う人の脳みそは、ミドリムシほども無さそうである。
>>7
このようなコメントは脳を刺激する。現在の経済を考えるうえで、非常にうれしいコメントです。
米国と中国は大国主義が頭をもたげる。日本が米国との貿易で、米国はWTOなどのルール無視して圧力をかけてきたことは、皆の脳裏に新しいでしょう。また、中国は、圧倒的な経済力で弱小国を飲み込み、借金の債務に追い込んでいる現実がある。
アダムスミスの国富論は、絶対優位論の経済学であり、デヴィドリカードが比較優位論をとなえ、大恐慌時代に不況が続いた時代には有効な経済理論であり、GATTからWTOの限界打破から全部でなく一定の仲間で経済を回すFTA・EPA・TPP・RCEPなどの経済協定ができている。絶対優位と相対優位の中で自国の優位とするものの生産に特化し他と貿易によって多くのものを得る双方の利益を確保する理論である。
冒頭に述べたように、大国が自国意識を露骨に出せばすべてが無効となるのは、トランプ大統領で実証済みであり、経済の大きさで圧力をかける中国で実証済みです。リカードの理論は人間生存の倫理がの生きている時代の話に過ぎない。トランプと習近平が支配する経済は弱肉強食であり、あなたの言っているとおりです。