「間違いを犯すことは許容される。だが嘘は許されない」 – ロシアの新国防大臣の引用文
ロシア大統領はベロウソフ元副首相を新しい国防長官に承認し、ベローソフは正式に現代ロシア史上9人目の国防大臣に就任した。同氏は5月12日プーチン大統領によって指名された。同職に就く初の非軍人であるため、この決定は予想外だった。ベローソフ氏は法執行機関に勤務したことはなく、キャリアのほとんどを学術経済学者として過ごした。
同時に、ベロウソフ氏はロシアの政治エリートの一員であり、過去20年間にわたり政府の重要な地位を務めてきた。ここ数年、彼はプロフェッショナリズムとロシアの将来に対する独自のビジョンを実証してきた。
・ベローソフが誰なのかをよりよく理解するために、RT は新国防大臣の最近の演説やインタビューからの引用をまとめた。
西側諸国との関係とロシアの使命
[ロシアは近代化された保守主義の道を歩むべきだ…ロシアは伝統
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はは、どっかの浅薄な活動家の演説聞くかパンフレット読んで、これは使えるというんで、ずっと「悪の凡庸さ(凡庸な悪)」と言ってるチュウ氏のお得意がまた出たね。
これ、「何も考えずに命令に従っていただけ」という理解は、そもそものアレント理解として間違っているってのが最近の定説なんだけどね。たしかシュタングネトを紹介してあげたこともあったはず。それにともなって、アイヒマン像の描かれ方もかわってきてるんですよ。
ま、アレントにもアイヒマンにもなんの興味もなく、ただ「悪の凡庸さ」と言いたい(しかも通俗的理解で)だけなんだから、しょうがないねえ。
>>19 >そもそものアレント理解として間違っているってのが最近の定説
それな、そもそも、前にも指摘たけど、論点がズレているぞ。この際、アイヒマンが実際どんな人物であったか?そんなことオタク学者が勝手にやってれば、というハナシ。
アイヒマンから、アーレントが抽出したある種の普遍的な人間の類型を凡庸な悪と呼べば良いのであって、アイヒマンがどんな人間だったかは、凡庸な悪という概念とは関係ない。
何度も同じことを言わせるな。オヌシが言っているのは、明治天皇は実はあんな西洋人みたいな顔じゃなかった、みたいな下らないハナシだ。
>>アイヒマンから、アーレントが抽出したある種の普遍的な人間の類型を凡庸な悪と呼べば良
これが間違い。わたしは「「何も考えずに命令に従っていただけ」という理解は、そもそものアレント理解として間違っている」と書いてるでしょ。
「エルサレムのアイヒマン」でアレントは、「上からの命令を粛々とこなした小役人」として描いてはいないんですよ。これはオタク議論以前のはなしなんで、「上からの命令を粛々とこなした小役人」の「悪の凡庸さ」をアレントやアイヒマンと結びつけるのは、単に「エルサレムのアイヒマン」を自分は読んだことがありません、と自白しているのと同じですね。
アイヒマンやアレントと独立して勝手な概念として「凡庸な悪」というのは別にかまわないけど、だったら「アイヒマンは凡庸な悪の象徴だ」(17)とはいわないことですね。
まあ、どうしても「アイヒマンは凡庸な悪の象徴だ」(17)と言いたければ、「それが世間での俗流理解であり、わたしは「エルサレムのアイヒマン」も読めないほどの文盲なのでそれを読んだことはなく、その俗流理解に従う程度の教養しかないので、俗流理解で使わせていただきます」くらいの注釈を今後つけたらいいとおもいますよ。
>>21>>23
>わたしは「エルサレムのアイヒマン」も読めないほどの文盲なのでそれを読んだことはなく
私が「文盲」でないことは、これまでの経緯から明白と思われるが、にも関わらず「文盲」を揶揄のために敢えて使用するところに、オヌシの差別的人間性が現れている。
「読めないほどの文盲」という表現の愚劣さ。高齢者の一部には、今も、貧困、差別故に文盲の人もいる。
ハッキリ言うが、オマエ、バカじゃないのか?
それとな、私は『われらはみな、アイヒマンの息子』(ギュンター・アンダース著、晶文社)を読んで、凡庸な悪という用語を使っている。従って、一般的用法だ。
本の紹介にはこうある。
「ナチスドイツのユダヤ人大虐殺=ホロコーストで大きな役割を果たし、1960年、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの秘密警察によって逮捕され、絞首刑になったアドルフ・アイヒマン。本書は、アイヒマンの息子にあてた公開書簡の形式をとっている。世界がグローバル化し、誰もが組織の歯車になりかねない時代に、個人の責任とはなにか、上意下達の組織、社会でいかにしてアイヒマン的存在から抜け出すか。自分で考える力の必要性を問う哲学の本。」
アイヒマンがどういう人間だったか、そんなことは関係ないという所以だ。
ほんとうに文字が読めないひとに、そんなことは言えませんよ。
文字が読める立場に開き直って、間違いを直そうとしないひとに言っています。
>>、私は『われらはみな、アイヒマンの息子』(ギュンター・アンダース著、晶文社)を読んで、凡庸な悪という用語を使っている
だったら今度からそう注釈すればいいとおもいますよ。そこまで含めて読み手に判断されるとおもいます。
「アイヒマンは凡庸な悪の象徴だ」(17)などと不用意にはいわないことですね。
あなたはもう忘れてそうですが、もともとこのはなしは、わたしがベロウソフをアイヒマンにたとえている点に、あなたがケチをつけたところから始まっているのです。わたしは別にまちがっておらず、ケチをつけられるいわれもなく、むしろあなたのほうが通俗的理解だと主張しているんですよ。
それがあなたにわかれば、はなしはおしまいのはずなんですがねえ。
>>26
>ベロウソフをアイヒマンにたとえている点に、あなたがケチをつけた
ケチ?間違いだと指摘している。オヌシは、比喩を間違えている。不適切だ、とな。
バイデンやブリンケンは、「アイヒマン」じゃないのか?あと、ヌーランド、それとゼレンスキーも。
こいつらは、「アイヒマン」じゃない、というなら、是非論理的に説明してもらいたいものだな。