A:事実関係
外務事務次官や駐米大使を歴任し、日中国交正常化交渉や沖縄返還交渉に携わった栗山尚一さんが1日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。83歳だった。
東京大学法学部を中退して、1954年外務省入省。佐藤栄作首相と米国のニクソン大統領との沖縄返還交渉に参画し、72年の日中国交正常化の際には、条約課長として日中共同声明の原案作成に携わった。
外務省条約局長、北米局長、駐マレーシア大使などを経て、89年に外務事務次官。次官在任中には、91年の湾岸戦争の対応に当たった。92~95年に駐米大使。
B:見解
・栗山氏は、今日の日米関係強化の基礎を築いた人物である。
ただ、同人は極めて冷徹な評価に基づいて日米関係強化をのべていたので、今日のような盲目的対米重視ではない。彼が外務次官時代、冷戦の崩壊で、米国一極支配の時であり、この時、対米強化を論ずるのは、それなりの合理性はあった。
コメント
コメントを書く尖閣棚上げ合意があって中国との友好が続いていた時、鳩山氏が掲げた東アジア圏構想は、現在、中国が主体的に進めているAIIBアジアインフラ銀行に引き継がれていると見るべきでしょう。鳩山氏の先駆的発想を中国が具体化したともいえます。
発想が素晴らしいのに、日本は加わず、米国に縋り付いている。先人が米国を出し抜いて中国と国交を結んだ外交力が無視され、米国一辺倒になっていることに、栗山氏は、どのような感慨を抱いておられたのであろうか。
栗山元事務次官のエッセイをブログで読んだことがあります。その中の一節、確か次の趣旨だったと思います。とても印象的で日本人の変な歴史認識の根っこの部分が理解できました。
「日本人は米国の激しい空爆のショックで過去を忘れてしまった。米国と太平洋で戦う前の約10年間、中国で中国人を無差別に殺戮していたことを日本人は知りません。今からでも遅くない。日本人の老いも若きも中国での日本の侵略行為がいかに残虐であったか勉強する義務がある。さもなければ、日本の将来は無い」
ということでした。
ご冥福をお祈り申し上げます。
安倍内閣を中心にした議会人の殆どが大陸や半島の人々に対して、今も尚、礼を失しています。中国や朝鮮では礼が道徳の規範です。恥ずかしいことなんですけど、破廉恥を破廉恥と思わない議会エリートが多すぎる。栗山元事務次官の目にはそんなエリートたちはすべからく人間失格者として映っていたことでしょう。このままだと日本は奈落。4月末、安倍首相が米議会でスピーチするらしいが、ネオコンが制する米議会ですから、スタンデイングオベイションは得るでしょう。スピーチ内容は恐らくイスラエルのネタニエフに負けず好戦的で米国保守の思惑に迎合するものになるでしょう。
しかし、米国の極右には安倍首相の好戦性は受けるでしょうが、世界のメインストリームからは冷たくあしらわれるでしょう。それが自らに打ち込むクサビとなることは間違いないと思います。それはあたかもサッカーのオウンゴールみたいな。
それが政治面での私の唯一の期待です。
対米従属という問題が、結局、損か得かで議論されていることに物足りなさを覚える。「損得」は、つねに、短期的なビジョンしか与えない。
長続きするものは、皆が真から共感するものだけだ。対米従属というのは国家として自立していないということだから、そんな国を誇りにする人は誰もいない。しかし、軍事的、経済的にメリットがあるから対米従属するのだろう。
これでは、若い世代がモラルハザードを起こしても、大人は文句を言う資格がない。自分の国を属国にした大人の言うことを青年が聞くはずがない。
今の日本の問題は、先人が千数百年の歴史の中で積み上げてきた価値観がかえりみられないことである。本来の日本人は「メリット」などという言葉で動くことを卑しんだ。「義」で動くことを人の道とした。効率的に利潤を上げるといった発想は日本文化にはなかった。また、「経済」を優先するのが「現実的」という発想もなかった。それは、近代化以後に「富国強兵」のスローガンといっしょに持ち込まれたものだ。それは、西欧の作った文明のなかに入って、列の最後に並ぶことを意味していた。
もう、西欧の後ろに並ぶのは終わりにして、小さくてもいいから、別の列をつくって先頭に立ってもいいんじゃないか。西欧人の価値観と日本人のそれは相容れない。好きなもの、大事にするもの、生命観、ことごとく違う。
中国の後ろに並ばなくてもいいが、欧米の後ろにつく必要もあるまい。日本人は、欧米や中国に劣らず商売がうまい国民だ。独立独歩でやっていける。
言葉にできないさんのようなご意見が本来は大切なのでしょう。
国家が自立していないだけでなく、家庭でも自立せず親元で生活するいい年した子供が増えており、障害者自立支援法は理解できるが、生活困窮者自立支援法などというと、この世の中はどうなっているのだろうと、考え込んでしまう。国家が、国を守るということに対して米国頼みであるし、財政的には国民の預貯金に依存している。とても自立した独立国とは言えない。大企業を守るために、無制限の金融緩和を行い、株式相場を維持するために、国民の大切な年金資産をばくち的要素の強い株につぎ込んでいます。官僚は天下り先をどんどん広げています。国家、官僚、大企業、農林業などすべてが自立せず、国民の預貯金、年金、補助金頼みになっています。他人頼みの実態はとても正常とはいえず、病んだ国ということができる。こんな時代は、自立して税金を多く払っている人が馬鹿馬鹿しくなってきかねない。さりとて、TPPなどで貧困化を進めたらひどいことになる。国に厳しさがないことが主因でしょうか。
younghope氏に共感をいただきありがたいことです。
この国を良くするには、若い人を大切に育てるということにつきるでしょう。この国の若い人は下を向いています。能力のある青年は、昔から、外国に出ていってしまう傾向がある。若い時はたしかに人間的には未完成だから、年長者から見れば腹立たしい面も多いが、自分もそうだったことを思い出しつつ、若い人が自由勝手にものごとを構想して実行できるような環境をつくってやることが最優先的な課題だと考えられる。
西欧社会の人びとは「勝手に考える」ことが評価されるが、日本では全体に調和することが優先されて、ゼロからの創造が全く評価されない。これでは、別の列をつくって先頭に立つことが出来ない。
特に、日本の小中学校の教育は、まったく自主性を認めない。高校から自分で考える教育を始めるのだがもう遅すぎる。高校の現場では、自由研究や自主学習の指導法が分からずに、大学教員や企業人に講演を丸投げしているケースが多い。というのも、高校教員自身が自分で考える訓練も実践もしていないからだ。
勝手に考える人が多いと意見がなかなかまとまらず、時間のロスが多いような印象があるが、実は、考えることに習熟した人びとは複数の考え方を受け入れることが可能であり、意見のすりあわせができる。むかしの国家公務員はそういう人たちで、知的にもすぐれていて、異なった意見をみごとに一本化して見せてくれていた。
かつての通産省の官僚など、米国に立ち向かっていく気概のある人がいた。新聞記者もそうだった。1960年代から80年代の新聞を読むと文体が今と全然違う。米国との摩擦についてもっと冷静に考えて対処している。
>>5
同じような時代を過ごしてきたようで、共感度が高くなっています。嬉しいことです。
「かつての通産省の官僚など、米国に立ち向かっていく気概のある人がいた。新聞記者もそうだった」。
通産省の官僚は、日本の経済を引っ張っているのだという気概を持っている人が多くいました。新聞記者も、言論によって新聞社を背負っているという気概の人も多くいました。懐かしい時代を思い出させていただきました。
>「嘘」と「詭弁」で権力者に迎合しようとする最近の外務官僚とは一線を画していた。
「・・・わが祖国はまことに奇妙な国である。すがすがしい思いを国民にさせたことがない。国も、同胞の少なからぬ部分も、大小の悪事をごまかすことを最大の急務と心得ているかのようである。悪者のみが栄えて権勢をふるい、少数の正直者、善悪の区別を知って悪に加担しない者は、悪者たちの残飯でかろうじて生きている、情けない、みっともない状態がこの島国全土を蔽っている・・・」(五味川純平-「戦争と人間」(感傷的あとがき)/三一新書、絶版)
この言葉を-今の日本を語っているかの如くだ-と天木直人氏がブログで紹介されたのが10年前でした。
そしてとうとう「情けない」とか「みっともない」という言葉さえ日本語から消えたかのようです。