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石原莞爾と東條英機:その61(1,883字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3日前
相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。...
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石原莞爾と東條英機:その60(1,924字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1週間前
永田鉄山が相沢三郎に殺された。その報に接したとき、石原莞爾は「なんだ、殺されたじゃないか」と言ったとされる。そして相沢に対しては、「妻子もある40代の男が、命をかけて何かをするということは、陸軍にはまだ見込みがある」と言ったとされる。つまり、永田鉄山の側ではなく、むしろ相沢三郎の側についたのだった...
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石原莞爾と東條英機:その58(1,885字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3週間前
皇道派は荒木貞夫と真崎甚三郎を旗頭としていた。荒木も、元々は一夕会の領袖を務めるなど、統制派の永田鉄山とは非常に近しい関係にあった。永田鉄山が荒木を引き立て陸軍大臣に仕立て上げたという経緯さえあった。ところが荒木は、陸軍大臣になってからは、腐敗した閣僚や経済人を一掃し、陸軍が中心となる国家を作ろ...
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石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 4週間前
永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家...
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石原莞爾と東條英機:その56(1,737字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
東條英機は久留米で電報を受け取った。そこに永田鉄山の訃報が載っていた。ただちに東京へのキップを取り、鉄道で一昼夜をかけて上京した。そうして永田邸を訪れ、その亡骸と対面した。東條英機にとって永田鉄山とは何だったのか?それは「全て」といっていい。永田鉄山こそ東條英機の生きる理由のようなものだった。師...
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石原莞爾と東條英機:その55(1,769字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
こうして永田鉄山は殺されてしまった。東條英機はそれを左遷先の久留米で聞いた。この頃、東條英機は久留米で苦しみながらもなんとか部下を掌握していた。当時の若手将校は、その多くが皇道派だった。しかも久留米は、真崎甚三郎が自分の子飼いを赴任させ、固めていた。そのため東條英機にとっては完全にアウェーだった...
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石原莞爾と東條英機:その54(1,854字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
真崎甚三郎は陸軍大臣になれず、代わりになったのは林銑十郎だった。これによって今度は真崎と林が対立するようになり、真崎は林の追い落とし工作をあれこれと計るが、逆に林の怒りを買って、今度は林が真崎に教育総監の地位も辞職するよう求める。真崎はこれに頑として抵抗したが、ついにその地位を剥奪されてしまう。...
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石原莞爾と東條英機:その53(2,039字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
気のいいオッサンの荒木貞夫は1931年、満州事変の真っ只中で、永田鉄山らの後押しもあって陸相に就任する。しかし1932年から若手将校たちが荒木の元に参集するようになり、やがて「皇道派」を形成する。いい気になった荒木は盟友真崎甚三郎とともに自らを利する独裁的な人事を行う。しかしこれが皇道派以外の反感を買い...
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石原莞爾と東條英機:その51(1,543字)
コメ3 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身...
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石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙し...
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石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さ...
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石原莞爾と東條英機:その37(1,931字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
満州は中国(漢)の一部ではあったが、モンゴル人や朝鮮人も数多く入植し、異国の文化もかなり混入していた。そうして満州独自の文化というものを形作っていた。さらにそこへ北方から侵略を窺うロシアの文化も流入され、実に混沌とした状況だった。中国、モンゴル、朝鮮、ロシア、そして日本が、元からいた現地民と入り...
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石原莞爾と東條英機:その32(2,063字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
石原莞爾は1920年、31歳のときに中国に赴任する。その直前には陸軍大学の教官をしていたが、そこはあまり性に合わなかった。石原は、エリート――特に陸大生クラスの人間が苦手だった。突出して頭が良いか、それとも自分の頭の弱さを知っている謙虚な人間でないと、上手く関係を持てなかった。後年、石原は自分の部隊を持...
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石原莞爾と東條英機:その30(1,657字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 10ヶ月前
石原莞爾は1920年に中国に渡る。そこで作戦課に配属される。いわゆる諜報部だ。ただし、この頃の中国はまだ平和だったので、石原の日々も平穏だった。このとき、石原は板垣征四郎と出会っている。板垣が石原の直属の上司だったのだ。板垣征四郎は陸軍士官学校の16期で、同期にはあの永田鉄山がいた。陸軍大学には少し遅...
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石原莞爾と東條英機:その24(1,750字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
一夕会はほとんど偶然にできた組織だったが、時の流れが味方して、信じられないくらいに勢力、そして権力を拡大していった。これはひとえに一夕会をリードした永田鉄山のリーダーシップ(時代の読みの確かさと求心力)もあるが、たまたまその周りに優秀なエリート将校が集まり、互いに切磋琢磨していったことの結果でも...
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石原莞爾と東條英機:その23(1,604字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
二葉会と木曜会の両勉強会が合流する形で、1929年に一夕会が結成される。ただし両会は、合流後も解散はされず各々継続していた。一夕会の中心になったのはやっぱり永田鉄山で、彼はこの頃から陸軍人事の「使い方」をほぼ完璧に掌握するようになり、陸軍内での「静かなるクーデター――乗っ取り」を密かに決行し始める。そ...
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石原莞爾と東條英機:その22(1,842字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
永田鉄山の作った勉強会(軍閥)である「二葉会」は、主に「陸軍人事」についての研究をしていた。陸軍人事の仕組みを解明して、どうすれば山県有朋の権力を希釈化できるか、またどうすれば自分たちの権勢を強めていけるのか、綿密に戦略が練られたのだ。一方、鈴木貞一が作った勉強会「木曜会」は、石原莞爾が参加して...
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石原莞爾と東條英機:その21(1,801字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
「1920年代」はどういう時代だったのか?今が2023年なのでちょうど100年前である。1920年は、大正9年である。そして大正は15年――つまり1926年までだ。そこから昭和が始まる。そのため1920年代は、前半が大正、後半が昭和という形になる。だから、「大正から昭和に移り変わった時代」だといえよう。石原莞爾は1889年の生...
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石原莞爾と東條英機:その20(1,852字)
コメ4 ハックルベリーに会いに行く 12ヶ月前
第一次世界大戦に、日本は同盟を結んでいたイギリスを助ける形で、いうならば「つき合い」で参加した。そうして、惰性で連合国側につくこととなったのだが、結果的に戦勝国となった。ただし、おかげでそれまで親しかったドイツと敵対することとなった。陸軍の若手幹部候補生だった永田鉄山は、開戦のまさにそのときまで...
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石原莞爾と東條英機:その18(1,669字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
永田鉄山は1910年(明治43年)に陸大を卒業する。26歳のときである。そこからヨーロッパに留学し、ドイツ、デンマーク、スウェーデンなどに10年間駐在する。そこで永田は、第一次世界大戦を目撃する。第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて行われた。だから、滞在期間の中にまるまるすっぽり納まるのだ。永田は第...
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石原莞爾と東條英機:その16(2,233字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 13ヶ月前
石原莞爾には同志であり尊敬できる先輩がいた。板垣征四郎である。板垣は1885年、石原は1889年生まれだから、4歳年上である。板垣は岩手出身、石原は山形出身だから同じ東北同士で、ともに仙台陸軍地方幼年学校出身であった。東條英機にも、やはり同志であり尊敬できる先輩がいた。永田鉄山である。永田は1884年、東條も...
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石原莞爾と東條英機:その13(1,629字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
陸軍士官学校の16期生、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次は「三羽がらす」と呼ばれた。ちなみに、卒業時の成績は永田が首位、小畑は5位、岡村は6位だった。この3人には共通項があった。また、仲良くなったきっかけもあった。それは、ある「デキの悪い後輩」の勉強を見ていたことだ。1期下、17期のある生徒が、陸大を受け...
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石原莞爾と東條英機:その12(1,615字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 14ヶ月前
板垣征四郎は地元の盛岡中学を卒業後、仙台陸軍地方幼年学校に進む。盛岡中学では特待生で、勉強はできた。が、トップになるというのでもなく、普通の優等生だった。仙台陸軍地方幼年学校を無難に終えると、陸軍士官学校に16期生として入る。16期には戦前陸軍の超重要人物となる永田鉄山がおり、彼は岡村寧次、小畑敏四...