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第74号 2014.2.18発行

「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、よしりんの心を揺さぶった“娯楽の数々”を紹介する「カルチャークラブ」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」、珍妙な商品が盛り沢山(!?)の『おぼっちゃまくん』キャラクターグッズを紹介する「茶魔ちゃま秘宝館」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが無限に想像をふくらませ、とことん自由に笑える「日本神話」の世界を語る「もくれんの『ザ・神様!』、秘書によるよしりん観察記「今週のよしりん」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)

【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…2月11日、安倍首相はこの日、「建国記念の日」を寿ぐメッセージを出し、産経新聞は社説で未だに政府主催の式典が開かれないことを嘆いていたが、この祝日の成立に最も寄与した人物を知っているのだろうか?一方、「建国記念の日」制定に反対し、「天皇の戦争責任」にも言及し左翼学者にもてはやされた「赤い宮様」が、皇位継承問題において「男系維持」を唱え自称保守派を操っている。その真意とは?
※「ザ・神様!」…突然の解散に見舞われた、神代の国土開拓コンビ「デコボコブラザーズ」。知恵者のスクナビコナに去られ、不安と絶望と焦燥とに駆られるオオクニヌシ。心のなかは「お先真っ暗」!国造りはどうなるのか!?
※馬鹿が百科を書いている…!!ウィキペディアの記事を徹底的に添削しちゃう大好評「よしりんウィキ直し!」。回を追うごとにひどくなるウィキペディアの記述、その傾向は今回もさらに続いて、飛躍的に最凶最悪の度合いを増していた!ウィキ運営からも目に余るルール違反と見なされた記述とは?


【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第75回「『建国記念の日』に反対した三笠宮崇仁殿下の情念」
2. しゃべらせてクリ!・第35回「貧ぼっちゃまきょうだいの絆に涙ぶぁい! の巻〈後編〉」
3. もくれんの「ザ・神様!」・第27回「われは汝、汝はわれ。オオクニヌシの魂から生まれた国造りパートナー」
4. よしりんウィキ直し!・第15回「ゴーマニズム宣言⑪:『天皇論追撃篇』(新天皇論)①」
5. Q&Aコーナー
6. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
7. 読者から寄せられた感想・ご要望など
8. 編集後記




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第75回「『建国記念の日』に反対した三笠宮崇仁殿下の情念」

 2月11日、わしは田中卓氏(皇学館大学名誉教授・古代史学の泰斗)に頼まれて大阪の国民会館で講演したが、そのとき「建国記念の日」の成立には、田中卓氏ら尊皇の本物の保守知識人と、左翼勢力のシンボルとしてこの祝日制定に猛反対した三笠宮崇仁親王殿下の激しい論争があったことを話した。
 安倍首相はこの日、「建国記念の日」を寿ぐメッセージを出し、産経新聞は社説で未だに政府主催の式典が開かれないことを嘆いていたが、そもそも安倍首相も産経新聞も自称保守派&ネトウヨも、この祝日の成立に最も寄与した人物を知っているのだろうか?

 それは皇統の「女系公認」を主張する田中卓氏である。
 そもそも神武天皇の実在を証明したのは田中卓氏なのだから、この学者がいなければ「建国記念の日」は2月11日に復活することはなかったはずだ。

 現在の「建国記念の日」は、昭和23年(1948)までは「紀元節」といった。
 初代天皇・神武天皇が橿原宮に即位した日を『日本書紀』の記述から推定し、日本の建国を祝う日として明治6年(1873)に定めたのである。
 しかし戦後、GHQによって紀元節は廃止されてしまった。
 そこで本土の占領が終了した昭和27年(1952)から「紀元節復活運動」が盛り上がりを見せるようになる。
 世論は復活賛成が圧倒的で、昭和32年(1957)に自由民主党の衆議院議員らが「建国記念日」制定に関する祝日法改正案を国会に提出。しかし日本社会党の反対によって審議未了となった。
 その後も根強い国民の希望がありながら、左翼政党や「進歩的文化人」らの反対により、「建国記念日」制定の法改正案は9回も提出と廃案を繰り返し、10年近くにも及ぶ攻防が繰り返された。

 その間、左翼側に立って「紀元節復活反対」の運動に大きな役割を果たしたのが、昭和天皇の弟で現在98歳の三笠宮崇仁(たかひと)殿下である。
 三笠宮殿下は昭和32年(1957)、日中友好論者(もちろん左翼)の東洋史学者、三島一の還暦を祝う会のあいさつで、次のような発言をした。
「2月11日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、肝心の歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか」
「先日松永文相に会ったとき、『日本書紀に紀元節は2月11日とは書いてない』といったら驚いていた」
「このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか」
「この問題は純粋科学に属することであり、右翼左翼のイデオロギーとは別である」

「日本書紀に紀元節は2月11日とは書いてない」なんてことを問題視しているのにも驚くが、「純粋科学に属すること」という発言も不可解である。
 紀元節復活論争では、戦前の正史批判によって左翼に絶大な人気があった津田左右吉でさえ「実ではないが、キリストや仏陀の降誕も同様なことだ」として、儀式としての祝日を是認したのだが、三笠宮にはこのような見識もなかったのである。

 この三笠宮殿下の発言は毎日新聞同年11月13日付でスクープされ、大きな波紋を巻き起こした。
 これを機に、尊皇派の学者・論客が立ち上がり、翌昭和33年(1958)4月に『神武天皇紀元論―紀元節の正しい見方―』という本を刊行。
 この編集・刊行を担当したのが若き日の田中卓博士で、企画から出版までわずか1ヶ月半で、平泉澄・肥後和男・樋口清之・葦津珍彦・小野祖教・田中卓など、錚々たる25名もの学者が執筆し、「紀元節」賛成の論文集を発行したのだった。
 田中氏はこの本が完成するとすぐに、三笠宮家に献上。これは三笠宮殿下に対する「諫言」だった。

 しかし三笠宮殿下の「紀元節復活反対」はもはや「信念」と化しており、著名な左翼系の学者に電話をかけたり、自筆書簡を郵送したりと、直接の働きかけまでしていた。
 そして昭和33年11月、殿下は歴史学者として所属していた「史学会」の東京大学における大会総会において、「反対決議をせよ」と強く主張。坂本太郎理事長がこれを「政治的」だとして拒否すると、脱会を宣言して席を蹴ったのだった。

 三笠宮殿下は「文藝春秋」昭和34年(1959)1月号では、『紀元節についての私の信念』と題して次のように語っている。
「真理を主張するのがなぜいけないのか」
「紀元節の問題はすなわち日本の古代史の問題である」
「(紀元節復活に反対するのは)生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての、責務である」
「もし二月十一日が祝日にきまれば、われわれはその廃止運動を展開するであろう」

 この中で「旧軍人としての」責務という発言があることに注目してもらいたい。
 三笠宮は戦時中、陸軍大尉として南京の支那派遣軍総司令部に勤務していたが、その時にシナ軍のプロパガンダをすっかり信じ込んでしまったらしく、離任の際には総司令部の全将校を前に、「軍部が中国に対して反省と謙虚さを欠いて侵略したことを厳しく批判」する内容の講和を行ない、「情誼的で人情を重んずる」中国人の心情を理解せよと説いていた。
 戦後は「人数は関係なく、南京大虐殺はあった」とか、「八路軍の婦女子に対する厳正な軍規と、モラルなき日本陸軍の蛮行」とかを語り、「天皇の戦争責任」まで言及した。