プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は私が愛した“若獅子”アントニオ猪木です!



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きょうは、毎月レギュラー連載している小佐野さんの配信版をお送りいたします。テーマは、先日お亡くなりになったアントニオ猪木です。小佐野さんといえば全日本プロレス系のイメージが強いですけれども、もともとは猪木さんの大ファンだったんですよね。

小佐野 じつはそうなんですね。高校2年生のときから、1978年に『ゴング』でバイトを始める80年の春まで、新日本プロレスファンクラブ『炎のファイター』をつくりまして、そこの会長をやってたんですよね。

――当時はそういったファンクラブ的なものがけっこうあったんですか?

小佐野 当時はファンクラブブームだったんですよ。たとえば新日本系だと、藤波(辰爾)さんが凱旋帰国したばっかりで人気があったから、『飛龍』という藤波辰爾ファンクラブがあったり。

――『飛龍』はうっすら名前を聞いたことあります(笑)。

小佐野 猪木さんのファンクラブとしては『若獅子』というものが前からあった。そんな中で自分もファンクラブをつくりたいなと思って、勝手につくっちゃった。それで78年6月1日、日本武道館大会があったんですよ。猪木vsボブ・バックランドのNWF&WWWF世界戦のダブルタイトルマッチ。

――WWWFはいまのWWEですね。

小佐野 その日は現地観戦したんですが、たまたま入り口にいた新間(寿)さんに「すいません、ファンクラブをつくったんですけども、藤波さんにインタビューできませんか」とアポなしでお願いしたら、「いいよ」と会場に入れてくれて(笑)。

――すごいですね、新間さんも(笑)。

小佐野 新間さんはリングサイドにいた藤波さんに「カンペオン」って声をかけて。カンペオンはスペイン語で「王者」って意味なんだけど、「カンペオン、ファンクラブの坊やがインタビューしたいって言ってるから付き合ってあげて」と。藤波さんも快く応じてくれて、そのインタビューを基に会報をつくって、『月刊ファイト』や『月刊ゴング』に「こういうファンクラブをつくりました」を送って会員募集したんです。会報の書評を『ゴング』では宍倉(清則)さんが書いてくれました。

――おお、あの宍倉さんが!(笑)。

小佐野 『週刊ファイト』はターザン山本さんが、その号かどうかわからないけど、書評を書いてくれたことがありましたね。

――読んでみたいですね、その書評(笑)。

小佐野 パソコンも何もない時代だから会報は手書き。撮った写真を貼りつけて、それを神保町の安くて性能のいいコピー屋を探してコピーして、それをでっかいホチキスで止めて会員に送ると。途中から表紙だけはオフセットにしてちょっと豪華にしたり。最終的に会員は100人はいかないくらいだったと思うけど。

――SNSどころかネットもない時代のファン同士のコミュニティーですね。そこまで熱狂的だったのは新日本プロレスが好きだったからですか?

小佐野 プロレスはもちろん全般的に好きで。日本プロレスから見てるし、全日本プロレスも国際プロレスも見てたけども、一番好きなのはやっぱりアントニオ猪木。

――猪木さんが好きになったきっかけってなんですか。

小佐野 もともとは、ボクらの世代だと父親がプロレスを見てた世代なんですよ。テレビでプロレスが始まって力道山が大人気になったからね。それでボクも幼稚園の頃からプロレスを見ていた記憶がある。それはジャイアント馬場全盛期の時代だったけど、子供としては、やんちゃな人が好きじゃないですか。時として暴走してしまうアントニオ猪木。その一方でコブラツイストや卍固めとか、他の選手にない技がすごく新鮮だった。

――当時のプロレスでコブラツイストや卍固めは衝撃だったんですね。

小佐野 あの頃のプロレスごっこでみんながやったのは足4の字とコブラツイスト。卍固めはちょっと難しいんです。コブラツイストも毎週テレビで見てたけど、卍固めはたまにしかやらないから、なかなか覚えられないんですよ(笑)。当時はビデオがないでしょ。まだプロレス専門誌も読まない子供だったから、写真も見られない。そうすると、たまにやる卍固めをテレビで見て目に焼き付けるわけですよ。でも、なかなかわかんないんですよね。

――卍固めって猪木さんほど美しくやれる人っていなかったですよね。

小佐野 その当時はやる人が他にいなかったし、アントニオスペシャルと呼ばれていたからね。

――プロレスファンにとってはアントニオ猪木という存在は革新的だったんですね。

小佐野 タイツもオレンジ色だったり、他の選手と違ってかっこよかった。子供から見ると、他はみんなオジサンなんですよ(苦笑)。

――馬場さんにはモンスター感があるし、他は相撲上がりであんこ型が多かったり。

小佐野 なによりスピーディーなテクニシャンがいなかったから。71年の福岡でやった猪木vsドリー・ファンク・ジュニアの3本勝負は1-1の時間切れ引き分けなんだけど、猪木さんがジャーマンスープレックスでドリーから一本取ったんですよ。その試合をテレビで見て、ますます好きになったことを覚えてる。「猪木はジャーマンスープレックスもできるのか!?」と。

――ジャーマンも新鮮なんですね。

小佐野 ジャーマンスープレックスをやれる人は、カール・ゴッチとヒロ・マツダとアントニオ猪木しかいなかったから。しかもヒロ・マツダは当時はアメリカを戦場にしちゃってたから、ジャーマンは映像で見たことがない。71年当時は専門誌で技の連続写真企画もないですよ。カメラの性能がそこまでよくないから連続で撮ることができない。

――令和に話す内容じゃないですよね(笑)。

小佐野 なんとなく連続写真になったのは72年頃からかな。新日本が旗揚げしたときのゴッチ戦で、ゴッチさんがジャーマンをやったけど、猪木さんの脚がロープに引っかかってカウントを取れないことがあった。そのシーンが3枚くらい連射っぽい感じになったのを雑誌で見たような記憶がある。

――猪木さんといえば異種格闘技戦のイメージを持つ人が多いですけども、小佐野さんはそれ以前の猪木さんに熱狂したんですね。

小佐野 若獅子時代のアントニオ猪木ですよね。いわゆるアメリカンプロレスをやってた時代の猪木さんだよね。ドリー・ファンク・ジュニアの自慢のひとつには、初めて会ったアントニオ猪木と、お互いになんの知識もなくても、60分間試合ができたと。それはやっぱりドリーもすごいし、猪木さんもすごいってことだから。

――その頃からプロレスの達人だったってことですよね。その頃の猪木さんに格闘技的な強さは感じました?

小佐野 その当時は格闘技とプロレスって分けて考えてないからね。プロの競技としてはボクシングとキックボクシングしかないし、プロレスでキックのように蹴る人はいない。プロレスの場合はストンピングだから。

――格闘技的な蹴りが導入されたのは、猪木さんのアリキックぐらいからですよね。

小佐野 異種格闘技戦になるまではそういう技は使ってなかった。あくまでもプロレスをやっているということです。その中で猪木さんの場合は、タイガー・ジェット・シン、ストロング小林、大木金太郎とやったりすることで、凄みが出ていって「若獅子」から「燃える闘魂」になったという。

――カリスマ化していく変遷を見たと。

小佐野 ボクが猪木さんの試合を初めて生で見たのは、1973年2月20日、猪木さん30歳の誕生日だったんですよ。新春バッファローシリーズ、ノーテレビ時代の最終戦の横浜文化体育館。メインが猪木&柴田勝久vsトニー・チャールズ、ジェフ・スポーツなんだけど。

――申し訳ないですけど、外国人のことはまったく存じ上げません(笑)。

小佐野 2人ともイギリスのテクニシャン。トニー・チャールズはドロップキックの名手だった。その日は猪木さんの誕生日ということで、来場者全員が、猪木さんが卍固めをかけたイラストに、猪木さんのサインが入ったせっけんをもらったんですよ。

――それは欲しいです!(笑)。

小佐野 それをプレゼントされたからいまでも覚えてるわけ。次のシリーズから、日本プロレスから坂口(征二)さんたちが合流して、新日本がNET(テレビ朝日)で地上波中継されるようになった。

――テレビが付いたことで新日本プロレスは人気が出始めますが、それまで続くと思いました?

小佐野 あの当時って一番大事だったのは外国人選手なんですよ。新日本に来ていた外国人は知らない名前ばっかりで。たとえば国際プロレスでは下のほうだったレスラーが新日本ではエース格だったりね。だから子供心に不安だったよね。こんな外国人しか呼べなくて大丈夫かな……みたいな。

――しかもテレビでもやってないですし。

小佐野 テレビでもやってないから、旗揚げから1年近く、猪木さんのファイトをボクは見れてなかった。その当時の新日本はビックマッチがあるわけじゃないし、雑誌でも大きく扱われない。新日本が旗揚げした年の10月に、猪木vsゴッチを蔵前国技館でやったんですけど。それはテレビ東京、当時の12チャンネルで放送したんです。たしか夜23時くらいからの録画放送だったと思うんだけど、子供だから早く寝るでしょ。親に「起こしてくれ」って頼んだ記憶がある。

――ビデオ録画ができないから見逃しはできないわけですね。

小佐野 なんでテレビ東京でやったかといえば、その年の10月に全日本プロレスが旗揚げして日本テレビの放送が始まったんですよ。新間さんの話だと、それが悔しくてなんとかテレビ東京で放映できないかと。新日本が金を出して番組枠を買ったんじゃないかな。

――テレビ朝日がついて新日本が軌道に乗るわけですね。

小佐野 軌道に乗ると同時にタイガー・ジェット・シンが来たし、ジョニー・パワーズからNWFのベルトが獲ったし。ストロング小林や大木金太郎戦もあった。ボクも新日本にすごくのめり込んだわけですね。

――実質インディーだった新日本プロレスがメジャーに駆け上がっていくさまを共有できたんですね。

小佐野 お金もできたからアンドレ・サ・ジャイアントだって呼べるようになった。その頃は東京スポーツからアントニオ猪木自伝『燃えよ闘魂』が出たんですよ。これは猪木ファンのバイブルみたいなもんで。このときに初めてブラジル移民時代の詳しい話も知ったし。

――あ、それまで知らなかったんですね。

小佐野 知らなかった。ブラジルから来たことは知ってたけど、どんな物語があったのかはあんまり表に出てこなかったから。どういう経緯でブラジルにいて、どういう経緯でスカウトされて、どうやって日本に来たかってことを初めて知ったんです。プロレスラーの自伝といえば当時は珍しくて、力道山の自伝は出てたと思うけど、馬場さんの自伝は出てなかったはずだから。

――馬場さんが主人公のマンガ『ジャイアント台風』はおもいきりフィクションですもんね(笑)。

小佐野 あれはあれで読んでて非常に楽しかったですけどね(笑)。中学生になると、大人になってきてるので、そういうちゃんとした自伝のほうが面白いわけですよね。

――当時にしては珍しい自伝が出るほどの注目レスラーだったってことですね。日プロ時代は馬場さんに次ぐナンバー2でしたけど、エースになる雰囲気はあったんですか。
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