4日、千葉県で講演に出かけた。主催者は千葉県高等教職員組合などである。
私の講演の後、一人の教師が高校の現状を説明した。
・今、私の学校の中央廊下に雨漏りがして、廊下にバケツをおいている状態が2年間続いている。補修費がつかないのである。
他方百万円を超える規模で、緊急性を要しないコンピューターの買い替えが進んでいる。こちらは予算がある。
・おかしいだろう。これが実情だ。現場に判断させない。それがここまで来ている。
・千葉県では今70%の教職員の賃金がカットされている。
他方、管理者や、優秀と認めた30%に昇給が図られている。当局に望ましいと思われるものの給与が上がり、他の人はカットされる。
・これらは何を意味するか。
現場は自ら考えるな、指示を実行すればいい、それがこのような状態を生み出すとろろにまできている。
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教育現場の実態を報道で見聞するたびに、この建物補修よりも教育の実態がどうなっているか、疑問が大きくなっている。
詳細を承知していないが、生徒数が少なくなっており、学校の統合化が進んで居るが、話し合いがスムーズに進まず、このような放置状態になっているのではないか。何故が欠けると、本当のことが分からない。説明が欠けている。
マンモス教師とマンモス父兄のはざまで、肝心の生徒がわきに追いやられ、「イジメ」などは、公立学校で蔓延しているが、障害、殺人事件が起きるたびに、先生は全く知らなかったといっている。生徒の行動を把握できないような先生は、即刻辞めるべきであるが、その方向にいった例はない。建物に関心が行くのは、津久井の障害者事件も同じである。問題を軽く見ているわけでないにしても、障碍者現場、教育現場の現状をカモフラージュすることが、このような雨漏りの例につながっているに過ぎないのではないか。教育現場で、現在の先生が荒れる生徒に対応できないのであれば、経験豊かな高齢者の活用を考えいくべきであり、警察の関与も検討していくべきでしょう。現在の教師では、複雑な社会の犠牲者である生徒の心を癒し、更生させる能力が欠けているとみなすべきではないか。あまりに長く、「イジメ」問題が報道されるが、何故、根本的な解決策を取ろうとしないのか。市町村と教育関係者が真剣に考えてほしい。建物は一時的なものであるが、将来ある生徒の心に寄り添わない教育現場の方が問題である。
雨漏れの予算が2年間もつかないなど狂気の沙汰である。組合が予算について無知だからこんなことになるのである。学校にとって本当に大切なのは何なのか、ちょっと考えればわかるはずである。生徒や父兄を巻き込んで、どう思うか議論すればいい。そのうえで、アホな予算担当課など相手にせず、直接教育長に直談判すれば済む話である。ただ、予算担当課としては、工事費はつけないが、需用費を使えばいいではないかと思っているかもしれない。需用費は必ず予算が配当されるので、節約すれば、修繕できるではないかと言いたいのかもしれない。需用費は少額であれば修繕費としても使えるのである。そのことを学校事務職員はわかっているのだろうか。それにしても予算担当課と学校の意思の疎通が計れていない最悪のケースである。
小泉政権以来、公務員の世界まで成績主義、競争主義の考えが押し付けられるようになった。営利を求める民間ならいざしらず、公務員の世界にこのようなことが強いられれば、互いに相手を蹴落としてやろうという気持ちが沸き上がるのは当然である。職場は年がら年中殺伐とした雰囲気になる。全く良いことはない。売り上げのように目に見える形がないのに、無理やり成績に差をつけなければならない状況をつくったのである。上司は部下を評価し、部下は上司を評価するという様式まで作成し、人事課へ提出させる等が起こったのである。戦時中じゃあるまいし、大変なことになったものだ。目に見える形で給与の分捕り合戦をやらせたわけである。おぞましいことが起こったのである。公務員は競争がなく、ぬるま湯につかっていると言われるが、それでいいのである。殺伐とした職場からは、住民への暖かいサ-ビスは出てこないのである。和気あいあいとした職場だからこそあたたかいサービスが生まれるのである。競争主義を公務員に取り入れた小泉政権の最大の汚点として今も残っている。千葉県は、何にも考えない、政府、官僚の言うことを忠実に守っているアホな県だということがよくわかった。
> 現場は自ら考えるな、指示を実行すればいい、それがこのような状態を生み出すところにまできている
これは独り公立高校だけに限った話ではないと思います。
孫崎さんが再三指摘されているこの国のマスコミは言うに及ばず、多くの企業でも横行していることでしょう。
もちろん、上は現場の実情を自ら丁寧に把握したことを踏まえて指示を出す-など まずあり得ない。
直下の部下に報告させるだけ-
「何か問題があるのか」
「実は中央廊下の雨漏りが もう2年間も続いてまして...」
「何だと?」
「廊下の雨漏りが...」
「何か問題はあるのかと訊いてるんだ!」
「ありません...」
「よし、問題なしだ。帰っていいぞ」
つまりは、現代に蘇った大本営はアベ政権だけでなく、日本社会の彼方此方が「ミニ大本営」化している。
「逃げない、隠さない、ウソつかない」など何処吹く風と、嘘と詭弁を繰り返し、逃げ回るのが当たり前になっている。
どうしたらいいのか。
上だろうと、ダメなものはダメだと言う勇気。
下からの批判に対して聞く耳を持つ度量。
しかし、今の日本にはどちらも致命的に欠けている。いや、これらが決して身に着かないよう、昔からずーっとその方向で教育してきた必然の結果と思います。この悪循環をどう断ち切るか。
体制が教育現場でお金でもってゴマスリを誘導しているという風に私は捉えているのですが。
ゴマスリで思いだしました。「粗にして野だが卑ではない」と言って戦後国鉄総裁になった石田礼助は戦前日米開戦阻止を工作しようとした三井家の三井物産社長だったことが孫崎先生のお話の中に確か出て居たと記憶しているのですが、石田礼助の「卑ではない」という言葉は「ゴマスリをしない」ということを意味している筈だと三井家の家訓に照らし合わせて私は勝手に解釈しているわけです。三井家はともかくとして、昔からゴマスリは日本のお家芸であることは内外の著作から判断して否定できないようです。
そういう環境下、国ぐるみでゴマスリを涵養し始めたとなると行き着く先はやはり戦争ですか。この日本式マッカーシズム(敢えて私はそう呼びたい。日本の歴史をひもとくと実に金に安易に転んでいるのです。戦国武将も例外でない)は日本の本性を突いていて実に性質(タチ)が悪い。やはり我が国はもう一度痛い目に遭わないと修正は効かないのでしょうか。この不沈空母の方向を変える方法はありませんか。卑でなかった7つの海を制した戦前の大三井の統帥だった石田礼助でさえも工作に失敗した日本ですからやはり難しいのでしょうか。