1956年の日ソ共同宣言は事実上の平和条約であった。つまり、ここでは、①戦争状態を終結決する、②友好善隣関係が回復される、③外交・領事関係が回復される、⓸ソ連は賠償請求権を放棄することが記載されている。

では何故平和条約と呼ばなかったからか。それは領土に関する合意が出来なかったからである。

ソ連は歯舞色丹を返す事には合意した。だが国後・択捉は自国領と主張した。日本側はこれを飲めなかった。サンフランシスコ講和条約で日本は千島を放棄し、吉田首相は国後・択捉は南千島と述べているから、日本政府は、①歯舞色丹を返す、②国後・択捉はソ連領で合意できた。これは許さないというダレス国務長官の圧力で実施できなかった。

今回平和助いう役を結ぶということは領土問題を決着するという点にだけ、意義がある。

それは①歯舞色丹を日本に返す、②国後択捉をロシア領とすることを日本が暗黙に認めることである