何気なく触れた言葉が自分の生き方で影響を与える時がある。
『心を豊かにする100の言葉』(PHP)にそんなものがあるかもしれない。
幾つかを書き出してみた。
バラカン:何もない人には失うものがない
ボブ・ディランの名曲『ライク・ア ローリング・ストーン』の歌詞の一節ですが、昔から頭を離れない言葉です。
今年は体調を崩して二〇年ぶりに医師のお世話になったぼく、ものに固執するほど悩みが増えるともいいますが、長年続いていたラジオ番組が打ち切りになってしまうことに抵抗したストレスが原因でしょう。
愛着をもつのはいいですが、何事もいつか終わることを、身をもって勉強させられました。
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土屋賢二:トルティーヤがあれば何もいらない
トルティーヤはとうもろこしの粉を薄く焼いた食べ物。この老人は毎食つけあわせも味付けもなしにトルティーヤを食べて
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蜷川幸雄さんの「汝の道を進め、そして人々をして、語るに任せよ」はカール・マルクスの言葉からの引用だと思います。多くの反対派から強烈に批判されたマルクスならではのことばですね。
あるがまんまを説く著書がある。が、その著書それぐるみ捉われの著だったりする。要は「物を生かす・己を生かす」。覚えやすくい。商いの心得もある。「造る側の身になって是を仕入れ、買われる側の身になって是を売る」。これも記憶出来る。とっさの判断を迫られる時がある。そんな時、意外な言葉だったり、面影だったりする。
人間って不思議なことであるが、言葉によって大きく左右される。褒められれば喜ぶし、怒られれば怒る。素直に受け入れる言葉って何だろう。自分にとって直接的な被害がなく、聞いて損はない言葉であろうか。でもそんな視点で言葉を聞いても、時が過ぎれば消えてしまう。己の生き方の中にどのようにして生かすかの思考行動が伴わなければ、あくまでも「その人の体験に基づいた言葉」であって、聞いた人が本当にその人を理解したことにならない。言葉を吸収し、体験、体感するのが大切なのでしょう。
「はじめに言葉ありき、なぜなの?パパ」
知っている人もいるかもしれないが、タルコフスキーの遺作「サクリファイス」のラストシーン。言葉を失った子供が、父と植えた日本の木に水をやって初めて発する言葉である。そしてチョムスキーは言語の獲得は人間が生まれながらに持っている特性であることを説いた。言語とは、聖書が示すように無からの創造であるが、同時にそれに参画しないものにとっては「バーバリアン」であり無価値ということになる。もしもタルコフスキーの問いにチョムスキーが答えるとしたら、「言語の獲得は人間が生まれながらに持っている特性である」と答えるだろう。それは既に我々の精神に埋め込まれているのだ。だからそこには神も糞もない。子供が遊びながら言葉を獲得していく。それだけのことだ。
> やなせたかし:エラクナッチャイケナイ ミットモナイ。
赤塚不二夫氏も同趣旨のことを言っていた気がする。そして、ボルヘスの次のエピソードも思い出した-
あるときブエノスアイレスにノーベル賞委員会でスペイン語文学を担当していたスウェーデン人がやってきた。委員会はその年の文学賞をボルヘスに与えるつもりだったようだ。ところがボルヘスは歓迎の晩餐会の席で、
「ダイナマイトを発明するとは立派なことだ」
と、ノーベルについて(言わずもがなのことを)言った。
その年、ボルヘスはピノチェー独裁時代のチリを、招かれて訪問した。出発前に例のスウェーデン人から電話がかかってきて、チリに行けば受賞はないものと思ってほしい、と伝えられた。するとボルヘスは、
「人には許しがたいことが二つあります。脅迫することと、脅迫されることです」
と返答した。その結果、受賞はなく、「永遠の候補者」に留まった。
(伊高浩昭氏ブログ「現代ラテンアメリカ情勢」より)