11月28日菅原文太氏が亡くなった。
菅原文太氏は俳優である。朝日新聞が「実録路線男臭く」「菅原さんの動、高倉さんの静」と報じた。
晩年、「絶対に戦争をしないこと」で行動した。その存在は極めて貴重である。
私も菅原文太氏のラジオ番組で日米軍事関係について話させていただいた。
産経、毎日、朝日等がこの分野も報じた。
もっとも丁寧なのが、産経、次いで毎日、朝日である。
・1日産経「妻、菅原文子さん 7年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種をまいて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に
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国債の格付けが下がり、ついに中国、韓国より国家の土台が下位になってしまった。
物価を上げるために巨大なマネーをばらまいて円の価値を下げ、株式市場の取引額が中国に逆転され3位になった。正常な市場競争によって格下げ、3位になったのではない。日銀の馬鹿な日本売り政策によって、日本の評価が下がっているのである。大きな問題は、同じように国民が多年にわたり蓄えた資産が、同じような米ドルの評価では、30%以上減っているのです。確かに米ドルを保有していれば、100万円が150万円になっており、笑いが止まらないが、それは持っている人の笑いでしかない。もたない人は、50万円の格差をつけられたわけである。物価は上がり、資産格差をどんどん広げるアベノミクスに持たない人まで安倍政権を支持する理由がわからない。支持する40%の人が株式とか、外国債券を持っているとも思えないのですが。日本人は政府に対する依存症が強すぎるのでしょう。これからも、騙され続けるのでしょうか。
菅原文太さんが残した“遺言” 「日本はいま危うい局面にある」
2014年12月1日
日刊ゲンダイの記事です。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/155392/1
【連載「注目の人直撃インタビュー」2013年8月29日号より】
集団的自衛権を巡る憲法解釈の見直しや自衛隊の海兵隊化――と、参院選後の安倍首相は露骨に右傾化を強めている。そうしたきな臭い状況に危機感を抱くのが元俳優の菅原文太さんだ。この夏80歳を迎えた老優は日本の何を危惧しているのか――。
■「今の日本は真珠湾攻撃をした時と大差ない」
菅原文太さんのことを良くは存じませんが生前こんなことをおっしゃっていたんだと初めて知りましたので、日刊ゲンダイの記事を読んで頂ければと思います。
ヤクザ映画の方だと思っていましたが、この記事に感動しました。
偏見が恥ずかしいです。
彼には「義侠」を感じる。最近そんな男がいなくなった。義侠と言えば、レイモンド・チャンドラーが描く私立探偵マーロウみたいな人物、男の中の男というか、そういうものを私は管原文太に感じる。
欧米では、有名な俳優や歌手が政治的発言をするのは珍しくないが、日本では極めて珍しいことだ。
その原因は、山本太郎のように、テレビなどの番組を降ろされてしまうためだ。芸能人だけならまだしも、政治評論家でも、森田実氏のようにテレビ出演ができなくなってしまう。これが、思想や言論の自由を保障された国と言えるだろうか。
政権に不都合な発言を封鎖する政党が、最大の支持率を誇っているのは、国民のレベルがいかに低いかを証明しているのではないだろうか。
mm.さん、それは反自民的左派ないしリベラルの立場からの
発言の場合です。
長きにわたる自民党の支配構造が日本をこんな国にしました。
米国の場合共和党、民主党のちがいなんて基本、無きに等しい
といっていいですから。
しょっちゅぅ政権交代もありますし。
日本でも自民党によりそう右派的発言なら好きほうだいできます。
津川雅彦がテレビでどんなヨタをとばしているか。
まあそうですね。喧嘩ぱやいのはいけませんね。和平の道があるのならその可能性を探るべきだと思います。でも誰かが書いていたように、生温い環境でなめきってしまうカエルでは、あまり意味はないので喧嘩にもならずにおしまいですね。人生は切磋琢磨です。明日は昨日よりよくなろう、そう思うから未来はあるのです。誰もが明日に希望を見いださない世界は荒れ地と呼ばれますね。
必見!!!沖縄への思い、平和への思いは遺言となって私たちの心に刻まれている。https://www.youtube.com/watch?v=8PFTMiaHXAc
今はビデオは見れないけれど、平和への祈りは共有します。それは一方が他方を利用するとか、見下すとか、そういうところからはなれて、自分のルーツを深く理解するということではないかと思います。アメリカが好きという人がいる。アメリカには確かに見習うべきものがある。でも僕は好きにはなれなかった。その国の味わいのようなものを感じ取ることができなかった。それは良くも悪くも歴史を持たないということと表裏一体だろう。歴史から自由であるが故にという側面と歴史の持つ深さという側面があり、それはまるで人生の選択そのものだ。ただ表層を行きているかのように見えるアメリカ人でも、やはり人間として大切なものは、合理的即物的価値観からはなれて共有できるものだと思う。それは客観的ではないけれど普遍的なのだ。人間はそれを感じるようにできている。そういうものを大切にしていけないだろうか?そこで深く分かり合えるはずだ。