左右社掲載随筆、
http://sayusha.com/webcontents/c12/p=201609081200アメリカの大学は8月の末に始まる。そろそろ学期モードに切り替えないといけない、と思ったその日は、南カリフォルニアではめずらしいヒートウエーブの真っ最中だった。我が家に住む三毛猫は、日陰でびよーんとのびていた。来年出版予定である本の原稿の修正を、その次の日から3日間、計26時間で仕上げた。こまかくて骨の折れる作業で、えらく体力を消耗した気がした。それから、シラバス作成を始めた。表の並木道では百日紅が、裏庭ではブーゲンヴィリアが、白く、或いは紅く、鮮やかに咲き誇っていた。
「仕事の時期」がやってきた。今年はどう乗り切ろうか。根付く、ということについて考えている。百日紅にしてもブーゲンヴィリアにしても、木は地に深く水と養分を求めて根を地におろしていく。地上では葉の先や花が光を求め
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いかにも真面目そうな娘さんですね。遺伝子というものを感じます!
この随筆をどのように受け取るかは、各人の勝手とはいえ、重要なことを示唆しているのではないか。
時間を、直線的に見るか、円環的に見るかで、ものの見方考え方が、180度変わってしまう。若いときは、どちらかというと、夢を抱き、直線的に見て、過去を振り返ることが少ない傾向があります。まさに、安倍政権は、過去を忘れ、未来に軍事国家を描いている、若いというより、愚かさのゆえに、戦勝国は米国だけで、米国にすり寄ることにより、過去を忘れ去ろうとしています。この一方的手前勝手な論理は、侵略、植民地の多大の被害を受けた国々を愚弄することにつながりかねないが、愚かな政権は己を顧みようとしない。
この発想は大変危険である。日本が軍事力を強化すれば、相手も軍事力を強化するでしょう。同じ経済規模であれば優劣が決することはないが、規模に大きな差があれば、例えば、一年で倍の差があれば、二年で4倍の差になってしまう。4倍が兵力の増大でなく、近代化に振り向けられれば、近代戦争での差が限りなく広がってしまう。相手と対立することが、現在はできても、数年のうちに、歯が立たなくなってしまうでしょう。米国だよりが唯一の安心であるが、米国は日本の使い道がなくなれば、情け容赦なく切り捨てる国であることを、現在の政治家は理解していない。甘えの中に、平和の中に、育った付けが、数年のうちに還ってくることを覚悟すべきでしょう。
南カルフォルニアの生活空間をゆったりと通り抜けてくる思索の時間が,ほのかな風と熱と香りを伴ってここまで伝わって来るような感覚を覚える随筆.左右社ブログ内写真の紅いブーゲンビリアの花と三客の椅子が心地良さと小さな幸せを感じさせてくれている.(2015年9月9日)
スペイン交響曲を自在に弾きこなせたとはすごい腕前。
それをゴミ箱に投げ込むなんて。
そんなには悔いのない人生を生きて来たつもりだが
なにも楽器が演奏できないのがおおきな後悔。
ああ、もったいない。
「自分という人間の過去を肯定することで、根付こうとしてみる」というところが慧眼。過去がなかったものにして、アメリカみたいな表層的な世界で生きてみても、人生の深みなどどこからも出てきはしない。
「おそれるな」ということだろう。この世に恐れなくては行けないことなどない。蜂の巣になっても広場では死なない。すべてを受け入れる覚悟が出来た時がスタートだ。
文学とは「深み」をあつかう学問だ。「質」といってもいい。偽物の月は丸くなれない。
わたしは息子が小さかった頃、彼に囲碁を教えた。
なにしろ碁を打てる日本人は少ないし、覚えておいて
けっして損はない。
あわよくば大竹英雄や林海峰のようになれるかもしれないと。
まあ、多少の親バカはあったのですね。
息子にはそんなにはスパルタではありませんでしたが碁の勉強は
相当に押し付けました。
ある日息子がわたしに言いました。
碁をやめたいと。
そのぶん友達とサッカーがしたいと。
わたしは言いました。
おれに勝ったら好きなようにさせてやる。
それまでは勝手はゆるさんと。
息子は猛烈にがんばるようになりました。
急速につよくなり、ある日わたしと盤に向かい
わたしを負かしました。互先で。
それは容易なことではないはずなのに。
そして息子のつぎのことばがわたしを打ちのめしました。
「もう碁はやめるからね」
「約束したよね」
息子はそれからまったく碁を打ちません。
数十年。
いつか「親父、一局打とう」といってもらえるのかな。
娘さんの随筆、和やかな気持ちになりました。いいですね。随筆は、毎日、五木寛之の”流されれ行く日々”を読んでいますが、最近のは張りがない。今後、張り求めて左右社のタグを覗きます。