2月17日付ワシントンポスト紙「米国では銃は車と同じ位の多くの人を殺している)」.
の標題で「・ここ60年の間で初めて火器と車はほぼ同じ比率で米国人を殺害している。2014年、他殺、自殺、事故を含め火器での死者比率と車(衝突、自動車と歩行者の接触等)は各々、人口10万人に対して10.3名の比率である。・この現象は1950年以降車での死者数が急速に減少したことも起因する。1960年代には自動車での死者は人口10万人に対して25名を超えていたが、半分以下に減少した」と報じた
私はこれを、京都弁護士会主催講演会の時、弁護士の方に述べたら、「日本では自殺者は車事故での死者の3倍ですよ」と言われた。
車事故の死者は平成24年4411人、平成25年4373名である。
他方自殺者は2014年25、427名である。車事故の6倍である。
自殺の原因についても見てみたい。
平
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うーんと思うんです。経済問題から病む。
職場の問題からも病む方がいると思うんですね。
とりあえず、教育問題に話題を変えたい心持です。自分で考える能力を身につける。
これは、再放送もあったかもしれませんが、今現在は大分県の別府にお住まいの、無着先生{老師}の放送がありました。
丸暗記とか、一夜漬けとか、こんな時代に育った自分です。大学も只進学のみを押し付ける・・。当然自分で選んだ大学には行ったんですが、学科はほとんど欠席。実技のみでした。自分ごとはさて置き、教育がこの国の最も大きな問題ではないのでしょうか?不遜ですが、よく思う事です。生徒が質問できる教室。教育。疑問をまず持たないと、質問も出来ないのは当たり前です。先生も、そうでないと困ると思うんです。質問されてから、答える。今現在、問題な事は、この様な先生が、この国にどれ程いるか?なんですね。権威をふりかざいても解決出来ません。余計に、生徒は抵抗するでしょう。所謂、威張ってる先生とかいましたから。品位・この言葉が今現在でも通用します。どんな職業でもです。この品位に欠けた日本の姿は、随分長いと思われます。まずは、先生の再教育から始めた方が速く、親の教育も同様です。人事ではなく・・です。そして、公職に付く方々は、より模範になって頂きたいものです。「品位」であって「権威」ではありません。
>>1
大学をえらぶとき、学部を無視して少しでも聞こえのいい大学名で
選ぶとそうなってしまいます。
わたしは地元国立大学の経済学部に入ったのですが、入学してすぐ
文学部の講義を聞いたことがあります。
イギリスの高名な詩人の音韻がどうのこうの。
もしもわたしが文学部に入っていたなら4年間を遊んで暮らしたで
しょう。
興味のない学部に入ってしまうと4年間がきつい。
東京の私立大学がレジャーランドと化しているのは、それが大きく
影響しているのではないでしょうか。
たくさんの大学、学部を受験して合格したなかで最も有名な大学に
入る、学部は無視して。
だから4年間がつらく、遊んでしまう。
有名大学名病は大きな国家的損失です。
いや、これは孫崎さんのくださったテーマから外れてしまいましたね。
自殺の動機別件数を分類しているが、「経済、生活苦」には健康問題、家庭問題、勤務問題などが複雑に絡んでいるのではないか。複層する要因を鑑みれば、「経済、生活苦」による自殺の実態はもっと多いのではないか。○✖式の選択式アンケートでは、実態を把握できない。
「健康、職場、家庭」などで悩み、将来的に展望が切り開かれない絶望感が高まると、この世にとどまる未練がなくなってしまうのでしょう。今の社会は、徹底した競争社会であり、大学、役所、企業に入って能力があっても、自分に適した職場でない限り、他との競争に勝つことができない。次第に悩み躁鬱が進み病気になれば、会社を辞めなければならないような状況になる。病気が快復したとしても、自分の望むような職場が用意されているわけではない。また、躁鬱が再発し、絶望感だけが強まっていくことはあり得るのです。現実、職場の人間が医務室を訪れるのは、精神上の問題を抱えた人が、9割を占めるという。ものの見方考え方が変われば、何とか踏みとどまれるが、固執すればするほど、深みにはまり、抜け出せなくなってしまう。
品位があると思えない名前でも全うな意見だと思いますね。ただ品位は知覚できるけれど形がない。レジャーランド問題とも密接に関
連していますが、要するに意識の問題だと思いますね。本物であれば消えるのは灰色の男たちの方です。あんただってどっちなのよって世界でしょ。
経済的な問題による自殺が、健康問題・家庭問題・学校問題などと関連していることと思われます。
特にひとり親の世帯の経済状況は極めて深刻(H25で貧困率が50%を超えている!)だと思います。
このような状況を放置するのは、違憲(憲法第25条)ではないか。
厚労省の調査(各種世帯の所得の状況)
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa13/dl/03.pdf
教育格差も経済的な問題から派生しているものも多いと思われます。
http://bit.ly/1J1r0J4 (朝日の連載もの)
「一億総活躍」は安倍首相の思いつきかも知れないが、本当に貧困問題とそれに起因する自殺という悲しい選択を減らすように持っていくための社会つくりが「一億総・・」の基本ではないか。
日本の自殺者の数が世界でもトップクラスであることを日本人の殆どは口コミとかで何となく知っているのではないでしょうか。お隣の韓国では近年自殺者が増えて問題なっていると韓国メデイアが報じて居ました。韓国が米国の圧力で経済市場を米国資本に完全開放した後のことですから、そのあおりを受けたのかと直感しました。今後どうなっていくのか注目したいと思います。
日本人の自殺者が常時30,000人前後で推移し始めたのは随分前のことだと記憶しています。作家の五木寛之は何故新聞が自殺者の数字を知らせないのか不思議がっています。どうも為政者が新聞社に箝口令を出していると専らの噂です。
日本にはこういう負の課題について徹底的に取り組む姿勢が少ないように思いますね。これから戦時体制に入って行こうとしているわけですから益々自殺についての注意は益々おろそかになると思います。
国家の品性、品格、品位はその国の自殺者の数と逆比例すると私は思います。TPPに入って行くのに国家なんか糞くらえと国民が選択すれば日本はカオスになります。まーそれも仕方ない。国ごと自殺を志願するわけですから。
ここ数週で知り合いが相次いで交通事故死した。ひとりは視覚障碍者が一般道を横断中に、ひとりは高齢者が横断歩道を横断中に。
シートベルト着用義務が行なわれるようになって、交通事故死の状態別では「歩行中」が1位になったということだ。しかし、高齢者では、約半数が「歩行中」で亡くなっている。
歩行者の多くが経験していると思うが、横断歩道の手前でスピードを落として歩行者を渡らせる運転者はきわめて少数である。
普段は気づかいが出来る人でも、車に乗ると「人格が変わる」のだろうか?
あるいは、人間というものは、そもそも冷酷で、他者の命などどうとでも思っていないのだろうか?
色々なご意見があろうが、ここで少なくとも見落とせないのは、体力や判断力の点でハンディキャップを抱えている人たちが交通事故の犠牲者となっている割合が多いということである。
そうでなくても、歩行者が車に轢かれて死んでいるということであって、「歩行者優先」などは絵空事となっている。
こういうことを社会心理的な状況としてながめていると、経済的な理由や、人間関係・家族関係などの理由から人が追い込まれていっても、ほとんど誰も手を差し伸べてくれない風景とつながっていることが見えてくる。自殺者が6倍だからどうという以上に、自殺や交通事故死を含めて、その死に方が弱者に偏ってあらわれてくることが見えるはずだ。
そして、視覚障害者や高齢者には、社会的な権利を要求する力も権利も乏しいのが実情である。
年を取ると地方の活性化のためにと田舎に住むことまで薦められる始末である。
今から5年ほど前に、五木寛之が『親鸞』を刊行したころ、闇がおりてきて、弱者を切り捨てる時代が始まったと言っておられたが、作家の眼は、正確だなと思う。
だが、本当の問題はもっと奥の、奥の方に、つまり心の問題としてあるのではないか。
つまり、朝の通勤中の視覚障碍者がはねられ、今まで何の病気もしなかった健康な83歳がはねられても、そのことに何も感じない「こころ」である。
「なまぽ」という言葉で生活保護受給者を貶めることが問題になっていたことがあったが、そういうことが平気で言える感性と根は同じであろう。
・・・『プライベート・ライアン』という映画では、戦争で撃たれた兵士がお腹から臓物をはみ出させて「ママ!」といっていたシーンがあったと思うが、ああいうシーンをなぜ戦争映画が敢えて入れているか。
あれを見れば誰しも戦争ってむごたらしいものだと直観せざるを得ないからだろう。
だが、実際には、ああいうシーンを見ても、あまり何も考えない人もいるのである。
経済的な理由で人が膨大に死んでも何も考えず、何も感じない人がいるのと同じように。
>>8
うまく言えないが仕方ない部分はあると思う。自分もいろんな感情に馴れる方だ。子供の頃のように人の悲しみにシンクロすることはできなくなっている。戦場にいればひどい姿で死んでいく人間を見ることにも馴れるだろうと思う。ただそのことと、そういう社会を変えたいと思う心は別のことだ。死んでいく人間に同情することは無意味だし、そういう社会に対して怒りを持ち続けて生きることも無意味だ。社会を変えたければ、冷静に何が問題なのか考えることが必要だし、それを変えていく為には自分がどう振る舞うべきなのかきちんと考えなくてはいけない。冷徹な目は必要なのだ。けれどそれはかポティの「冷血」とは違う。博愛はできなくても自分が守るべきものは惜しみなく愛を注げるだろうし、受けた恩は忘れないだろう。僕はむしろ、役に立たない同情は必要ないと考える。
>>8
考えさせられる問題提起、共感を覚えます。
知り合いがなくなられたとのこと、しかも、視覚障碍者、高齢者などの社会的弱者であれば、その方々とどのような関係であるかはわかりませんが、あえて、コメントしておられるので、心に受けられた感受性がかなり強かったのでしょう。世の中が忙しくしており、社会の流れに乗れない人は、仕事を持っていようが、仕事がなかろうが、つながりが希薄になっており、消え去っていくスピードが極めて速くなっている。孤独の状態に追いやられるのです。自己を追求した人は、孤独に対する対応を心得ているので、孤独を和らげることができます。自立できず、さらに、社会からはじき出される人の孤独は想像するのが、つらくなる。強者が生き残っていく、社会システムは、大陸ならまだしも、島国の日本で、何故、皆が好むのかよくわからない。明日は我が身に及ぶことが分かっているのであろうか。わかっていると、虚無的ニヒルな生き方になってしまうこともある。ネット族はこの傾向が強く、心が激しく動き、情緒面も理性面も安定しない。時場所によって大きく変わってしまうのです。この意味で、孫崎さんのこのブログの果たしている功績は極めて大きいのではないか。ありがたいことです。
ヤングホープさんの言われる通りですよーー「明日は我が身に及ぶ」ということです。
そんなことが分からないのは、すでに知性の基本的な土台が壊れているということ。
『もののけ姫』で宮崎駿が小さくなって、目が見えなくなったイノシシの一族を描いていますね。あれは、ずぱり今の人間のことでしょう。「大衆」とか「反知性主義」とかいった気取った言葉じゃすくいきれない人間の土台の腐食。
だから「虚無的なニヒルな生き方」は、当然の帰結だ。
ニヒルを否定する論理は、大衆を労働力と見る資本家の論理と一致しがちだ。前向き、生産性、効率etc.
「一切空」を根本とする仏教が、なぜ、人々の心のよりどころとして何百年といきてきたかだ。
前向きなる前に、一度絶望した方がいいんじゃないかな。
そうすると、本当に前向きの、自己本来の意味がわかるかもしれない。
資本家に使用されるための道具として前向きになる状態は、ウソの前向きだからね。