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石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙し...
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石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さ...
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石原莞爾と東條英機:その37(1,931字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
満州は中国(漢)の一部ではあったが、モンゴル人や朝鮮人も数多く入植し、異国の文化もかなり混入していた。そうして満州独自の文化というものを形作っていた。さらにそこへ北方から侵略を窺うロシアの文化も流入され、実に混沌とした状況だった。中国、モンゴル、朝鮮、ロシア、そして日本が、元からいた現地民と入り...
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石原莞爾と東條英機:その32(2,063字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
石原莞爾は1920年、31歳のときに中国に赴任する。その直前には陸軍大学の教官をしていたが、そこはあまり性に合わなかった。石原は、エリート――特に陸大生クラスの人間が苦手だった。突出して頭が良いか、それとも自分の頭の弱さを知っている謙虚な人間でないと、上手く関係を持てなかった。後年、石原は自分の部隊を持...
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石原莞爾と東條英機:その30(1,657字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
石原莞爾は1920年に中国に渡る。そこで作戦課に配属される。いわゆる諜報部だ。ただし、この頃の中国はまだ平和だったので、石原の日々も平穏だった。このとき、石原は板垣征四郎と出会っている。板垣が石原の直属の上司だったのだ。板垣征四郎は陸軍士官学校の16期で、同期にはあの永田鉄山がいた。陸軍大学には少し遅...
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石原莞爾と東條英機:その24(1,750字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
一夕会はほとんど偶然にできた組織だったが、時の流れが味方して、信じられないくらいに勢力、そして権力を拡大していった。これはひとえに一夕会をリードした永田鉄山のリーダーシップ(時代の読みの確かさと求心力)もあるが、たまたまその周りに優秀なエリート将校が集まり、互いに切磋琢磨していったことの結果でも...
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石原莞爾と東條英機:その23(1,604字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 6ヶ月前
二葉会と木曜会の両勉強会が合流する形で、1929年に一夕会が結成される。ただし両会は、合流後も解散はされず各々継続していた。一夕会の中心になったのはやっぱり永田鉄山で、彼はこの頃から陸軍人事の「使い方」をほぼ完璧に掌握するようになり、陸軍内での「静かなるクーデター――乗っ取り」を密かに決行し始める。そ...
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石原莞爾と東條英機:その22(1,842字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
永田鉄山の作った勉強会(軍閥)である「二葉会」は、主に「陸軍人事」についての研究をしていた。陸軍人事の仕組みを解明して、どうすれば山県有朋の権力を希釈化できるか、またどうすれば自分たちの権勢を強めていけるのか、綿密に戦略が練られたのだ。一方、鈴木貞一が作った勉強会「木曜会」は、石原莞爾が参加して...
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石原莞爾と東條英機:その21(1,801字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
「1920年代」はどういう時代だったのか?今が2023年なのでちょうど100年前である。1920年は、大正9年である。そして大正は15年――つまり1926年までだ。そこから昭和が始まる。そのため1920年代は、前半が大正、後半が昭和という形になる。だから、「大正から昭和に移り変わった時代」だといえよう。石原莞爾は1889年の生...
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石原莞爾と東條英機:その20(1,852字)
コメ4 ハックルベリーに会いに行く 7ヶ月前
第一次世界大戦に、日本は同盟を結んでいたイギリスを助ける形で、いうならば「つき合い」で参加した。そうして、惰性で連合国側につくこととなったのだが、結果的に戦勝国となった。ただし、おかげでそれまで親しかったドイツと敵対することとなった。陸軍の若手幹部候補生だった永田鉄山は、開戦のまさにそのときまで...
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石原莞爾と東條英機:その18(1,669字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
永田鉄山は1910年(明治43年)に陸大を卒業する。26歳のときである。そこからヨーロッパに留学し、ドイツ、デンマーク、スウェーデンなどに10年間駐在する。そこで永田は、第一次世界大戦を目撃する。第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて行われた。だから、滞在期間の中にまるまるすっぽり納まるのだ。永田は第...
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石原莞爾と東條英機:その16(2,233字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 8ヶ月前
石原莞爾には同志であり尊敬できる先輩がいた。板垣征四郎である。板垣は1885年、石原は1889年生まれだから、4歳年上である。板垣は岩手出身、石原は山形出身だから同じ東北同士で、ともに仙台陸軍地方幼年学校出身であった。東條英機にも、やはり同志であり尊敬できる先輩がいた。永田鉄山である。永田は1884年、東條も...
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石原莞爾と東條英機:その13(1,629字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
陸軍士官学校の16期生、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次は「三羽がらす」と呼ばれた。ちなみに、卒業時の成績は永田が首位、小畑は5位、岡村は6位だった。この3人には共通項があった。また、仲良くなったきっかけもあった。それは、ある「デキの悪い後輩」の勉強を見ていたことだ。1期下、17期のある生徒が、陸大を受け...
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石原莞爾と東條英機:その12(1,615字)
コメ0 ハックルベリーに会いに行く 9ヶ月前
板垣征四郎は地元の盛岡中学を卒業後、仙台陸軍地方幼年学校に進む。盛岡中学では特待生で、勉強はできた。が、トップになるというのでもなく、普通の優等生だった。仙台陸軍地方幼年学校を無難に終えると、陸軍士官学校に16期生として入る。16期には戦前陸軍の超重要人物となる永田鉄山がおり、彼は岡村寧次、小畑敏四...
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「戦前のテロに対する考察」小林よしのりライジング Vol.448
コメ160 小林よしのりライジング 20ヶ月前
9月27日(火曜)は安倍晋三元首相の「国葬儀」だ。 弔いたい人は弔えばいいが、わしにとっては特にありがたい政策をやってもらった首相でもなく、最も重要な皇統の問題を放置されたことが腹立たしく、統一協会を権力の中枢に招き入れたことも、馬鹿馬鹿しい限りで許せることではない。 アベノミクスでトリクルダウン...
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満州事変の黒幕
コメ19 ブロマガの主役は我々だ! 72ヶ月前
第二回は石原莞爾前回登場した、永田鉄山の次に主導権を握ったのがみんなご存知、石原莞爾である。満州事変の首謀者の一人であり、優秀な変人であった。おもろい逸話がいっぱいあるのでWikipediaか大百科でも見てください(投げ)。彼の思想は超独特であるが、同時に妙に的を得ていた。以下会員限定
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どうもグル憲法です
コメ11 ブロマガの主役は我々だ! 72ヶ月前
さて、今回は第二次世界大戦における国家戦略についてです。第二次世界大戦における日本は「戦略も無いまま戦争に突入してボコボコにされた」と言われますが、実は戦略構想は自体はありました。しかし、その戦略構想を持つ者が完全な権力掌握できず、グダグダになった・・・というワケです。今回から4回にわたり、当時...