第105号 2014.10.21発行
「小林よしのりライジング」
【今週のお知らせ】
第103回「保守とは何かを考える」
わしは2001年9・11の同時多発テロを機にいわゆる保守論壇とは手を切り、親米・従米の保守言論人を「ポチ保守」と批判したが、その後も、資本の暴走を規制しないグローバリズムの信奉者や、科学力が自然に勝てると盲信する近代合理主義の原発推進派や、挙句の果てには排外主義や人種差別を公然と唱える極右運動集団までが「保守」を自称するようになってしまった。
ともかく、こんな「自称保守」ばかりが蔓延している世の中だから、わしはあえて「わしこそが保守」という立場を演じるしかないのである。
つまり、保守とは歴史上のある時点の体制を守るということなのだ。それでは日本ではいつの時点の体制を守るのが「保守」なのだろうか?
ところで、番組では安倍晋三の言う「戦後レジームからの脱却」とは戦後体制の「革新」という意味であるから、これは保守ではないのではないかという疑問が出ていた。
番組ではもう一人、新右翼・一水会最高顧問の鈴木邦男氏にインタビューして、「右翼」と「保守」の関係について聞いていた。
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(続き)
では日本はどうでしょうか。歴史時代以前の縄文期の日本列島では、女性の地位はかなり高かった可能性があります。縄文期の祭祀に使われたとされる土偶は、女性を象ったものばかりが見つかっており、中には妊娠中の女性を象ったものもあり、これは当時の日本人が女性の生命を産み為す力を神聖なものとして捉えていたからだと思われます。
なお、これは女性に元々備わっている能力に対して男性が敬意を払っていることを表すものだと思われ、男性が女性に「こうあってほしい、こうあるべきだ」と迫るジェンダー的なものでないことは言うまでもありません。
縄文中期以降の人々の生活では、男性たちが狩猟や漁労に出かけ、女性たちが採集や原始的な農耕を行っていたはずです。なお一応ココにも注釈を入れておくと、これは男性の方が情報分析に適した脳機能を持ち、筋肉量も多く力仕事向きであるためだという能力的な役割分担でしかありません。
狩りや漁に出た時、天候や外敵など自分たちの身に迫る危険がどの程度のモノかを判断する場合や、自分が受けた傷が致命傷かどうかを判断する場合に、男性の情報分析に長けた脳は非常に役立ちます。個々に集められた情報はやがて経験則として蓄積され、知恵として伝承されていったものと思われます。
一方女性は感情を統合するのに適した脳機能を持ち、これは五感から受けた感情や印象に基づいて好悪を判断するものであるため、例えば男性たちが情報過多の中で互いの主張を譲らず、決断できない状況に陥った時、「アタシはこっちの方が好きだね」の一言で方針を決定できる場合が多いと思われます。その一言の当たる精度が非常に高い第六感に秀でた人物は、やがてカミに仕える巫女となっていったと思われます。
男女それぞれが獲得した収穫物はまずカミ様に供えられ、次の豊作や豊猟・豊漁を祈る祭祀が巫女となる女性たち主導で行われ、そして下げられた酒食は神人供食したのでしょう。
さて、縄文期の結婚形態は妻問婚であったと思われます。ムラでは男性が女性に妻問し(後の世の慣習を鑑みれば、これには女性に主導権・拒否権があったと思われます)、生まれた子は父親が特定できないという事情から、子供たちはムラの女性たちの手で育てられ、家系は必然的に女系となり、家の実権も女性が握ることになったと思われます。
前近代までは農村でも夜這いが普通に行われていたことが知られており、これは縄文以来の妻問い婚の名残だったと思われます。
そして、民法が整備された近代化以降の家庭は一夫一婦制が普通となりましたが、家の財布は妻が握っていることが多く、このことは実権が女性にあることを表しており、このあたりにも縄文の名残が見られます。
これらのことは、縄文期の日本列島に最も多く渡来帰化し、縄文人を構成する中心人種となったのがポリネシア人であるからだと考えられます。漁などをして暮らしていたであろう列島渡来前後のポリネシア人は、夫がいつ海で遭難するかも判らないため、妻をはじめとする女性が家の中心となっていたと考えられます。その結果でしょうが、現在のポリネシア人もバリバリの女系です。その文化を引き継いだ縄文以降の日本人も、庶民層においては室町期まで婿入り婚が普通だったとされるほど女系が浸透していたわけです。
(続く)
(続き)
天皇の系譜を神代の初めから物語る『古事記』では、女性のカミ・天照大御神が最高神であり、天皇へとつながる皇祖神です。神話から歴史へ一続きとなった物語が神代から人代に移っても、カミと交信できる最高位の神官は天皇の親族の女性であり、むしろ天皇より権威も権力も強かった時代が続いていたわけです。天皇とその巫女によるヒメ・ヒコの制度です。
崇神天皇の大叔母に当たり、巫女でもあったヤマトトトヒモモソヒメは大物主神と神婚し、その神託を受けて時の政治に大いなる影響を与えたとされ、この人物こそ『魏志倭人伝』において、鬼道を用いて人々を操ったとされる卑弥呼ではないかと言われています。
また、仲哀天皇の皇后にして巫女だった神功皇后は、反乱を起こした南九州のクマソを征伐するより、朝鮮半島に遠征すれば三韓を服属させられるとの神託を受け、これを天皇に伝えました。しかし天皇がこの通りにしなかったため急死したとされます。その後皇后は、後の応神天皇を妊娠中だったにも関わらず、遠征して三韓を服属させ、帰日してから皇子を産んだとされます。
かくのごとく日本は、女性が力を持つ国柄であったのに、儒教と道教が支配的な大陸の強大な軍事国家と隣接していたため国柄を偽らざるを得なかったのです。
例えば日本神話においては、イザナキとイザナミが天ノ御柱を巡って出会ったとき、最初に女性神イザナミから声をかけ、イザナキがそれに応える形をとったわけですが、その結果生まれた子がヒルコという骨の無い子だったため葦船に乗せて流したとされます。
この件は大陸の思想である道教の陰陽論に影響を受けていると思われます。本来(陽である)男の側から声をかけなければならなかったのに、(陰である)女の側から声をかけたのがいけないというのが、二神が天津神に相談したとき受けたアドバイスでした。縄文期以来の日本文化的には、女性側から誘うことは全く問題なかったはずであり、男性を迎え入れるかどうかの主導権・決定権も、むしろ女性側にあったはずなのですが、大陸の強国から文明国として扱ってもらいたいという配慮が働き、記紀神話においては内容が変質したものと思われます。
それでも、遣唐使を廃止した平安中期以降や江戸期全般など、外国との関わりを可能な限り制限した時代には、すぐに地が出てきて、元の女性が輝く時代となりました。
平安京の宮廷では女官たちが女流作家や女流歌人となって数多く活躍しましたし、平安貴族たちは歌を詠んで妻問したわけですが、女性に拒否されれば諦めてスゴスゴ引き下がったはずです。小野小町に「百夜連続で通ってくれたら、貴方を受け入れる」と言われた深草少将が毎夜通い詰めた挙句、百夜目に死んでしまったという可哀そうな話も残っています。
さて、時代は下って武士が政治の実権を握る時代が続き、鎌倉期には大陸の軍事国家・元の侵略や内部の政変などもあり、さらに室町末期から100年間内乱の時代が続き、それが大坂の陣によって完全に終わりを告げた頃、やっと海外からの侵略も内部の政変や戦乱もほとんどない平安以来の平和な時代、江戸期に入りました。
しかし、武断的で男性的な時代が終わっても、なお男尊女卑的傾向を保っていたのは、やはり武士階級でした。徳川幕府は政策として大陸の朱子学(儒学の一派)を官学と定めましたが、これは秩序を重んじ、上に逆らわない忠の思想を定着させることで謀反を防ぎ、乱世の侍を治世の官僚に変えるための政策でした。その朱子学の影響を強く受けた武家社会では、子は親に逆ってはならないという孝や、関連する他の徳目から派生した夫に逆らわない嫁という夫婦関係も定着しました。朱子学は儒教だけでなく道教などの都合の良い部分を寄せ集めた総合学問であるため、その陰陽観も強く影響しているわけです。三つ指ついて夫を迎える妻、夫より三歩下がって歩く妻なども、おそらくこの頃からの慣習でしょう。つまり、平和な時代に合った武士像の模索が、皮肉にも副産物として男尊女卑的傾向を持ち込むことになったと言えます。
しかし、平和な江戸期の庶民層においては概ね女性の地位は高く、流入する農家の二男三男たちによって男女比が偏っていたこともあり、100万都市・江戸においては妻の側から三下り半を突き付けて離婚が成立するほど女尊男卑とも言えるような状態でした。
(続く)
(続き)
これが一変したのは、黒船来航により近代化せねばならなくなった明治の開化期です。士農工商の身分制を廃する四民平等とともに、徴兵制による国民皆兵を目指したため、それまで農工商とされた民も意識の上で武士になることが要請されました。また、上官に逆らわない従順な将兵を育てる軍事教育も必要となり、こうした朱子学的な意識改革が進み、それに伴って男尊女卑的な空気も全階層・全国民に蔓延することになりました。
ここでキリスト教の影響も少し見てみましょう。アダムの肋骨からイヴが生まれたとする男尊女卑宗教としてのキリスト教は室町期から徐々に侵入し、鎖国時代には抑え込まれていたわけですが、明治期に再侵入を許したことで一気に拡散・定着し、このことも男尊女卑的な空気の醸成に寄与したと思われます。
つまり、男尊女卑的な朱子学由来の武家文化が全国民にまで拡散・浸透したところへ、さらに男尊女卑宗教であるキリスト教が接ぎ木されてしまったわけです。内村鑑三や新渡戸稲造など士族キリスト者の影響も大きいでしょう。
こうして明治期以降の日本では「女は三歩下がって歩く」という、本来の日本文化とはかけ離れた特殊な武家の風習が元々の国柄であったかのごとく錯覚させられ、それを解放したのは文明的な欧米諸国の女性解放運動と、それに目覚めた明治期の女性たちだったという偽史が刷り込まれることになりました。
しかし当の欧米では、ようやく近代に入ってキリスト教の男尊女卑的思想へのカウンターとして女権が叫ばれるようになったわけなのですが…。それでも元々のキリスト教の権威が揺らぐことはなかったのですが…。
NHK大河ドラマ「八重の桜」は女子教育を勧めているようでいて、実は武家からの~キリスト教という接ぎ木の偽史を定着させる意味しか持たなかったと思われます。最近やけにキリスト教を礼賛するNHKは一体どういう意図なのでしょうか。
このような経緯で出来上がった明治以降の空気はもはや容易に動かし難く、皇嗣を男系男子に限るという皇室典範まで作り上げるほど男尊女卑に傾斜してしまいました。この傷は相当深く、現在に至るまで深刻な禍根を残しています。
(続く)
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上述したように、実は男女観においても世界で最も進んでいたのがかつての日本文化だったと思われますが、長い日本の歴史の中で度重なる海外からの影響に晒された結果、思想の糸はもつれにもつれてしまいました。しかし、これを解きほぐすこと無しには、日本古来の「女性が太陽だった国柄」を取り戻すことはできず、放置すれば偽史の再生産と定着の強化が進むことになると思われます。
現在、男性がその競争的な頭脳を分析的に働かせて構築してきた社会は、その歪による限界を、全世界的な広がりを持って露呈しつつあります。グローバル経済により、一部の富裕層が世界中の富を独占し、グローバル企業が世界中の国家を追い詰め、その結果各地で戦争が繰り返され、またそれを富裕層やグローバル企業が金儲けの材料としています。最強の国家とされる米国も例外ではなく、1%のグローバルな富裕層が99%の貧困層(世界中からの移民を含む)を貪っている状態です。またグローバル企業の活動の結果として世界中の環境が破壊され、森林減少による異常気象は陸水減少と食料減産をもたらし、世界の不安定化をより深刻なものにしています。
もはや男性のみによって作り出された社会は、完全に機能不全に陥ったと言えます。つまり、強くあらねばならないと構える男性たちが、その競争的な脳を働かせて動いた結果、勝者と敗者、富者と貧者がキレイに二分され、勝者は敗者に落ちることを恐れ、勝ち続けねばならなくなり、安心を得るためには全てを独占する欲望を抑えられず、覇権国家の政府を操って世界のルールを自分たちに有利なように捻じ曲げ(二国間のFTA・EPAや、多国間のNAFTA・TPPなどの政治・経済・社会・文化の全てを一定のルールに統一するという破壊行為)、それに反対する勢力に対してはテロ集団と名付けて暴力の使用(経済封鎖などで追い込んだ挙句反撃すれば多国籍軍を編成して武力行使するという正味の破壊)もためらいません。
貧者の反乱を恐れた富者は、安心を得るため武装集団に守られた塀の中に閉じこもり、貧者は塀の外で飢餓や病に呻吟し、塀の内側に対して絶望的なテロを計画するという状態も世界中に散見されます。グローバルに開かれたはずの国際社会が、逆に世界を隔絶する壁を各地に乱立させるという悲惨な状況を作り出しました。このまま進めばそう遠くない未来に人類社会および地球は崩壊するでしょう。
では、どうすれば良いのでしょうか。
(続く)
(続き)
解決法としては、男性が女性的になるしかないと考えます。情報分析に長けた脳を競争のために使う男性が作ったシステムが崩壊の危機にあるなら、感情統合に長けた脳を融和のために使う女性が、世界の道行を決定するようなシステムに造り替えるしかないでしょう。
ここで、よく犯される間違いとして、すでに脳が男性化した女性が、男性の作ったシステムの中で競争力をつけてのし上がっていこうという行き方です。故・サッチャー元首相やメルケル首相などがその典型でしょう。一般にフェミニストと呼ばれる人々にはこのようなタイプの方が非常に多いのではないかと思われます。
そうではなく、新たな女性的な感性でもって物事を決めていくシステムの模索こそが全世界的な危機を救える唯一の道であると思えるわけです。
そのような女性的なシステム構築のヒントは、日本人が歴史的に培ってきたものの中にこそあると、私は考えます。
それは、宗教的権威と政治的権力の分離というシステム上の役割分担であり、民のために祈る祭祀王・天皇と、実際に政治を司った豪族・貴族・武士・近代の政治家のような関係です。宗教的権威は、民のために祈り、民の願いを敏感に感じ取り、民の願いを汲んだ意向を為政者に対し仄かに指し示すような存在でありますが、その存在は、実際には性別が男性であったとしても非常に女性的だと言えます。また、内外の様々な動きを論理的に分析し、国民を説得しつつ国外と渡り合い、諸問題に対処していく政治的権力は、実際の性別が女性であったとしても非常に男性的だと言えます。当然、権威は権力より上位でなければならず、尊敬は常に権威に集まり、批判は常に権力に対して向けられるというシステムであるべきです。つまりこれはヒメ・ヒコ制度です。
世界で最大の宗教的権威はバチカンのローマ法王ですが、男尊女卑宗教であるキリスト教の最高権威であるため、その資格は無いと思われます。
すなわち、極東の島国の天皇の祈りが全世界に満ちたときこそ、世界に真の平和が訪れるような気がしてならず、男性的な脳に支配された世界中のシステムが崩壊寸前であるなら、最も女性的な宗教的権威の真摯な祈りにこそ光が当たるようにしなければならない、そのように考えるわけであります。
そのためには、皇嗣を男系男子に限るという、本来の日本の国柄とはかけ離れた、男尊女卑的な空気が蔓延した時代に決められたせせこましい議論に囚われていてはなりません。それどころか、古代の女帝が活躍していた時代に倣い、女性も天皇の位につけるようにせねばなりません。宗教的権威は女性的であることで大きな意味を持つというのに、その位に本来の女性がつけないなどということがあってはならないわけです。
これまで男性が維持してきたシステムの崩壊によって人類社会が共倒れするのを防ぐには、女性的システムを構築する「女性の時代」が到来しなければならないわけですが、それを象徴する出来事となるのは、やはり女性天皇の即位だと考えられます。つまり、現在の皇太子殿下の次に愛子様が立太子され、ゆくゆくは天皇になられることが約束される、その事実の確定こそが契機となるでしょう。
そして、そのときこそ初めて、全世界において、日本の平安中期以降や江戸期なみに女性の地位が高められ、女性が真の意味で輝くことができ、それによって世界が調和され、真の平和が訪れるという希望の目も出てくると思われます。
最後にもう一度エマ・ワトソンの演説に触れます。
日本においては、保守思想の大家として知られる英国の政治家エドマンド・バークは「悪が栄えるには善き男と女が何もしないことだけで十分だ」と語りました。これを、左翼の類義語のように扱われることの多いフェミニストのエマ・ワトソンが、国連本部での演説の中で引用(ここでは当該部分は割愛)したことについて訝る向きもあるようですが、これはおかしな話です。なぜなら善き主張には、端から右も左もないからです。
また、上述してきたごとく、一万年以上の縄文期を含む日本の国土の歴史を鑑みれば、日本は古来より女性が太陽であるという国柄です。伝統保守の立場を取るのなら、本来それをこそ重視せねばならず、ある時期までは世界で最も女性の地位が高く、女性の権利が認められ、身体的な能力や役割分担を除いた部分での男女平等が達成されてきた地域として、その日本の伝統に回帰することを最も強く主張しなければ、単なるご都合主義のホシュではないでしょうか。
ここで、もう一人の英国の保守思想の大家、ギルバート・K・チェスタトンの言葉を借りましょう。
「伝統とは、あらゆる階級のうち、もっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない」
人類が男性的システムを構築する以前の、女性たちにもより大きな価値が認められていた時代の、無数の死者たちにも投票してもらえば、結果は自ずと明らかだと思われます。
長文、失礼致しました na85
読みました
ゴイゴイスーだな、と思いました
短文、失礼致しました あげんぼ
久々の長文、楽しみながら読ませていただきました。かような奥の深い思考を張り巡らせる長文を読んで、ライジング読者としての醍醐味を久々に感じることが出来たと思います。これら文章を読んでは日々、思考の大切さを忘れずに日常に励もうと考えます。引用されたギルバート・K・チェスタトンといい、平和な時代に見られたポリネシア文化から成る日本の男女の役割と言い、真の平和と繁栄を目指すには先祖の御霊の存在が欠かせないことがこの上なく、心に伝わってきたと思います。見事な長文有難うございました。
もし、参考文献等があれば、できれば文章に併記していただければ有難いと思います。
日本の歴史的な男女観から、世界で普遍的なものとなる可能性を秘め、またそうなるべきである男女の平等や、世界を救う可能性のある日本の皇室の今そこにある危機を救う唯一の方法、皇統の女系継承を擁護した文章に、グローバリズム批判までも挿入しました。
その結びとして、ホシュが大好きなバークやチェスタトンを引用しつつホシュを斬った部分なんか、ライジングメンなら面白がってくれるんじゃないかと思います。
参考文献はあまり思いつかない na85
na85さんの文、非常に興味深く読ませていただきました。
引用文の最初の5行で、所謂『日本サヨク型フェミニズム』とは一線を画し
たものであると感づきました。戦後、日本の『左』の人が、戦前の反省と称
して『右』を攻撃してきたが、冷戦崩壊後はそのカウンターとして、『右』
側の人が、『左』を攻撃するという、抜け出せないスパイラルに嵌まるのは、
欧米のように、真にディベートに長けた人物が日本から出てこないことに起
因するようにわたしは思います。
na85さんが仰る「情報過多の中で互いの主張を譲らず、決断できない状況
に陥った時」、「『アタシはこっちの方が好きだね』の一言で方針を決定で
きる」日本独自の女性社会中心のシステムが皮肉にも「自分の思考能力を遥
かに超える事態に直面した時、他者に裁定の全てを委ねて、自らは思考も放
棄して只他者の言うことに従う」ところだけを受け継いで、他者の特定の思
想を盲従するシステムに変質したのは、歪であると言わねばなりません。
歪であるがゆえに、本来女性中心の社会であったはずの文化が、男性中心の
社会に変わっても、何ら異を唱えず、むしろそれを「伝統」として保守しよ
うというのは、滑稽ではあるが、日本社会が外国から侵略されず王朝の交替
で文化の否定が起きなかったことの証左であるという観点からみると、まだ
救いがあり、一筋の光明を見いだせる気がします。
保守ならばこういう時こそ「和魂洋才」を使わなければ、いつ使うのでしょう。
すなわち、本来日本が持つ女性中心の社会─それは女性宮家、女性天皇の出
現に他ならない─が、世界にどのように影響をもたらすかを、欧米流ディベ
ート能力を駆使して、全世界に発信していかない限り、世界に真の平和は訪れないでしょう。
na85さんの文を読んで、わたしはここまで思考することができました。
ニセただしさん、叢叡世さん、カレー千衛兵さん、コメントありがとうございます。