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<ビュロ菊だより>No.63 町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)
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<ビュロ菊だより>No.63 町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)

2015-04-19 12:50

     「アメリカンスナイパー」の時に「町山さんに逆らったな(大意)」と言われ、「えー!ぜんぜんそんな事ねえけど、それより、そんな、逆らうと消されるみたいな人なんだっけ町山さんって!こわっ!」と思ったという話しをちょいと前に書きましたが 

     

    菊地「マンガを愛好する皆様に陳謝致します

    (コチラ、長文に継ぐ長文で申し訳ないんですが、この際ですし、サブテキストとしてお読みくださるとーーー特に町山さんに於かれましてはーーー有り難いです。「セッション!」評の後日談です)

     

      んでまあ、上記の通り、ワタシの不注意による筆の滑りを現在マンガを愛好している人々に陳謝させた頂き、話はそれだけ、実際はそんなおっかない事なんてある訳がないよな〜みんな大袈裟な〜ははははは〜。等と思いきや、やはり町山さんは大変に偉い上に怖い方なようで、非常に丁寧な口調によって、がっつりタイマンの反論を頂戴しまいました。しかも、非常に慇懃な口調でありながら、なかなか強烈な物です。

     

     うかつにも(これはおとぼけではなく、ガチです)、論争の火種のような物を百鬼夜行にして冥府魔道のネットという獣道に放る事になってしまったようでして、炎上などという派手なパーティーをする歳でもなし、とはいえ、こういうやりとりには不可避ですが、「町山さんそこはいくら何でも誤解ですよ~」というポイントが多々あります(主に前半です)。

     という訳で、アマチュア(ここでのワタシの「プロ」認定は、ジャンルは何であれ、「著作がある」という事ですが、町山さんはその中でも特に「映画批評」のプロ中のプロの方です)ではない、大変な実績も影響力も持った方から直々に頂戴したレスポンスを放置するのは無礼に当たりますし、今からレスポンスを返させて頂きますが、恐らく、相当な数のウィットネスの方がいらっしゃると思われ(いやもう、うんざりするほどメールや報告を頂きましたし・笑・「がんばれよ」って言われちゃいました・笑)、そうした方に先ずご確認頂きたいのは

     

    1)先の通り、ワタシは「セッション!」という作品自体に、鑑賞者として憤激をぶつけましたが、誰彼の批評を批判すると言った、個人に対する攻撃は一切していません。

     

    2)ですからこれは、ワタシが「セッション!」賞賛者全員(これはプロアマ含め、世界中に大変な数ですよね)にセールした恰好になった喧嘩を、町山さんが代表して買って下さった。と解釈する事にします。

     

    3)勿論その事に文句は全くありません。前出「マンガを愛好する方に」にある通り、「オレは作品をノーと言っただけで、それを支持する人全員にノーと言った訳ではない。罪を憎んで人を憎まず」というのは、主観的にはそうであったとしても、まあ牧歌的でしょう。

     

    4)であるとすれば、ワタシは大変なアウェイ(「セッション!」は興収、批評共に、我が国ではうなぎ上りに良くなっているようですし)な状況の中、ボスキャラもしくは保安官の様な方にホールドアップされているという事になっているのである。

     

     という4点を基本設定として押さえてから読み始めて頂きたいです。というのは、ネットというものは、ネットだけ見つめていれば、ややもすればフィフティ・フィフティに見えるかもしれず、しかし現実はぜんぜんそうではありません。三次元には過去も現在も、いろんな事があるのですね。厚みがある訳です。

     そして、別にこれは策謀的なエクスキューズでも何ともなく、ワタシは町山さんに対しては個人的な面識はーーーほとんどーーーないものの、ある時期までは長らく「映画秘宝」の熱烈な読者にして支持者でしたし、その後渡米されて「ともすれば見失いがちなアメリカ文化の見方を、日本人に向けて解りやすく正しく紹介する」という大変水準の高いお仕事をされていて(うち何冊かは拝読させて頂いております。僭越ながら、どれも素晴らしかったです)、アカデミー賞授賞の日本中継などでのコメンテーター等々、お仕事ぶりはリスペクトさせて頂いております。

     ですので、先ずは非常に光栄ですし、喧嘩だホールドアップだと剣呑な事を書きましたが、いうまでもなくこれらはアナロジーであって、ワタシが今から行う事は、まず前半は、何よりも誤解を解きたいという事、次いで後半では、作品を巡る評価の違いについて。であり、尊敬するお相手と、実りある往復に成ればと思いながら始めます。
     

     ただ一点だけ、「ここから参加」の見物人の方に申し上げますが、ワタシはジャズミュ-ジシャン/ラッパーという職業柄、「セッション!」罵倒に、ダーティーダズンのマナーに忠実に、汚い言葉を敢えて使い(まあ、エンタメです。というか、パロディですね。普段のワタシの言葉遣い平均をご存知の方ならお解りだと思いますが)、町山さんは以下のブログで非常に慇懃で穏やかな言葉使いをされていますが、後述する通り、そのやり口は何の何の、なかなかワイルドで、正直「悪いなーコイツ」と惚れ惚れしました(笑)。好感度アップという奴です(笑)。


     ネットにアップされた文章の読解が読解力の修行になるという時代を生きるお若い方には、「口調に騙されないで下さい」と申し上げたいです(今回はワタシも慇懃にしますが・笑)。


     もうお解りだと思いますが、大変な長文である旨、最初から厳重に予告させて頂きますので、長いのがお嫌いな方は絶対に死んでも読まないで下さい。読んだ上で「なげえよ〜」みたいなガキ文句たれた奴の寿命は、文章の神の神罰によって5年縮まりますので御覚悟を(笑)。

     

     では始めさせて頂きます。

     

     町山さんの反論はコチラですが  いちいち行ったり来たりするのは読む方もご面倒だと思うので、全文をコピペさせて頂いた上で行います。

     

    (*また、更なる読みやすさの向上の為に、町山さんの文章は青色の着色します)

     

     「コピペを使ったアンサー」は、皆さんよくご存知の通り、基本的にカットアップ&エディットが行われ、構造的なアンフェアを生み易いので、それを回避するために「こちらの反論に都合の良い部分だけを引用」ではなく、「一文字残らす引用」というスタイルにします。

     

    日本では今日(417日)から公開される映画『セッション』を、ジャズ専門家である菊地成孔先生がジャズ音楽家の立場から酷評しています。

     

     これは間違いないです。しています。

     

    それを公開前に読んだ人々から「素晴らしい批評」などと評判を呼んでいます。

    「自分はジャズがわからないが、ジャズ専門家が観れば駄作なんだろうな」とか 

    「映画はまだ観てないが、ジャズを知らない100人の評価よりも菊地さん一人を信じる」

    「これを読んで『セッション』を観る気が失せた」という人まで本当にいるんです。

     

     えー先ず、このやり口はどうですかね(笑)

     

     自分では確認していませんが、こういう人々  が読者の中から出ても、全く不思議ではないです。

     

     しかし、これまた推測ですが、恐らく、こういった人々  も必ずいらっしゃると思われます。

     

    「キクチがあんだけボロカスに言ってるんだから逆に見たく成った」

    「キクチがボロカスに言ってる映画があるらしい、知らなかったが、それだったら見てみる。キクチのボロカスはそれから読む。ネタバレらしいので。早く読みたいな」

    「見たら感動した。凄い作品だ。キクチは全然映画が見れてない。あいつが言っているのは無茶苦茶な言いがかりだ。みなさん、実際に観て、確認してみて下さい」

    「キクチのは炎上芸のネガティヴ・マーケットで、乗せられて反論するなんてご苦労さん」

    或は「あんなもんに乗せられて、観るのを止めるなんてバカだ」

     

    (*上記すべての文章の内容は空想です)

     

     どうでしょうか?そんな人、一人もいない?一億誰もがキクチの言うなり?(笑)

     

    「これを読んで『セッション』を観る気が失せた」という人まで本当にいるんです。

     

      ちょっと怖いですね(笑)

     

     賛否両論、侃々諤々、左右両極の意見が百出する事が自明である様な事象に関して、ある一方だけの声をピックアップするという、結構露骨なミスリードをした後に、町山さんはこう続けます(一応念のため再び。町山さんのテキストは一字一句漏らさず再録しています) 

     

    ジャズ・ドラマーを目指した若者が監督した映画『セッション』を潰そうとする菊地先生は『セッション』の、ジャズ・ドラマーを目指す若者を潰そうとするJKシモンズ扮する先生にダブります。

     

    主人公を「リズム音痴のガキ」と罵倒し続けるのも、まさに劇中のJKシモンズそのものです。

     

     まず第一に、ワタシは自分の意志として「セッション!」を、興行的にも批評的にも「潰そう」などとはマイクロ1ミリも思っていません(こういう場合、どういう単位を使って良いか分りませんが・笑)。

     

     っていうか「潰す」って何ですかね?(笑)

     

     ワタシは52年という、町山さんとほぼ同じ長さの人生のうち。一回も脳内で口にした事が無い言葉ですし、果たして文章にも一度も書いた事が無い言葉ですが(笑)。まあ、それはさておき。

     

     ワタシの文章をお読み頂ければ、ワタシが何度も「オレが金払うから、ジャズドラマーは全見て怒ってくれ。そして、それから<バードマン>も観てくれ」と、しつこいぐらいに繰り返しているのが、どなたであれ目視出来ると思いますし、伝わりずらかったかもしれませんが、あれは諧謔や逆説ではありません。

     

     ワタシは、自分が酷いと思った映画(でもライブでも何でも)は、多くの人々に見てもらいたいと思うのがごくごく自然な感情だと思います。「見てくれよ。アレ、許せねえよ。見てみて、ほんと酷いから」というのは不自然でしょうか?

     

     そもそも、町山さんは、ワタシの評が酷いと思うので、わざわざはてなブログに書いた(読んだ方々が、ワタシの酷評を読む。という効果の為に)のではないでしょうか?

     

     そして第二に、炎上マーケットとまでは言いませんが、これだけ人々の中のネチズンの部分が、暴力や悪意や攻撃性を恐れながらにして同時に飢え、「とにかくネットなんて炎上観る為のモンでしょ」ぐらいのご時世(後述しますが、こうしたセッティング自体が、「セッション!」を「ヤバい作品」として世界中で高い評価を受けている主因ぐらいにワタシは考えています)に、あれだけの悪評を、ネットで情熱的に書けば、評価が二分され、うち半分、或は半分以上は「見たく成る」方向に成るのは当たり前の事ではないでしょうか?

     よしんばワタシが、もっとストレイトに「酷い映画だから絶対観るな、観る価値無し」と書いたとしても、です。

     

     つまりワタシは、自分が「あれは酷い」という時に、宣伝効果が生じてしまう事を不可避と考えており、「ガチで誰にも観られたくない場合」は公開で罵倒などしません。ネットから随分と離れているワタシでさえ、「わざわざ書いたら、宣伝になっちゃうよ」という、ネットの(一種の)暴力性は常識として知っています。

     

     今回はむしろ、若干ではありますが宣伝に貢献したぐらいに思っています(勿論、別に恩を売る訳ではないです・笑)。ただ、繰り返しますが、必ず「バードマン」と併せてみて頂きたい、つまりニコイチの宣伝ですが(笑)。

     

     そしてその結果「見たけど、お前が言うほどじゃなかったよ。むしろオレ良いと思った」と言われる可能性も「いやあ、お前の言う通りだったわ。酷いねありゃ」と言われるのも、ぴたり50%ずつ、とはいいませんが、多少の偏りがあるだけで、どちらもあるに決まっています。

     

     というかワタシは実際、ジャズミュージシャンでない友人に「お前の言う事はわからいでもないけど、オレは好きだった。あの映画は」と何度か言われました。別にそれで全く構いません。

     

     そして第三に、よしんば、ワタシが、強く意識的に「気に喰わない映画の悪評を書いて、実際に興収や批評を下げようとした(「=潰そうとした」)」とします(相当悪どい上にバカですけどね。そんな奴いたら・笑)。だとしても、それはもう絶対に無理も無理。ムリムリ劇場です。


     「セッション!」は世界中の映画賞で受賞し、我が国だけでも、名だたるあらゆる有名人から絶賛の嵐、ネットをやらず、地上波のテレビを主に観ているワタシでさえ、情報番組等で「今週のイチオシ!!」みたいなコーナーにあのクソ映画が出てくるのでゲラゲラ笑っています。

     

     それにあのNANO UNIVERSEでさえ、コラボレーションしているのであります(主人公の服装と、NANOの作風から鑑みるに、何のための、どういうつもりのコラボだか全く分りませんが。考えられるとしたら、あの映画の舞台となった、「ちょっと英国風も入った、アメリカのトラッドな大学校舎内の良い感じ」だけだと思いますが、まそれはともかく)。

     

     ワタシの鶴の一声で、こういった総てアップセット出来るとしたら、ワタシは映画批評界の天皇ということになるでしょう(昭和の慣用表現です。現行の天皇制へは何の意見もありませんので、念のため)。

     

     と、やや長くなりましたが、町山さんは、ワタシが「オレが長文で悪評を書けば、この映画は潰せる」あるいは「(潰せるかどうかは兎も角として)とにかくあいつを潰してやる」とでも思っている様な書き方ですが、ワタシにそんな思惑も力もある訳がありませんし、そんなリア王みたいな力、特に欲しくもありません。


     ワタシが妄執のエイハブ船長みたいな1万6000字(大した数字ではないと思いますが)に至らせた原動力は、既に書いていますし、今日も書きますが「賞賛者の数の多さ」に尽きます。


     以下、恥ずかしながらどんだけワタシに力が無いか披露させて頂きますれば、ワタシは、メールで直接「宇多丸さんの批評にお前なんか叶わない」「お前が1人で興奮して褒めてる<バードマン>だけど、「映画秘宝」じゃ、微妙扱いだぜ」と、知りもしない方から通達され(笑)、そして何せ「町山さんと言ってる事が違う(=だからお前は間違っている)」といったオッソろしい宣告まで受けまして(笑)同じTBSラジオで番組を持っている、同じラッパーである(ワタシは遥か後輩ですが)宇多丸氏とは、大変な支持量の差をあらゆる角度から嫌というほど知らしめられながら日々暮らしております(笑)


     それはそれで別に全く構いませんが(ワタシは常に、自分が思った事を好きなように書いているだけなので)、要するにワタシはマイノリティであって、そんな「潰そうとしている」等と、お戯れは御勘弁願いたいですし(笑)、町山さんともあろう方が信者の私兵化、もしくはそれの容認をなさる様な悪漢とはガチで思いませんが、そうではなくとも、弱い者苛めは勘弁して頂きたいです。それとも、アメリカにいる間に、アメリカみたいになられましたか?(笑)


     むしろ、そういう力(その人の批評一発で、ある層を動かせる=何かを「潰」せる?)を持つのは、ワタシよりも遥かに町山さんでしょう。智恵あるウィットネスの皆さんどう思われますか?(町山さんが、過去、<この映画を潰そう>と思い、実行した事がある。と言っているのではありませんよ。ワタシが言っているのは批評権威の話です。「映画秘宝」に代表される、町山さんが創出された映画の見方。は、今や一時期の「リュミエール」「キネマ旬報」と同等の批評権威であるとワタシは思っています)

     

     「マンガを愛好されている皆さんに陳謝」に書きましたが、ワタシは、ヘソ曲がりというか、ナンシー関主義というか、「余りにみんなが褒めているから」というバランスを取らんとする様な、いびつで慎ましやかな左翼性があります。

     

     そして、この予想は残念ながら恐らく当たると思いますが、我が国での「バードマン」の興収(並びに批評)と、「アメリカンスナイパー」並びに「セッション!」の興収(並びに批評)に、遠く及ばないでしょう。

     

     昔「ザ・レスラー」が、ベネチアかなんかで賞取った時に、ワタシは「KAMIPRO」誌上で申し上げましたが「そんな、ヨーロッパで賞なんか取らないで、アメリカで小さい規模で好事家だけが見た愛すべきB級。とかだったら何の文句も無いんだけど。おかしいっしょ」つまり、オーヴァーレイテッドというか、「セッション!」が、奇作、怪作(それこそ、町山さんの名コピーである「トラウマ映画」)の類いで、エグいのが好きな好事家が喜んだだけ。だったらワタシは、いくらジャズが卑しめられていても何も書かなかったと思います。

     

     「こんなもんが、各界絶賛、賞レースで大活躍はまずいな。まあ、みんなが喜んでる作品貶したら、囲まれるだろうけど」と思って書きました。まあ、そして、果たして、こうしてシェリフに警告を受け、保安官助手くんたちに警告受けてる訳ですけど(笑)。学生の時分に戻ったようで懐かしいですね(笑)。

     

     ですので、菊地先生は『セッション』の、ジャズ・ドラマーを目指す若者を潰そうとするJKシモンズ扮する先生にダブります。なんて、しょっぱなからカマされたりなんかしたら、「あらあ、いきなり一発来たわー」と、楽しくなってしまいますよ。


     「どうせ潰せる訳なんか無い。ジャズ界は今はマイノリティだ」と思い、「だから最低限の事は言わせてもらう。誰もあいつに文句言えないだろうから」と思って、あの先生、あの丸ポチャくんに椅子投げたりビンタしてたんですかね?だったらワタシとだぶりますが。


     っていうかワタシは、サディズムではあの先生の100分の1ほどしかありませんし、リズムも耳も100倍(ガキの考える数値ですね・笑)ぐらいは良い、という自負がありますので、繰り返し、ご勘弁願いたいです。

     

     というか、自分の発言力/影響力の大きさを自覚しつつ(されている筈です。それとも、ネットのやり過ぎでおかしくなられましたか?)、片側だけの意見をピックアップして「あいつが○○を潰そうとしてる」等とプロパガンダで危機感を煽り、相手を「素晴らしい作品を潰そうと憎悪に萌えている」悪者だと決めつける。等というのは

     ナチズム等の人種差別主義者のする事だと思いますが如何でしょう?

     

     ワタシが一文字も書いていない(思ってもいない)「潰す」という言葉は、誠に失礼ながら自白的であるとしか思えません。ワタシはどうやら潰されてしまう様で、なかなか怖いですね(笑)。

     

    私は菊地先生が罵倒し続けている「ジャズ素人」ですが、『セッション』の監督デミアン・チャゼル(30歳)は違います。

     

     これまた、お手間を取らせる事になるので申し訳ありませんが、前述「マンガを(以下略)」をお読み頂きたいです。

     

     ワタシは、あの映画を罵倒しているだけで「ジャズ素人」を罵倒などしていません。

     

     「マンガを(以下略)」文中にある通り、我が国で、あらゆる音楽への理解が深いという素晴らしい状況の中、ジャズだけが遅れてしまっているという、大変残念な状況を作った責任は、我々ジャズミュージシャンの側にあります。「各界著名人の賞賛の嵐」は、その事の見事な具現化です。


     これは本当に、身を切る様に辛い事で、今後も一生かけて精進して行く所存ですし、その途上で、こういう映画が出てくれば、結果がどうなろうと、黙っている訳には行きませんでした。


    「まあ、キクチはジャズ側の人間だからああいうのはある程度仕方ないけど、オレは関係ないし、映画は面白かったね。音楽の考証と作品の出来は別でしょ」


     と、多くの方々に言われるだけだったとしても。です。


     また、これも同ブログにありますが、ワタシは「作り手がジャズマニアなのか、ジャズ一夜漬けなのか、いっその事ジャズ素人なのかはこの際関係ない」と明言しています。そしてこれは諧謔や逆説の類いではありません。そこは何だってどれだって良いです。そもそも脚本上のジャズ考証はメチャクチャですし。

     

    彼自身がドラマーを目指してひどいシゴキで挫折した経験を基にして『セッション』を作ったそうです。


    チャゼル監督デビュー作のインデペンデント映画『ガイ&マデリン・オン・ア・パーク・ベンチ』(2009)は、ゴダールの『はなればなれに』を思わせる、ヌーヴェル・ヴァーグ・タッチのジャズ・ミュージカルでした。


    脚本を書いた『グランドピアノ 狙われた黒鍵』も、コンサートでミスをしたら殺すと脅迫された若手ピアニストの話で『セッション』のスリラー版ともいえます。

     

    「監督デミアン・チャゼル(30歳)は<違います>」は、「彼はジャズ素人」ではない。という意味だと解釈しましたが、前述の通り、第一にワタシはそんな事はどうでも良いし、第二に、列記された作品群を見てないままで言うのはアンフェアですが、町山さんがお書きに成った「監督のジャズ経験度」は、ワタシの推測的な判断だと「彼はジャズ素人」です。


     いや、厳密を期するならば、こういうべきでしょう「監督は、ジャズの素人とは言えないが、限りなく素人に近い、それよりも<ハラスメントや恐怖経験度/挫折体験>に関しては大変な玄人」であると。音楽(ジャズ)は、自動的にその舞台にされているだけであると。そして、それこそ、それがこの映画そのものであると。


     音楽に救済された経験がある者が「演奏をミスったら殺される」などという被害妄想的な脚本を書くでしょうか?ウイットネスの皆さん、どう思われますか? 「救済されたかどうかなんかどうだって良いんだよ」と仰る方もいるでしょう。ところが、「どうだってよかない」んですよ。町山さんのブログを続けます。

     

    「ジャズ素人」の私には、菊地先生の16千字も費やした文章の論旨がちゃんとつかめていないかもしれませんが、先生の『セッション』批判のポイントを文中から抽出すると、以下のようになるかと思います。

     

    1 主人公は「ジャガジャガうるさいばかりの不快なドラミング」で「グルーヴがない」

     

    2 主人公がドラマーとしてバディ・リッチに憧れるが、引用されるのはチャーリー・パーカーで、原題の「ウィップラッシュ」が8ビートのジャズ・ロックなので、ジャンルが「ぐちゃぐちゃ」

     

    3 出血シーンが「愛を欠いた」「痛々しいだけ」である。

     

    4 JKシモンズ扮する鬼先生の「作曲も選曲も編曲も、肝心金目の指揮ぶり」も「中の下」で、「この点が本作の最大の弱点」。

     

    5 鬼コーチのシゴキ描写はまるで「巨人の星」、「スポーツ根性マンガ」のようだし、「スポ根としても出来が悪い」。

     

    6 このような教師がいたら「訴えられる」か「生徒にリコール」される。(劇中で実際に訴えられている)

     

    7 「この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくない」。

     

    8 この映画は「恐怖と憎悪を刺激する、マーケットリサーチばっちりの現代駄菓子」である。

     

    9 白人が黒人音楽であるジャズを、音楽大学でスパルタ式に教えるのは、ジャズを「二流のクラシック」として衰退させる行為だ。

     

     「マイナス1&2」で良いので「ジャズ関係者の絶賛コメントが無い」と「この映画は最初に一発キツいのを入れるだけのワンパン映画である」を入れて下さると有り難いです。あれは単なる趣向を超えた、あの文章の核心に迫る重要な事ですし、そもそもタイトルにした「パンチ・ドランキングラヴ(レス)」の元になっています。


     せっかく箇条書きでワタシの発言を要約して下さっているのに、最重要時が飛ばされてしまうのは大変残念です(他にも大分飛ばされてますが)。ワタシが「要約→引用」を嫌うのは、こういう操作が意識的/無意識的の差なく、不可避的に行われるからである旨は、冒頭ちかくに書きました。


    ちなみに大学でジャズを教えている菊地先生は、2007年の黒人音楽映画『ハッスル&フロウ』を「死ぬほどよくできている」と絶賛し、その年のベストにも選んでいます。

    http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20071122

     

     唐突に、本作と関係ない、何年も前のブログが提出されて、些か驚きましたが「こんな事書いてる奴が、映画なんかちゃんと観れてると思う?」というアプローチでしょうし、事情を説明しなければ、そのアプローチに誰もがリードされるでしょうから、説明させて下さい(というか、当時、ワタシのブログでは説明しているのですが、ワタシは当時のブログを保管していないので)


     かれこれ8年も前の事ですが、この時の事は良く憶えています(とても悪い記憶ですが)。


     雑誌「ブルータス」の企画で、「映画コンシェルジュ」というのがありました、「こんな映画が見たい」という人々のリクエストを受けて、回答側が推薦作品を挙げる。というものです。


     ワタシもコンシェルジュの端くれになりまして、2件ぐらい依頼が来たのですが、うち一件が、劇作家かなんかの女性で(もう、どんなお仕事かは、失礼ながら忘れてしまいましたが)、そのリクエスト内容が


    「ある日突然、黒人が好きに成った。とにかく黒人がいっぱい出てる映画が見たくてたまらない」というリクエストだったのです。


    何だソレ?(中指ぴーんとまっすぐ)


    サブカルちゃん。何がキッカケか知らねえが、突然萌え出したかね?ブラザーをセックス奴隷として見てる?ひょっとして?良いねえ(笑)


     と、お恥ずかしや、ワタシは完全にイッてしまったんですね(それが間違いだったか正しかったかは未だに分りませんが)。そして、愚かで大人げないワタシは、憤激が止まらなく成ってしまったんです。思い出しても顔から火が出ます(笑)


     彼女が「あのう、ワタシいままで、黒人男性のセクシーさ。とか正直分らなかったんです。ところが、こないだオリンピック見てたら、あのう、突然目覚めまして(笑)お恥ずかしい話しなんですけど、黒人俳優のセクシーさやワイルドさを充分楽しめる作品があったら教えて下さい」とか書いてあったら、天地神明に誓って憤激なんかしませんでした。


     何の仕事か忘れちゃいましたけど、アート風情が「とにかく黒人が一杯出てるのが見たくてたまらない?」だと?お前よ。東欧かなんかでアートとかやってる男が「ある日突然、アジア人が好きに成った。とにかく日本人がいっぱい出てる映画が見たくてたまらない。そういう映画を紹介しろ」って言われたら喜ぶか?それってピンプ扱いを受けたって事だぞ?


     とまあ、それはそれはもうものすごい憤激で、そうですねえ「セッション!」という映画を観た時ぐらいの憤激でした(笑)。

     

     ワタシは、編集者に「あのーこれ、黒人AVのタイトルの載せたらダメですか?」と笑いながら言いましたが、相当怒りが外に漏洩していたと思います。編集者は「ヤバいな、、、」みたいな感じで「一応<映画>のコンシェルジュですから」というような事を言った記憶があります。


     そこから先のワタシの行いは、ガチガチのガチで今でも深く反省しています。ワタシは「とにかくこいつ(その女性)に無茶苦茶な解答をして嫌な目に遭わせてやれ」と思ったんです。


     というより、「怒りすぎて錯乱した」ぐらいが近かったと思います。


     その結果、「何かもう、無茶苦茶に紹介してやれ。クソ、寄りにもよって何でこんな奴をオレに当てる訳?オレが<はいワタシはヒッピホップ大好きでヒップホップムーヴィーいろいろ観てますからねえ。了解しました!そうですねえ、一番黒人が一杯出てるのはアレですかね、ノトーリアスP.I.Gの伝記映画!!>とかいって喜んで紹介するとでも思うか?」


     といった感じになり、怒りでクラクラするアタマにぱっと思い浮かんだ「ハッスル&フロウ」について、ああいう風に書いてしまったんです。


     テレンス・ハワードがアフロアメリカンであることは勿論知っていますし、「ハッスル&フロウ」が、ベストとまでは言わずとも、そこそこ楽しめる、ウエルメイドで誠実なヒップホップ映画である事は、見ていた訳ですから知っていました。


     興奮して脱稿してからすぐ、何よりも「ハッスル&フロウ」に対する侮辱を働いてしまった、と深く反省したのですが、神罰が下り、それからしばらく「ブルータス」誌からは仕事が来ませんでしたし、こういう文脈の中で、「過去、こいつはこんな事言ってた奴ですよ」とばかりにリンクを張られたりしてしまう訳です(笑)。


     しかし、町山さん、これをいきなり「ほれ」と出してくるのは、どういう意図によるものでしょうか?「こいつには前科があります。8年前に、こんな事件を起こしているんです。こんな奴が映画についてまともな目を持っていると思いますか?」という意味だったとしたら、なかなかお悪いですなあ(笑)。


     だってワタシは(涙ながら)更生したというのに、、、、あれは、、、一時の気の迷いで犯してしまった愚行だったのに、、、もう充分償ったつもりだったのに、、、一生背負わなければいけないのですか?(涙を拭きながら号泣)。


     というより、です。町山さんの過去のお仕事を総て知っている訳ではありませんが、失礼ながら町山さんは、一件もこういった狼藉やご乱心を起こした事が無い、完全無欠の潔癖で正義の人なのでしょうか?


     <完全無欠の正義の人が、8年前に狼藉があった者の罪状を、さりげなくさっと放ってみせる>かなりカッチョいいシーンです。やるなあ(笑)。


     この行為がどういう意味合いになるか、アメリカ在住者であらば、我々よりも良くご理解頂けると思うのですが。

    では、「ジャズ素人」の私が僭越ながら、自分の素人考えを書かせていただきます。

     「僭越ながら」は、ワタシにも視線が向いてお発言でしょうから申し上げますが、しつこいようですが、ワタシは「ジャズ素人」は意見を言うな、等とは1マイクログラムも、思っても書いてもいません。よろしかったらご確認ください。


     と、以上ここまでが「誤解を晴らしたい(読んで理解して頂きたかった)部分」で、以下、「同じ映画を巡る評価の違い」に転じます。


     こちらは、言うまでもなく、個々人によって違いますので、基本的には書く必要もない程度の、プレジャーなパートと言えるでしょう。


     ですので、そこに入る前に、今まで強く何度も書いた事ではありませんが、ワタシが「映画や音楽を批評する行為」に関する基本的な発想を書かせて下さい。御興味ない方はスキップして頂いても構いません。


     映画も音楽も、一回の鑑賞では総てを(訳者が台詞を憶えるように)暗記出来ません。誰もがシマ性の健忘とシマ性の記憶を素材にして書く訳です。


     また、「何度も観ればさすがに憶えた」という事も、基本的にワタシは認めません。


     何故なら、「甘い生活」は500回ぐらい観ましたが、いつ観ても新鮮な驚きがあるからです。

     と、こうした認識論に関してハードコアにやり始めると迷宮に入りますので止めますが、とにかく、アマチュアもであろうとプロであろうと、記憶喪失症の患者(ワタシの認識では、誰もが症状の差こそあれ、そうなのですが)であろうと、モーツァルトのような天才の暗記力であろうと、「断片的な記憶」を元に批評行為をする訳です。


     ワタシは、「もうこれは長文だ」と思ったら止めどなくなるという病理があるのでここで止めますが(笑)、この点は20世紀までの「批評」観が抑圧して来た、一種の誤謬のような物であると思いますし、現在「人類全員が批評家」という時代に於いては、強く認識すべき事であると思います。


     それでは後半のパートに入ります。町山さんのお振る舞いを見る限り、「第二審」とした方がいささかしっくりくると思われますが(笑)。


    菊地先生のおっしゃる通り、主人公は「ただ手数が早ければいい」と思い込んでいるだけの少年で、グルーヴもつかめていない、


     ワタシは、重箱の隅をつつくような揚げ足取りは良しとしませんが、8年前のご乱心を持ち出すという方法まで採られる鉄火場なのであらば、敢えて嫌々書きますが、「手数」は「多少」で計られるもので「遅い早い」で計られる物ではありません。ですので、朱筆を入れさせて頂くならば、「手数が早い」という日本語は無く、ここでは「手数が多ければいい」が正しいです。

     

    ジャズを人生の成功のための武器としか考えていない、つまりジャズがわかってない、というか、音楽がわかってないと思います。


     ワタシの考えは若干ですが違います。彼はバディ・リッチという敬愛するドラマーもおり、プロのジャズドラマーになろうと真剣に考えています。


     音楽が「わかっているか、わかっていないか」という判断は大変難しく、軽々と「あいつは音楽が分かっていない」と断ずるのはどうかと思います。これは日常的に「あいつは○○が分っていない」という台詞を言い慣れている方の発言だと思います。


    彼にとって音楽は貧しい自分と父をバカにしてきた世間を見返すための武器でしかないのです。


     ワタシの考えは多少ですが違います。彼は最終的には音楽を、逆境に復讐する為の「武器」に100%してしまいますが、それは悪魔である、JKシモンズとのグルーヴ(音楽ではない、呪詛による)によって、墜ちてしまった訳で、最初からそんな風に描かれているとはワタシは思いませんでした。むしろ「地獄に引きずり込まれる」過程を、「その直前から見せた」という部分が、この映画の新しさ(=若さ)と思っています。


    だから、JKシモンズ先生は彼にダメ出しを続けたし、がむしゃらに叩くだけだから出血したんでしょう。


     ですのでこのご指摘は、100%完全には同意出来ません。勢いミリ単位の話になりますが、この説明だと、「JKシモンズは最初から主人公に内在する悪を見抜き、彼をファーストインプレッションで一本吊りしていた」という事になりますが、ワタシはあまりそう感じませんでした。


     JKシモンズ先生は、後述する自己実現の屈辱経験(これにはほぼ同意します)によって、取りあえず360度、誰をも潰そうとしているように見え、その日常の中に、最適の生け贄の素質があるドラマー君が放り込まれ、案の定、だんだんと(ちゅうか、ほぼ一瞬で、ですが。なので、今書いているのは、繰り返しますがミリ単位ですが)その生け贄像が浮かび上がって来た。とワタシは解釈しています。


     ま、ここらへんは、大味に炎上を楽しみたい方には「どうでも良いよ。そんな細かい話」といったレヴェルでしょうけれども。

     

    繰り返しますが、この主人公は監督自身の経験に基づいていると監督が語っています。


     ワタシも繰り返しますが、でしたら監督は尚更ジャズ玄人ではなく、単なるトラウマ玄人、屈辱玄人、報復玄人です。だから、映画があんなんなったんだとワタシは考えています。


    菊地先生のおっしゃるような「マーケティングばっちり」ではなく、監督個人の思いから作られた映画です。


    製作費4億円以下の超低予算インデペンデント映画なのでマーケティングが関与する余地はあまりないでしょう。


     「誤解ですよ」にクイックバックしますが、前述の通り、ワタシがいくらバカだからといって、こんな事も解らない程のバカではありません(笑)。バカ扱いもいい加減にしろ!!!(笑)


     この規模の映画だったら、「マーケティングが関与する余地は<あまり>ないでしょう」どころではなく、<絶対に>無いです。そこから観客の高い支持を集めた。だからこそのサンダンス受賞であり、ワタシが「マーケばっちり」と言ったのは、旧態的な、具体的なマーケの事ではなく、「現代社会」というマーケの事で、やや古めかしい言葉で言えば、「その時代の民衆の心をつかんだ」訳です。それを皮肉で(こんな事、説明するの嫌だ〜・笑)「マーケばっちりの現代駄菓子」と書いたのです。


     そして、その事を含めた、複合的な結果により、この作品にファックを宣言した訳です。ワタシは。


     勿論、「民衆の心をつかんだ」事自体がファックな訳はありません、誰もが意図的、あるいは無意識的に民衆の心をつかむ可能性があります。しかし、この映画の掴み方と、掴まれる者のグルーヴ、そして、それがどうやら世界的にマジョリティーであること。が不快だった訳です。


    彼をシゴく、JKシモンズ先生自身も、音楽を人を傷つけるために使います。


    彼は意味もなく主人公を潰すことしか考えてません。


    そういう時は「意味もなく」ではなく、「いったいなぜだろう?」と考えてみましょう。


    たいていの映画では、描かれなくても、重要な人物の行動の理由が作者の中にはあるものです(ない場合もあるが)。


    おそらくJKシモンズ先生は、自分も演奏家になりたかったのでしょう。


    それが何かの理由で挫折したんでしょう。


    それこそ、菊地先生がおっしゃるように、シモンズ先生はアーティストとしては「中の上」程度でしかなかったからではないでしょうか?


    だから、若い才能を、おそらくは無意識の嫉妬で潰そうとしてしまう。


    シモンズ先生が挫折した音楽家だとすると、そこにも挫折した音楽家である監督が重ねられているかもしれません。


     しつこいようですが(笑)、ワタシはバカですが、そんな事まで解らないバカではありません(「監督の実体験」の部分は、初めて知りましたので大変参考になりましたが。こういう所は「さすが町山さん」と思わざるを得ません。ワタシは「裏話」に興味が無い派で、さりとて、それはワタシの個人的な主義であって、「裏話」も重要なファクターである事は認めます)。 


     ただ、JKシモンズの、重症のサディズムの根拠を、「自分が演奏家になれず、指揮者になっている」という挫折と復讐心に100%囲い込んでしまうのは、この、不快ながら不思議な新鮮さが最後まで途切れない作品の解釈の幅を狭めると思います。

     「何でこいつ、ここまでするの?単なる自負心からだけだとしても病的」という、一種の不条理的恐怖を描こうとしているのが、この作品の新しさではないでしょうか?


     二人とも、ジャズを、音楽を他人を潰すための武器として使っているわけで、音楽家として、いや、アーティストとして明らかに間違っているのです。

    明らかにそのように描かれています。

     その意味で菊地先生の指摘の通りです。まさにそれが監督の意図ではないでしょうか?

     もう言い疲れたのでこれで最後にしますが、そんな事はいくらワタシが大バカであろうと解っています(笑)。遠回しに人をバカ扱いするのはアングロサクソンのエリートのやり口です!!!(笑)ワタシがいつ、「こいつらマジで許せねえ」とか「監督が描こうとしている事以外の事が気に喰わない」と言ったでしょうか?

     先生のお好きなプロレスに例えれば、金と名声のためにレスラーを目指す青年と、トップ・レスラーになる夢が挫折して若手潰しで鬱憤を晴らそうとするコーチの物語にでもできるでしょう。


     勿論、出来ると思います。というかワタシの文章を本当に総て読んで下さっているのかどうか不安になってきました。


     ワタシは、「これがヘヴィメタならコメディに、これがヒップホップなら暴動のドラマに移送可能である」旨、はっきりと書いていますし、「ウィプラッシュ」という原題は、どんな物語にだって使える一般性がある。なのにジャズなんで嫌なんだが、しかし仕方ない。これが嫌だけど最適なのだ」というアンビバレンスについても苦渋をダラダラ流しながら書いているのですが。お読み頂けておりますでしょうか?


     菊地先生が『セッション』を批判する個々のポイントはすべて仰る通りだと思います。

     

     ただそれは物語の欠陥ではなくて、キャラクターの欠陥として作者が意図して仕掛けたものであって、

     

     フィニッシュで昇華されるように機能していると思います。

     

     菊地先生が批判している「恐怖と憎悪」もこのラストで昇華させるために蓄積されていくのだとと思います。


     ここから先が、町山さんとワタシでは明確に違うので、要するに「オチの解釈の違い」ですね。


     ワタシにはカタルシスがまったくありませんでした。「何故か」という枕詞を付けても良い位です。 

     「最初に一発かまして、フラフラになった奴をひきずりまわしてるだけだろ。ちゃちだ。これは。全然感動しないし、凄いどんでん返しでも無い。描きたいのはハラスメントの恐怖と、それに狂ったように反抗する姿だけで、音楽による浄化と祝福は、お手盛りに過ぎない」

     というのが、ラストまで見終わったワタシの感想です。


     また、このラストで、主人公たちがジャズ本来の楽しさを思い出すことは、名門大学でジャズの技術を特訓すること自体への批判にもなっています。


     そんな風には思ってもみませんでした。やって、やりかえして、演奏がソコソコ上手くいって(ドラムソロはぜんぜんーー映画に蓄積された怨念を祓い清める程にはーー爽快感ありませんでしたし)、生温いまま、あ、形になったから終わり。アメリカ人はすぐ偽善で肩叩いたり握手したりハグしたりするから、解ったもんじゃねえ。という風に観たのですが、それはきっとワタシの心が、町山先生よりも狭いのでしょう(笑)。

     音楽もプロレスも、グルーヴとスイングのアートです。

     

     はい、その通りだと思います。

     

    菊地先生は『セッション』批判文のなかで、ご自分の「鬼バンマス」体験についてこう書いています。


    素晴らしい文章なので引用させていただきます。

     

     菊地雅章氏という(中略)作曲者のバンドにワタシが参加した時は、この映画のような激しい物ではなく、陰湿で粘着的な物でしたが、目を覆うようなハラスメントが行われた事がありました。(中略)

     

     ワタシは、そのターゲットとなった先輩プレイヤーが半べそをかかされるのを見て、菊地氏を音楽家として心から尊敬していなかったら、本番が出来ないように、一本残らず指を折ってやろう、いや、一本だけで良い。切断するのであれば。と、心中で何度も何度もシュミュレーションを重ね、いつでも実行出来る様に待機していました。

     

     しかし結果としてステージは素晴らしく、病的な鬼バンマスである菊地氏も、ハラスメントを受けた先輩も、殺意を抱いていた若き菊地成孔氏も、全員グルーヴィーでハッピーになったのです。

     

     これこそが音楽の、正常な力なのです。

     

     まさにその通りのことが起こるのが『セッション』のラストではないでしょうか。


     1ミリも漏らさず、全く違うと思いますが(笑)、ワタシは実例の体験者なので、客観的になれていないのかもしれませんね。


     あの演奏は最初は主人公の先生への逆襲ですが、そこに先生が「よし」と参加した時、二人はそれまでどうしてもつかめなかったグルーヴをつかんでスイングします(少なくともそのように描かれています)。菊地先生のおっしゃる「グルーヴの神」が降りてきたのです。

     

     最初、主人公は鬼先生へのパンチのような気持ちでドラムを叩きはじめます。

     

     退学させられた口惜しさも、鬼先生への憎しみも、愛する女性を失った悲しみも、挫けた立身出世の夢も、何もかもこの演奏に叩きつけます。

     

     プロレスに例えると、それまで悪役に汚い手でさんざんなぶりものにされてきたベビーフェイスが、耐えて耐えて耐え忍んだ果てに堪忍袋の緒を切らして怒りの反撃ラッシュを炸裂させる瞬間です。

     

     観客は、ついに出た! やったれー!と拳を突き上げます。

     

     監督自身にとっても自分の夢をつぶしたコーチへの復讐の瞬間でしょう。

     

     しかし、『セッション』は悪役を叩きのめしたところで終わりません。

     

     叩き続けるうちに、主人公からは何もかも吹き飛んでいきます。彼の周りからすべての世界が消えて行き、音楽と一つになっていきます。

     

     観客は映りません。

     

     先生は主人公がドラムに叩きつけるすべての感情を受け止めて行きます。

     

     言葉の代わりに、主人公はドラムで先生に言いたかったことすべてを語ります。

     

     それを言葉を聴くように先生は何度もうなずきながら聴いています。

     

     そのうちに先生は「わかった。わかったよ」とでも言うように主人公を手でなだめていきます。

     

     主人公の激しいビートがだんだん静まって行きます。

     

     先生はまたうなずきます。わかった。お前の怒りはわかった。悪かった。

     

     二人は思わず微笑んで見つめ合います。


     全く仰る通りで、ストーリーは過不足無く、こういう風に描かれています。画面では。


     でもワタシには、前述の通り、何故だか、全くカタルシスが訪れませんでした。


     ずっと「温〜い」「ぜんぜん凄いどんでん返しじゃな〜い」「何この演奏〜」「お手盛りの感動〜。偽善的〜」とまるでだだっ子のようになっていました。


     格闘家たちがパンチを交わし合い、技をかけあった戦いの果てに世界のすべてを忘れてしまうように。

     楽しい。

     

     音楽は楽しいんだ。忘れてた。

     

     学校なんかどうでもいい。もう、憎悪も恋の悲しみも敗れた夢もふっとんだ。いま、演奏しているのが楽しい。

     

     二人の間にあるのは音楽の楽しさだけです。

     

     先生もまた地獄に陥っていました。

     

     音楽を愛する若者を音楽の名のもとに潰していたのです。

     

     その地獄から先生は最後に主人公によって救われます。

     

     いや、救ったのは主人公ではなく、音楽でした。

     

     最後には二人はもはや勝ち負けなんかどうでもよくなっていました。


     この部分は町山さんの解釈だと思いますが、実に素晴らしい。こうして読むと皮肉ではなく非常に感動的で、映画よりも、町山さんのこの名調子を読む方が感動するのではないか?と思う程ですが(「もうコレ読んで泣いたから、もう見なくても良いや」という方もいらっしゃるのでは?そしたら潰れちゃいますよ・笑)、正直、ワタシはまったくその気になれませんでした。

     

     以下、挿話↓


     <失礼、あのう、いま急に気がついたんですが、いまどきの炎上エンジョイ平均で言うと、ひょっとすると、このやりとりを、ワタシのそれはいうまでもなく、町山さんの過去の業績すら知らずに、ただ「火事や喧嘩は江戸の華」とばかりに、通りすがりに見物して「こいつダメだな」「赤勝て白勝て」「殺し合え」と思ってるだけの学童とかもいるとおもうので(笑)、自己紹介させて頂きますが(笑)、ワタシは音楽家でフロイディアンです。


     なので、トローマやインフェリオリティコンプレックスによって、病的に歪んだ者が、音楽という平和の力(それは、平和を強制する、平和洗脳ぐらいに強力な平和=ハードコアピースだと思います)に溢れた場に集まり、やがて音楽療法的、或はミュージックマジックによって過去の傷を治癒し、力強く再生し、音楽に感謝する。なんていう物語は大大大好物なんですよ(笑)。


     っていうか、それがワタシの日々の務めです。ワタシの活動(演奏、作曲、文筆、ラジオ番組)のごひいき筋でしたら、よおくご存知頂けていると信ずる物であります。


     とはいえ「ははあ、だから近親憎悪的な感じで辛口になったのね」とか、早計は止めて下さいね。全然違います。勿論、この映画は、そういうベクトルの物語構造を持っています。でも、何かどうしても感動を阻害するものがあります。これは、第一にはワタシに個人的な物でしょうが、ワタシの考えは以下の通りです。本筋に戻ります。挿話終わり>


     「その物語を物語るに足るだけの音楽が鳴っていない」のは間違いないのですが、そこは取りあえず問題ではありません(コレはワタシの酷評中にある「ジャズリテラシー」に関する、世界的にねじれてしまった物でもありますし)。


     ワタシは、申し訳ない、配給会社の方にDVD頂いているので、実はこの映画、5回観ています(前述の通り「だからオレのがちゃんと観てるんだぞー、だからオレが正しいー」なんて口が裂けても言いませんよ)。

     

     なんですが、エンディングへの流れは、「ただ単に、<感動的な物語>の形式を踏んでいるだけで、こちらに移入させ、泣かせる感じがまったくしなかった」です。

     

     なんでだろうか?

     

     前述の通り、ワタシだって泣きたいんですよ。ワタシは、そもそも自分の感受性の偏差によって、そもそも受付けないジャンルの物にケチつけるようなケチな人間ではないです。ラーメン屋に入って「ラーメンしか無いのかい」といってるような、チンピラまがいの文句をたれる方も巷には多々いらっしゃるでしょう。 
    ワタシはこの作品は、ムチャクチャ期待したんですよ。もうハンカチ用意して観てたんです。自室で(笑)。

     それでもダメでした。


     よくありますよね。「美味しい筈の料理が、まったく美味しくない」「綺麗な人とセックスしているのに、何故だか全く興奮していない」そして「感動的なストーリーが繰り広げられているのに、何故だか全く感動していない」


     つまり、記号やベクトルに、上手く誘導してもらえなかった。物語は万能ではない。


     以下はフロイドをベースにしたワタシ個人の推測ですから、賛否は当然あるでしょうが、いま、あくまで仮に、ですが、ワタシの感受性が偏差の少ない、フラットなものだとします(「あり得ねえ」という声がいましも耳元から聞こえてきそうですが・笑)。


     にも関わらず、この「感動的なストーリラインを踏んでいる映画」がスッキリしない上、異様にイライラさせられるのは、音楽がダメである以外に、脚本が「最初にビビらせて、最後までサスペンスを引っ張ることで、雑な脚本を通してしまう効果」によりかかっているようにみえる事、つまり稚拙もしくはアンフェアである事以外に、構造を分析しても抽出できない要素があるのであるならば、応えは一つ。


     監督自身がまだ、音楽に救われてないから。

     だと思います。


     ワタシは、ここまでの過程によって、30歳の監督はまだ、音楽によって、過去の経験の呪縛から解放される。という経験をしていないと判断します。


     呪縛から逃れてないのに、逃れて救済される映画つくっても、無理です。


     怒っているのに「いや、ぜんぜん怒ってなよ」といっている人が他者を安心させないのと同じです。


     そして、そういう人が増えてるんですね。世界的に。と、ワタシは思いました。それが前述の「マーケばっちり」です。


     いきなり違う作品の名を出しますが、「はじまりのうた(BEGIN AGAIN)」は、いろいろな意味で、小規模であり、大した映画ではないです。オスカーに限定すれば、最優秀主題歌賞のノミニーだけです。しかし、この作品は関係者が全員、プライヴェートで、音楽によって一度は挫折し、しかし音楽によって救われ、その感謝を映画で描こうという意欲に満ち満ちています。


     その事が、さほど現代イライラ時代のマーケに沿ってない、緩いおとぎばなしみたいなおはなしであっても、圧倒的な感動を持って迫ってくるんですね。


     その違いだと思います(まさか誤読される方が居るとは思いませんが、念のため、ワタシは「暴力的な音楽映画はダメ。音楽映画はハートウォーミングなラヴストーリーじゃなくちゃ」等という寝言をいっているのではありません)。


     だからエンディングはもはや「ロッキー」一作目のそれ。

     

     フィニッシュの瞬間、僕は思わずガッツポーズをした。

     

     他の席からは「イエス(やった!みたいな意味)!」という声も上がりました。

     

     まったくプロレスの3カウントの瞬間でしたよ。

     

     この後味のために、今までの苦しみがあったのです。


     最早、「個人的な感想」の中での偏差の話ですから、何を書いても町山さん並びに、この映画を観て「イエス!(「ジーザス、、、」だったりして・笑)」と言った人々もディスった事にはならないと思いますが、ここまでの流れ、全く信じられないです(笑)。


     ワタシは終わった瞬間「オーノー」と思いました。思いながら「うわー、でもコレ受けそう。<ヤバいもん観た。すげー>的な。嫌だ~。頼むぜ、ヤバくもねえもんをヤバいとか言うなよなボーイズ。しっかりしてくれよ」と思ったんですね。1000%余計なお世話ですが、ただ、ワタシは配給会社の方から解説頼まれていたんで、「現代社会」というマーケを視野に入れざるを得なかったんです。


     そしたら解説原稿はボツ(笑)、そしてフタを明けたらコレが絶賛の嵐(笑)。アチャーやっぱり。絶対ジャズミュージシャンは提灯書けねえな。調べてみたら案の定(笑)。


     そして、ワタシのアクションは最初に戻ります。


     長文にお疲れの方が多いと思いますが、ここまで振り返って下さい。「ワタシがこの映画に抱いた感想=この作品自体」が、「今回の町山さんのブログ」と、ほぼ同じだ。という事がお解りになったと思います。


     「最初に一発かまして、どんでん返し的に過去の資料が出て来る。最後は感動的な解説で絶頂」


     町山さんのこのブログ自体が「セッション!」を別メディアにリメイクした物であるあるかのようです。


    まあ、こんなに長く書いたのは、『ロッキー』観て感動した後、ボクシングに詳しい人から「あれはボクシングとしておかしいよ」と言われたような気分だったんですよ。


     「ロッキー」は不勉強ながらテレビで断片的に観ただけで、そしてワタシは3流のボクシングマニアですが、いくらなんでも「ロッキー」に「ボクシング出来てねえよ」とはケチつけません(笑)。公開当時、そういう野暮天もいたのでしょうが、ワタシそんな低能とは違いますんで、同一化のリーディングに引っかからないで下さいね皆さん。上手いなあ町山さん(笑)。繰り返しましたが、好感度上がりましたよ(笑)。


     「ロッキー」は、それこそ「コレはマンガだ(或は「プロレスだ」と言っても良いでしょう)」というコンセンサスが、第一作から取れている事がかなり明確だからです。その後、続編の数を数えるうちに、「スポ根マンガ」である事は、どんどん顕在化して行きました。


     「セッション!」に於ける「ビッグバンドジャズ」とは、文化的な構図が全く違います。いうまでもありませんが、念のため。


     アメリカは、オリジナルストーリーであれ、評伝の映画化であれ、70年代以降のジャズ映画ロクでもないんですよ。イーストウッドの「バード」も酷いの(笑)。代わりに、ドキュメンタリーは良いのが多いんですけどね。


     発祥地の地であり、発展の地ですが、ジャズはアメリカ文化の中でかなりツイストしてしまっています。ドキュメンタリーから離れ、ファンタジーの領域に持ち込まれると、死んでしまう音楽と言っても良いです。


     「バードマン」を観て下されば、ドラムっちゅうのはガチでやばいなあ。<涙腺決壊>とかそういう退行的なレヴェルじゃねえ、無意識を揺さぶる凄い感動があるし、<手に汗握るどんでんがえし>なんてもんじゃねえヤバさがあるよ。という事が解ると思います(結局そこかよ。という・笑)。


     ただ「バードマン」は「ジャズ映画」ではありません。もう「ジャズ映画」はアメリカには無理です(キューバとかなら無理じゃないし、実際にそういった作品も作られつつあるんですが、本稿ではここまでとします)。「バードマン」は、「ジャズ映画」が成り立たなくなった合衆国で、「ジャズ」という原義の、更なる中枢である「移民」というエッセンスに漲った「移民映画」です。これに関しては、後に「バードマン」について書きますので、そちらをお待ちくださると幸いです。


     でも、先に述べた通り、「セッション!」のが売れるし、感動させるんだと思います。駄菓子もしくは危険ドラッグだと例えたのはそういう事で、ワタシは「ジャズという高尚な芸術が解らない奴はバカだ」みたな事は一切言ってません。駄菓子にも危険ドラッグにも存在意義はあります。おそらく、原始時代から。


     と、今回は、町山先生とお手合わせ頂き、オレもそこそこになったかな、と思うばかりですし、それこそプロレスの修辞ですが、一度組み合えば、総てが解るというのは本当だな、と思いました(笑)。


     せっかくのプロレス的なエンディングなので(計画したり、2人で仕組んだ訳ではなく、自発的な物ですが)プロレスのマナーに則り、敢えて憎まれ口を叩きますが、この映画でガッツポーズとは、町山さんもお若い、というか、ヤキが回ったとしか思えませんし、もしくはワタシと違って、愛なきトラウマ映画とかエグいのいっぱい観てる人は、カレー喰い慣れてる人と同じで、刺激に耐性や免疫みたいなのがあって、見え方が全然違うのかもなあ。とも思っています。


     野次馬の皆さんは如何でしたか?(って、実際にジャッジメントのメールください。とかではありませんが・笑)


     因みにワタシと町山さんは同い年で、町山さんは映画批評一筋で、ワタシは音楽を中心にいろんな事をやる人です。


     映画評においてのみならず、ワタシはあらゆる場所で外道であり、徒手空拳、無頼の徒である事は嫌が応にも理解しています。ワタシは大抵の場所で、ファーストインプレッションが「うさんくせえ」と言われるタイプです。それはワタシのホームであるジャズへの認知度の低さも、少なからず起因していると思っており、順次的に、この映画への評価が少数派になるような形を取った遠因にもなっていると思われます。


     一方、町山さんには、ひとつのお仕事をやり続ける真摯さと、英語に堪能で、実際にアメリカ在住だという、飛び抜けた実質があります。余談ですが、ワタシは「デューク本郷」さんというAmazonユーザーの方にビーフを仕掛けられ、乗ろうと思ったら逃げられたのですが(笑)、「アメリカ在住者の本格派」が、ワタシを「成敗しよう」という積極的な意志を持つ傾向(今回も、ワタシはビーフされた側です)に関しては、専門家の分析に任せます。


     ワタシは個人的にインターネットは無料の強烈なドラッグであり、有害であるとする立場ですが、「外部的な権威やパブリックイメージにとらわれず、誰もがフラットに討論出来る」という部分は、数少ない良所だと思っています。


     町山さん、ワタシのような雑魚相手に楽しい経験をさせて下さり有り難うございました。特に、「監督に主人公と同じ屈辱体験がある」という事実のご教示は、ワタシの本作に対する拭いきれないモヤモヤをかなりスッキリと晴らし、ワタシが何故この映画にあそこまでの憤激を憶えたか、かなり明確になり、個人的には非常に実りの多い対話となりました。しかし、すっかり権力側の振る舞いがお似合いになりましたなあ(笑)。


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