まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

 この記事は「「次なる世代の物語」の胎動。アニメ化決定の話題作『まおゆう』を語り倒す(その一)。」及び「同(そのニ)」の続きです。未読の方はまずはそちらからお読みください。

 さて、ペトロニウスさんがいうには、『まおゆう』は大きく分けてふたつの物語から構成されている。勇者、魔王、青年商人ら英雄たちがこれまで語ってきたような「善悪二元論の循環構造」を乗り越えていこうとする「英雄の物語」と、もうひとつ「英雄譚の論理的欠陥をメタ的に解体していく物語」である。後者の構造を「脱英雄譚」と呼ぶ。

 つまり『まおゆう』は「善悪二元論の超克」というテーマと「脱英雄譚」というアイディアから構成されているのである。この見方はペトロニウスさんならではの慧眼だろう。

 かれはその「英雄譚の論理的構造」の指摘をCLAMPの『魔法騎士レイアース』に見る。これは主人公たちが異世界に召喚され、セフィーロという国を支えるエメロード姫を救うため、悪の魔法使いザカートと戦い、かれを倒すものの、思わぬ真相があきらかになるという物語だ。

 実はザカートとエメロード姫は愛しあっており、ザカートはセフィーロを支えるため犠牲となるエメロード姫を救おうとしていたのだ。ここには英雄譚の物語の論理的欠陥が凝縮している、とペトロニウスさんはいう。

 ひとつは、世界のほんとうの姿も知らずに簡単に英雄としての力を振るうことの是非、もうひとつは英雄が世界のために犠牲になるという全体主義的な思考の問題だ。

 勇者という英雄は世界を救わなければならないのに、自分が救おうとする人々から排除され、いじめ抜かれるという「勇者の物語」を背負っている。たとえば『東のエデン』の滝沢朗が自分が救おうとする人々に裏切られたように。これは「英雄譚」が、ひとりの英雄にすべてを押し付けるという卑怯な構造になっているからである。

 『まおゆう』の作中で、メイド姉はこの卑怯な構造を突破して、英雄に頼らずに世界を変えていく方法を考える。彼女の問題意識は、初登場の時点から最後のエピソードまで一貫している。

 最初のシーンはメイド長との会話だ。このとき、メイド姉妹は飢えた逃亡奴隷という身の上である。その姉妹に対して、メイド長は、自分の生活を自分の力によって改善しようとしない者は虫けらだといい切る。自分の人生を外部に依存する行為は、そのひとの「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけの行為であって、「ただ助けてくれ!という者」、「具体的に戦う方法を見いだせない者」は虫けらであり奴隷であるに過ぎないのだと。

 酷烈きわまりないいい方だが、これがメイド姉の思索の原点となり、その後の物語の始まりとなっている。そしてのちに勇者に再会したとき、メイド姉は「わたしは勇者になります」というのだ。英雄になりたいのではない、ただ「勇者の苦しみがほしい」のだと。

 それはつまり勇者と対等な立場に立ちたいということだ。英雄だけがひとり苦しむのはおかしいという宣言である。ここにあるものは「だれかに責任を投げてはいけない。世界を成り立たせる苦しみをシェアしない人間は人間ではない」という思想だ。

 これこそ「英雄譚の解体」であり、「脱英雄譚の物語」なのだ。このドラマトゥルギーは、日本のエンターテインメントでは明示的に見たことがない、とペトロニウスさんは語る。

 それでは、メイド姉的なキャラクターが登場することがない場合、「英雄譚」はどこまで行くのか。それは『コードギアス 反逆のルルーシュ』や『ヴァンパイア十字界』、そして『ファイブスター物語』に見ることができる。

 これらの物語で主人公は自ら悪の象徴となり、世界の憎しみを一身に引き受けることで解決する。自らの命を代償として差し出すことによって解決困難な問題を解決しようとするのだ。しかし、これはどこまで行ってもたったひとりの英雄が世界を救うという物語構造である。いままでの物語ではこれが限界だった、といえる。

 メイド姉こそが、その限界を乗り越えるキャラクターであった。その背景にあるものは人類に対する肯定的信念。しかし彼女が人類というマクロの抽象的観念を信じることができたのは、おいしいご飯とあたたかい毛布で生きる歓びを直接的に体感しているメイド妹がいたからだ。勇者に育ての親の大賢者がいたように。

 勇者もメイド姉も、それぞれのやり方で人類を救おうとする。しかし、この行動は実は大きな問題意識がワンセットになっている。「人類はほんとうに救うに値するのか?」という問題である。

 永井豪の『デビルマン』では、主人公の不動明は人間の邪悪さに絶望してかれらを亡ぼした。近作では、神山健治監督の『東のエデン』では、主人公は自分が救おうとする大衆に裏切られ記憶を捨てた。いったん「人々は救うに値する存在なのか?」と問いかけたなら、どうしても「否」という答えが出てくるものなのである。ひとの性は悪、救済に値せず、と。

 だからそもそも初めから人類などというマクロスケールの存在を見てはいけないのだ。ひとは人々の善性を、民衆や人類といったレベルを見ても体感できない。その意味で『まおゆう』の構造はきわめて美しいシンメトリーにできている。

 この世界の秩序を飛び越えて世界を改革しようとするマクロ視点のキャラクターには、必ず伴侶となって「いまある世界の素晴らしさ」を体感できるキャラクターが対置されている。勇者も、メイド姉も決して孤独ではないのだ。だからこそ物語は「めでたしめでたし」のハッピーエンドへと向かってゆく。

 ここまで読んでいただけたなら、『まおゆう』が「善悪二元論を超克し、世界を救おうという英雄たちの物語(英雄譚)」と「その物語の構造をメタ的に解体しすべてのひとで責任を背負おうという物語(脱英雄譚)」を並立させていることがおわかりになったかと思う。これこそ『まおゆう』の凄みである。

 しかし、「すべてのひとが勇者になる」というメイド姉の方法論にはひとつの問題がある、と最後になってペトロニウスさんは問題提起している。それは、その方法論がある種のエリーティズムであり、しょせん人間はそれほど賢くも偉くもなれはしないということはあきらかだという問題だ。

 それは歴史が証明している。この問題を次なる物語はどのように解決していくのか? そう問うて、「次世代の物語」に期待するかたちでペトロニウスさんの記事は終わっている。

 もとが長大な記事なので、まとめ直すだけでもずいぶん長くなってしまった。結局、ただまとめあげるだけに終わってしまった気もするが、最後にぼくの意見を述べておきたい。

 このブロマガを過去から読みつづけている読者なら、かれがいう問題がぼくが「「正義は伝播せず、悪意だけが伝わってゆく」神山健治監督の絶望との戦い。」(http://ch.nicovideo.jp/article/ar15426)といった記事で取り上げた問題と共通していることがおわかりになるだろう。

 「英雄を孤立させてはならない」「すべてのひとが責任をもって立ち上がるべきなのだ」というところまではもはやあきらかである。しかし「正義は伝播せず、悪意だけが伝わってゆく」という問題がそこに立ちふさがる。

 人間は、人類は、そこまで聡明になれるものなのかという問い、そして決してそうはなれないだろうという答え。これは現代日本がリアルタイムに抱えている問題である。何しろ、何も責任を負わず、「名もなき民衆」として英雄を攻撃していたほうが楽なのだ。

 メイド姉のような人物はしょせん特異な例外であるに過ぎず、大半のひとは「勇者をいじめる民衆」に、「ただ救いを求めるだけの人々」に、つまりメイド長がいうところの「虫けら」にとどまるのではないか? ぼくはそう思う。

 そして、せめて自分自身は責任をもって少しでも世界を良くしていきたいと思うのだ。このブログは、きわめてささやかではあるが、そのための手段である。

 そして『まおゆう』でメイド姉の信念を見たひとは「自分も虫けらでいてはいけない」と思うのではないか。それが物語の影響力であり、それがあるからこそ物語は素晴らしい。

 いったい「次なる世代の物語」がいかにして『まおゆう』を乗り越えていくのか、ぼくもまた期待することにしてこの長い記事を閉じることにしたい。最後までお読みいただきありがとうございました。