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     10

 九十九(つくも)の見ている前で、久鬼が静かになっていった。
 騒いでいた顎(あぎと)たちの声がおさまってゆき、猫が喉を鳴らすような、低い唸り声のような、甘えるような、そういう声を発するようになった。
 獣毛が抜け落ちてゆく。
 久鬼の全身から生えていたものが、ゆっくりと、身体の中に消えてゆく。
 消えぬものも、あったが、それはまた別のものになってゆく。
 それらが、背から生えた、一本ずつの青黒い腕となってゆく。
 幾つかあった顔が、久鬼の顔の周囲に集まってゆく。
 どこかで、見たことがある――
 九十九はそう思った。
 顔が、幾つかある仏像。
 腕が何本もある尊神。
 獣のような、牙を生やした神。
 不動明王?
 大威徳明王、ヤマーンタカ?
 久鬼は、そのような姿となった。
 巫炎(ふえん)の翼が、ばさりと振られた。
 久鬼の翼が、ばさりと動く。
 ふたりの身体が、ふわりと草の上に浮きあがった。
 ゆっくりと、ふたりの身体が、抱きあうようにして浮きあがってゆく。
 上へ。
 風の中へ。
 月光の中へ。
「久鬼……」
 すでに、ふたりの身体は、周囲の梢よりも高くなっていた。
 ふたりの向こうに、月があった。
 ふたりは、もう、風の中にいる。
 ふたりは、もう、月光の中にいる。
 ふたりの身体が、移動してゆく。
 自らの意志でそうしているのか、風に流されているのか。
 その時、背後に人の気配があった。
「ここか――」
 声がした。
 振り返ると、草を分けて、宇名月典善(うなづきてんぜん)がこちらへ向かって歩いてくるところであった。
 その後ろに、菊地(きくち)がいて、さらに銃を持った男たちが続いていた。
 すでに、宇名月典善の眼は、草の上の肉塊のようなものを眼にしている。
「どうした。何があった!?」
 問うた典善の視線が、上に向けられた。
「あそこだ!」
 天に浮いた巫炎と久鬼の身体が、風に流されるようにして、梢の向こうへ消えてゆくところであった。
「追うぞ――」
 典善が、すぐに疾り出した。
 話を交す間もない。
「事情は、後で聞く――」
 背中越しに、典善が言った。
 一瞬、九十九と菊地の眼が合っていた。
 が、言葉は交さない。
 菊地はすぐに、典善の後を追って、銃を持った男たちと共に、森の中へ消えた。
 気がついてみれば、つい今までそこにいたはずの、ツオギェルの姿もまた消えていた。

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画/ケースワベ



初出 「一冊の本 2013年11月号」朝日新聞出版発行

■電子書籍を配信中
ニコニコ静画(書籍)/「キマイラ」
Amazon
Kobo
iTunes Store

■キマイラ1~9巻(ソノラマノベルス版)も好評発売中
 http://www.amazon.co.jp/dp/4022738308/

 啖(くら)えだと?
 啖えだと?
 いいだろう、啖ってやろう。
 おれは、噛みついた。
 そいつの身体に牙をたててやった。
 ぞぶり、
 肉を噛みちぎってやった。
 生あたたかい血の味が、口の中に広がる。
 なつかしい味だ。
 美味(うま)い。
 呑み込む。
 食道を通って、胃の中へ。
 どこにある胃か。
 すでに、おれの身体から生えたいくつもの顎が、そいつの胸や、尻や、腕の肉を喰っている。
 それを呑み込み、消化してゆく。
 体内に、その血が溶けてゆくのがわかる。
 もう一度――
 左肩の肉を、齧(かじ)りとる。
 なんという、不思議な味か。
 おれの血が、そいつの血と混ざりあっている。
 溶けあっている。
 三度目――
 それは、できなかった。
 おれは、動きを止めていた。
 なんということだろう、おれは、思い出している。
 そいつ――こいつのことを。
 こいつのことを、おれは知っている。
 この味を、おれは知っている。
 こいつの血と自分の血が混ざりあってゆくのにつれて、何かが急速に萎(な)えてゆくのがわかった。
 天に向かって、激しく屹立(きつりつ)していたものがゆっくりと、その硬度を減じてゆく。
 なんだ!?
 どうしたのだ。
 おれの身に、何が起こっているのか。
 こいつの両手が、おれの身体から離れ、おれの両手首を握った。
 あらがおうとしたのは、一瞬だった。
 そいつの力のままに、おれは、両腕を頭の上に持ちあげられてゆく。
「掌を合わせるんだ」
 おれは、いやいやをしようとした。
 しかし、両手を開き、おれは、おれの頭の上で、掌を合わせていた。
「呼吸を――」
 そいつは言った。
 すう、
 はあ、
 と、そいつが呼吸をする。
 その呼吸に、おれの呼吸が合ってゆく。
「気をためろ。ためて、両掌の間に念玉(ねんぎよく)を作るのだ……」
 念玉?
「念玉だ」
 知っている。
 どこかで、それをやらされたはずだ。
 つい、このあいだ。
 ニョンパ?
 だれから教えられたのだったっけ。
 どこだろう。
 いつだろう。
 どこでもいい。
 いつでもいい。
 念玉を、おれは作った。
「それで、押さえるんだ。その念玉と、他の六つのチャクラを合わせて、鬼骨(きこつ)の力を押さえるんだ」
 押さえる?
 どうすればいいんだ。
「できるさ」
 おまえはできる。
 おれは、それをやった。
 肉の中であれほど猛っていたものが、ふいに、咆吼(ほうこう)するのをやめた。
 歯を軋(きし)らせるのをやめた。
 獣が、静かになっていった。

 ひゅう……

 と、久鬼(くき)が鳴いた。

 あるるるるるる…………
 あるるるるるる…………



初出 「一冊の本 2013年11月号」朝日新聞出版発行

■電子書籍を配信中
ニコニコ静画(書籍)/「キマイラ」
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■キマイラ1~9巻(ソノラマノベルス版)も好評発売中
 http://www.amazon.co.jp/dp/4022738308/
     9

 そいつは、見たことのある顔をしていた。
 森の中から、ふたりで、ずっとおれに話しかけてきた、あの声を発していたやつらのかたわれだ。
 説教師(マニパ)ツオギェル――
 そう名のっていたっけ。
 そいつが、話しかけてくるのである。
 もう、やめろ――と。
 もう、いいではないかと。
 なんだか、うるさい。
 なんだか、わずらわしい。
 大きなお世話ではないか。
 こんなに、自分は今、満ち足りていて、しかも気持ちがいいのに。
 どうして、これをやめねばならないのか。
 そうだ。
 こんなに、幸せなのに……
 だが、妙に不安になる。
 おまえは、どうして、そんな哀しそうな顔をするのだ。
 さっきの、二本足の大きな漢(おとこ)も、そうだ。
 哀しそうな顔で、おれを見ていた。
 そんな眼で、見られたくない。
 そんなに哀しい眼で、おれを見るんじゃない。
 哀れに思われたり、可哀そうに思われたりするなら、怖がられた方が、まだマシではないか。
 恐れられた方がいい。
 独りでもいい。
 独りというのは、もともと、よく研がれた薄い刃物の上に、素足で立つようなものだ。
 いつ、バランスが崩れて、自分の足を傷つけてしまうかわからない。
 それでもいいのだ。
 哀れな人間でいるより、怖れられる獣でいることの方が、おれはいいのだ。
 あんまり、そこをうるさく言われると、
 ほら――
 また、背骨が曲がる。
 ぎしっ、
 みしっ、
 そういう音が、耳に響く。
 自分の骨が、曲がる音だ。
 変形(へんぎよう)してゆく音だ。
 ふふん、
 あんまり、うるさいことを言うのなら、もう一度、また、あの獣になって、おまえらみんな、喰ってやろうか。
 その時、もうひとりのやつが出てきて、服を脱ぎはじめたのだ。
 何だろう。
 何をする気だろう。
 額から、二本の角まで伸ばしている。
 ふわっ、
 と、そいつが、月の光の中に浮きあがった。
「麗……」
 と、そいつの声が聴こえた。
 麗?
 何のことだ。
 人の名前か。
 その麗というのは、このおれの名か。
 宙に浮いたそいつは、ゆっくりと、おれの眼の前に舞いおりてきた。
 半分、獣の顔をしている。
 しかし、なんとも痛ましい眼で、おれを見るのだ、そいつは。
 気にいらない。
 さざ波のように、怒りが広がりかけたが、それがおさまったのは、そいつの顔が妙になつかしかったからだ。
 こんな面をしているのに、どこか、遠い昔、自分はこの顔の人間を知っていたのではなかったか。
 そのことを考えると、じんわりとした温かみが、身体の中に満ちてくるようだった。
「息子よ……」
 と、そいつは言った。
 息子!?
 何だ、息子というのは。
 おれが、おまえの子供だというのか。
 その時、ふいに、おれの身体は、そいつに抱きつかれていた。
 きえええ……
 ぎいいい……
 おれの身体から生えているものたちが反応し、そいつに噛みついた。
 肉を噛みちぎり、啖(くら)う。
「かまわん、麗……」
 と、そいつは言った。
「息子よ、おれを啖え」
 と。




初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行

■電子書籍を配信中
ニコニコ静画(書籍)/「キマイラ」
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■キマイラ1~9巻(ソノラマノベルス版)も好評発売中
 http://www.amazon.co.jp/dp/4022738308/
キマイラ鬼骨変

待望の新章「鬼骨変」がニコニコで連載開始! ⼰の内に「獣」を秘めた⼆⼈の⻘年を描いた、作家・夢枕獏の“⽣涯⼩説”。 1982 年に朝日ソノラマから第1巻「幻獣少年キマイラ」が刊⾏されてから 31 年、これまでに別巻を含めて 18 巻(ソノラマノベルス版〈朝日新聞出版刊〉は本編 9 巻、別巻1 巻)が発売されている。

著者イメージ

夢枕獏

作家、1951 年 1 月 1 日、神奈川県⽣まれ。 東海大学文学部日本文学科卒。 1977 年に作家デビュー。 以後、『キマイラ』『サイコダイバー』『闇狩り師』『餓狼伝』『大帝の剣』『陰陽師』などのシリーズ作品を発表。 映画化された作品に『陰陽師』『陰陽師 2』(東宝)、『大帝の剣』(東映)などがある。

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