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キマイラ鬼骨変 一章 獣王の贄(にえ) 8 (6)
巫炎にとっては、あるいは、九十九や吐月は、敵側の人間と見られてもしかたのない関係にあった。
久鬼玄造(くきげんぞう)が、巫炎を保冷車の中に閉じ込め、九十九も吐月も、その久鬼玄造と一緒にこの現場に駆けつけているのである。
それにしても、どうして、巫炎はあの保冷車の中から抜け出すことができたのか。
それが、九十九には不思議であった。
おそらく、今、キマイラ化した久鬼の前に立っている僧衣の男が、巫炎を助けたのではないかと、九十九は思う。
しかし、それを訊ねている時間は、むろん、ない。
ツオギェルは、久鬼の前に立って、しきりと身振り手振りで、何やら話しかけているようであった。
ツオギェルの口が開く。
声は聴こえない。
久鬼の口が開く。
声は聴こえない。
久鬼は、もどかしそうに、身をよじる。
そして、久鬼は、時おり、九十九にも聴こえる高い声で叫ぶ。
それに対して、ツオギェルは、たびたび、自分の両手を合わせ、それを自分の頭上へ持ってゆくという動作をしてみせた。
どうやら、ツオギェルは、自分と同じその動作を、久鬼にやってみろと言っているらしかった。
それを、久鬼が理解していないのか、そうではなく拒否しているのか――その動作をいやがっているようでもあった。
話をしている間に、だんだん、久鬼の感情が、昂ぶってきているようにも、九十九には思えた。
「巫炎さん――」
九十九は、巫炎に言った。
「今、久鬼玄造と宇名月典善(うなづきてんぜん)、それから銃を持った人間たちが、この森の中へ散って、久鬼を捜しています」
一瞬、久鬼玄造の顔が、脳裏に浮かんだ。
これは、久鬼玄造を裏切ることになるのだろうか。
そういう思いが、よぎったのだ。
その思いを、九十九は打ち消した。
冷静に考えてみれば――いや、直感的なところで言えば、今の状態の久鬼は、この僧衣の男と、巫炎の手にゆだねる方がよいのではないか。
それが、この場に居合わせた自分の務めであるような気がした。
「それは、おれも気になっていた……」
巫炎は、九十九にそう言ってから、ツオギェルの背へ向かって、
「おれがやろう」
声をかけた。
ツオギェルが振り返る。
「だいじょうぶですか?」
「やるしかない。台湾では、コントロールが利かず、たいへんなことになったが、今は違う。もしも、おれがまた、暴走しはじめるようなことがあったら、なんとか、おれを殺してくれ――」
言いながら、巫炎は、着ていた上着とTシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になっていた。
「このおれでなければ、あれは止められない――」
言い終えぬうちに、
めりっ、
と、額から、角が短く突き出ていた。
二本。
めりっ、
めりっ、
と、その角が、伸びてゆく。
バットで、背をおもいきり叩かれたように、
ごつん、
という音と共に、巫炎はのけぞっていた。
背骨が、ごつん、ごつりと、音をたてて変形してゆき、曲がってゆくのである。
肩胛骨もまた、変形が始まっていた。
肩胛骨が、膨らんでいるのである。
肉と皮を突き破って、肩胛骨が外へ飛び出してきたのである。
その、突き破ってきたものが、成長し、伸びてゆくのである。
それは、翼であった。
しかも、その翼は、黄金色をしていた。
身体が、膨らむ。
背骨が、曲がる。
ぞろり、
ぞろり、
と、これもまた黄金色の体毛が上半身に伸びてくる。
そこで、獣化は止まった。
半神半獣――
身体が膨らんだとはいえ、新しい食物を体内に取り込んでいないため、まだ、久鬼よりは、ふたまわりほど小さい。
しばらく前、血と肉を大量に吐き出したとはいえ、まだ、久鬼の方が、その身体が大きかった。
巫炎が、黄金の翼を振った。
ふわり、
と、その身体が、月光の中に浮きあがっていた。
画/卜部ミチル初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行
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キマイラ鬼骨変 一章 獣王の贄(にえ) 8 (5)
しかし、久鬼は、そこに立ったが、すぐには動かなかった。
久鬼の本体――人間の久鬼の顔が、半分、もとにもどっていた。
吊りあがっていた眼尻の角度がわずかに緩やかになっている。
久鬼は、不思議そうな顔をしていた。
今、自分に何が起こったのか、それがわからないという顔だ。
九十九も、久鬼を見つめながら、立ちあがった。
気という力は、もとより物理力ではない。
物理力ではないが、今のような放ち方をすれば、体力は消耗する。
ゆるやかに、全身の細胞に、力がもどってくる。
「大丈夫です……」
九十九は、吐月の横に並んだ。
雲斎に救われた。
その思いがある。
石との対話がなかったら、自分は死んでいたところだ。
しかし、そのいったんは永らえた生命(いのち)も、すぐにまたキマイラ化した久鬼の前にさらされることになる。
そう思った時、久鬼の表情に、変化が起こった。
久鬼の眸(め)が、遠くを見つめたのだ。
天上に輝く月よりもさらに彼方にあるものを探すように。
その双眸(そうぼう)は、次に、地上へ向けられた。
その視線が、動く。
九十九の上を動き、吐月の上を動き、さらに森の奥へとその視線が動いてゆく。九十九や吐月のことを、もう、久鬼は忘れてしまったようであった。久鬼の興味は、何か別のものに移ってしまったかのようであった。
久鬼の口が開いた。
その口の中で、舌が動き、唇が閉じられたり開かれたりする。
何か声を発しているらしいが、その声が聴こえない。
と――
動いていた久鬼の視線が止まった。
その視線は、九十九と吐月の立つ、すぐ左側の森の奥に向けられた。
そこから、ふたりの男が出てきた。
濃い、小豆色の僧衣を身に纏(まと)った男――狂仏(ニヨンパ)ツオギェルと、そして、巫炎(ふえん)であった。巫炎は、削ぎ落とされたような頬をしていた。
髪が長く、双眸が怖いくらいに光っている。
九十九は、ひと目見て、それが巫炎であるとわかった。
貌(かお)が、久鬼と、大鳳に似ている。
しかし――
巫炎は、しばらく前、銃で撃たれたのではなかったか。
完全にキマイラ化していない状態で、銃弾を受けた時のダメージは大きい。
その時、今回、久鬼が受けたほどではないにしろ、麻酔弾を打ち込まれているはずであった。
なんという肉体の回復力であることか。
「九十九くんか……」
巫炎は、足を止めて、そう言った。
巫炎は、すでに、円空山で、真壁雲斎と出会っている。
九十九も、そのおりの話は雲斎から耳にしている。
一九〇センチを軽く越えて、二メートルに迫ろうとする九十九の巨体を見て、すぐに誰であるかわかったのであろう。
巫炎は、吐月をさらりと見やったが、今は、巫炎も吐月と言葉を交わしているゆとりはなかった。
「はい」
と、うなずいた九十九に、
「ここは、我々にまかせてもらいたい」
巫炎は言った。
巫炎は、久鬼と大鳳の実の父である。その人間にこう言われて、まかせないわけにはいかない。いや、まかせることに、九十九は異存はない。
九十九が、吐月に眼をやると、
「九十九くん、その方がいい」
九十九の考えを、肯定した。
「お願いします」
九十九は、巫炎に言った。初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行
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キマイラ鬼骨変 一章 獣王の贄(にえ) 8 (4)
「九十九くん……」
吐月(とげつ)が、何ごとかを察したように、一歩、退がる。
吐月に声をかけてはいられない。
今やろうとしていることに、全神経、全細胞、それこそ髪の毛一本ずつまで、使って集中しなければならない。
肉体が、別のものに化してゆくようだ。
大地になる。
地球になる。
重力になる。
“石”をやっていてよかった。
雲斎(うんさい)に言われて、円空山で、石を割ろうとした。
巨大な石だ。
とても割れそうになかった。
かわりに、九十九は、石を見つめた。
石を見つめながら、大地と対話し、己れ自身と対話をした。
あの体験が、今、自分がやっているこのことを可能にしているのだ。
全身を、熱い、高温の気の塊(かたま)りと化すこと。
しかも、わずかな時間――ふた呼吸で。
寸指波(すんしは)を全身で打つ――その感覚だ。
両足を開く。
腰を落とす。
両手を拳に握って、腕を両脇にたたむ。
これが、どの程度、今の久鬼に効果があるのかわからない。
効果がなければ、その先にあるのは死であろう。
が、考えない。
死を考えない。
生を考えない。
ただ、今の自分にできることのみに集中する。
力で、敵うわけがない。
闘っても、暴風に巻き込まれた木の葉のように、あっという間に自分はもみくちゃにされてしまうであろう。
どういう武器も、今、身に帯びてはいないのだ。
持っているのは、ただ、自分自身だ。
ただ、自分の肉体だ。
大鳳(おおとり)の顔が浮かんだ。
織部深雪(おりべみゆき)の顔が浮かんだ。
いずれも、どれも、これも、それも、わずかな一瞬の間に脳裏に浮かんだ思考の断片だ。
動いた。
久鬼が。
あひいる!
叫んだ。
跳んだ。
なんと美しい。
眼のくらむような光景だ。
コオオオオオ……
息を吐く。
久鬼が迫って来る。
もう、眼の前だ。
いまだ。
「哈(は)ああっ!!」
溜めていた気を、放つ。
全身から。
両掌を、前に突き出す。
微細な、気の粒子――
それをひと粒も残さない。
気を当てる――これは、石などの無機物には、さしたる効果はない。
しかし、相手が、生体である場合は別だ。
生きたもの、さらに言えば、気について修行を積んだ者、気のわかるものには、効果が倍増する。
ありったけの精気が、全て出ていった。
自分の肉体が、消えた。
自分に向かって、疾(はし)ってきた久鬼が、大きく後方に飛んでいた。
地に転がった。
全身を、巨大な見えないバットのフルスイングで打たれたように、飛ばされたのだ。
両掌を突き出した格好のまま、九十九は、久鬼を見た。
むくり、
と、久鬼が、動く。
むくり、
むくり、
と、久鬼が起きあがってくる。
消えていた、自分の肉体の感覚が、九十九にもどってきた。
その途端に、九十九は、膝をついていた。
全身の肉が、細胞が、おそろしい疲労感に包まれていた。
もう、動けない。
呼吸もできない。
背が、激しく上下する。
胸を膨らませて、新しい空気を呼吸しようとしているのだが、肺が動かないのだ。
やっと、動いた。
ひゅう、
喉が鳴った。
息を吸い、
がひゅう、
息を吐いた。
せわしく呼吸をしている間に、久鬼が起きあがってきた。
その時――
九十九の前に、出てきた者がいた。
九十九の後ろにいた吐月が、九十九と久鬼の間に立ったのだ。
「九十九くん、逃げなさい……」
吐月は言った。
「吐月さん……」
「あれが、わたしを襲っている間に、きみは逃げるのだ」
静かな、落ちついた声であった。
「ここで、ふたりで死ぬことはないよ」
画/卜部ミチル初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行
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