いろんな機会が人を新しい道に導く。新しいものを生み出していく。
今私は、藤原真理の「愛のコトバ/トロイメライ」をCDで聴いている。聴こうと思ったのは全くの偶然だ。
今年7月に、私は『朝鮮戦争の正体』を出した。『週刊金曜日8/21』が秋山晴康氏とのインタビュー記事を掲載してくれた。その表紙が「チェリスト・藤原真理さん“音楽というものは自分の文化を背景にして出てくるものなのです」とあった。藤原真理氏は第六回チャイコフスキー国際コンクール」第2位を受賞している。ODだって、シューマン作「トロイメライ」等外国の作曲家の曲である。そうした曲の演奏をしながら、“音楽というものは自分の文化を背景にして出てくるものなのです」との考えを持っている。何なんだろうと思った。
彼女が何を語っているか。「マスタークラスに東欧からも生徒が来るのですが、彼らはビブラートが強烈です。ソ連のある時期、自分が亡命したら親族が
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
わたしがまだ40代の頃だったかな、バッハの無伴奏
チェロ組曲のCDを全部集めてやろうとたくらみ、
それを実行したことがある。
当然、藤原真理氏のものもその中にあり、演奏を聴きながら
ジャケットをしげしげと眺めたことを思いだす。
なんときれいな人だろう、と。
もちろん有名なチェリストだから名前も顔もよく知ってはいたけど。
それでも改めて。
東欧のチェリストのビブラートが強烈とは知らなかった。
そもそもチェリストってこれでもかとビブラートをかけっぱなしの
気がする。
あれでよく左手が腱鞘炎にならないものだ。
チェロのコンサートを聞いた時の最初の感想がいつもそれ。
冷戦時代にはソ連東欧からはひっきりなしに優秀な演奏家が出ていた。
ソ連崩壊後はさっぱり。
わたしは資本の論理も良い面はあるとは思うが、国家、行政の
保護が必要な分野もあると思う。
中学時代、音楽鑑賞で、シューマンのピアノ協奏曲「トロイメライ(白昼夢)」の鑑賞文を書いた思い出がある。
どのような内容を書いたか思い出せないが、感情の起伏の大きさと音の長短に特に関心を抱いた思い出がある。
最近は、You Tubeで様々な歌を様々な歌い手が歌っており、同じ歌でも歌い手によって全く違ったイメージがわいてくる。
作詞家、作曲家、歌手は別々の役割を演じており、最後は表現者である歌手の占める役割の大きさを痛感するが、作詞、作曲者の気持ちをどれだけ想像力を広げられたかが、聞く人の心に共感を得られるかにかかっているのでしょう。
「朝鮮戦争の正体」は購入したが、好評のご様子、当然でしょうね。今までの歴史を膨大な資料から得られ、無心というか特定の国の立場をとらず、得られた資料を先生の新しい視点で、独創性を発揮しまとめられているので、大変面白い。増刷が続くことを願っています。
それと、愚か者は指差した先でなく指を見るなんて
ことわざが中国にあるとは。
塞翁が馬、がことわざの最高傑作だと思っていたが
「中国」にはいろいろありますね。
うちの猫がまさしくそう。
猫だとそこがまたかわいかったりするのだけど。
「音楽は、非ヨーロッパ人には踏み込みえない領域で(中略)バッハの音楽はドイツ人音楽家にしか演奏できない」(「ピアノの巨人 豊増昇」)と見做された時代もあったらしいが、果たして「すっかり過去のこと」なのか。
小澤征爾氏のドキュメンタリー(1985)で久々に再会したヨーヨー・マ氏と次のやり取りがあった-
「議論したね 東洋人に西洋音楽は可能かって」
「もちろん可能ですよ。音楽を深く知りたいという気持ちと才能さえあれば。僕の家族がいい例だ。典型的東洋人ですよ。僕自身 日本に行ったことがあるけど 日本人の行動様式は よく理解できる。個性より協調性が優先する。才能ある者はつらい。だが 一たび東洋を出ると自己を主張しなければならない。東洋では口をつぐむしかないが・・・両文化の違いは尊重したい」
「できるかい?僕にとっては重大問題だ...カメラ止めてよ」
事はクラシックに限らない。何処の誰が何処のどんな音楽を演ろうと当人の勝手と思う。しかし、自分のルーツと無関係の音楽を演ることに思い巡らすことは「目覚めた」プロの音楽家ならば今尚よくあることでないか。否応なしにアイデンティティに関わってくるからだ。時々見かける英語がペラペラでも中身カラッポのような人間には解らない話ではある。
本家の単なる猿真似に終わらない音楽を如何に創るか━ホンモノの音楽家の道はつらい。
孫崎様、ツイートへの採り上げ恐縮です。件のドキュメンタリー番組、YouTubeでも見ることができます。
「ドキュメンタリー『OZAWA』/ DOCUMENTARY "OZAWA" (1985)」
https://youtu.be/X3OiEdS5-9Y
ご参考まで。
崔善愛って誰だろう、遠い記憶の隅にあるような、と思い
ウィキペディアで調べてみた。
さいぜんあいではヒットせずチェソンエでもう一度やってみると、
出てきた、80年代に大ニュースとなった指紋押捺拒否のあの人。
そうだったのか。
今はピアニントでさまざまな社会運動もやっている。
週刊金曜日でのしごとも...
ご活躍でなにより。
>>4
ピアノの巨人豊増昇さんとやらのおっしゃったことはただの
白人コンプレックスが言わせたくだらない言葉です。
非白人が西洋音楽の演奏家として世界のコンサート会場に
出始めたのは小澤征爾が先駆けかな、それにインドのズービン・
メータ。
わたしか大学生の頃だったか。
日本人のピアニスト中村紘子など海外のコンクールで活躍する
演奏家が続々出てき始めたのです。
当時は非白人はほとんど日本人。
残念ながらなかなかトップまでは行けません。
そこに出てきたのが韓国人女流バイオリニスト、チョン・キョンファ。
彼女は世界の楽壇を席巻してしまいました。
そこでNHK交響楽団が招聘しようとしたのですが、
なんとエライさんが拒否。
正確になんといったか忘れましたが要するに、韓国人の
まがい物の西洋音楽家を、本物の西洋音楽を追求する
NHK交響楽団と共演させるのはいかがなものか、だったの
だそうです。
彼氏のアタマの中では西洋音楽は白人と名誉白人の日本人だけのもの
であって欲しいとの願望があったのでしょう。
これはわたしの経験ではなく聞いた話なのですが、
ヨーロッパのピアノコンクールに黒人ピアニストが出場
した時、日本人の評論家がそれを見て、違和感がある、と
堂々と臆面もなく音楽雑誌に書いたそうです。
なにが言いたいのかというと、非白人西洋音楽家がちゃんと
やれるかというのは日本人で、それは白人コンプレックスから
きている。
返す刀で日本人以外の非白人音楽家を差別する。
なんたってこっちは名誉白人ですから。
ところでピアノの巨人て本当に巨人なのですか。
わたしは初めて聞く名でした。
せいぜい、阪神くらいかと。
韓国女流ピアニストの名前をあげ、豊増氏を貶めようとするのは、日本人として悪意を感じずにはおれない。
「ピアニストの巨人豊増昇さんとやらのおっしゃたことはただの白人コンプレックスが言わせた言葉でしかない。」
全くの誤解もはなはだしい。アマゾンで購入できるから「ピアノの巨人豊増昇、小澤征爾、小沢幹雄共著」を読んでほしい。
書物の紹介として「ピアニストの豊増昇は第二次大戦前から活躍、ドイツでも各地で演奏会を開き、そのバッハ、ベートーベンの正当な解釈と演奏は、ドイツ人を驚嘆させた。また、日本人としての初めてのベルリンフィルと共演した。戦後と現代の日本で活躍している、活躍したピアニストの多くが豊島昇の薫陶を受けている。
少年時代の小澤征爾氏がラグビーで骨折しピアノを諦めようとした時、「指揮者という道があるよ」といって新しい道を開いてくれたのは豊増昇だった。80歳を迎えた小澤征爾氏が心を込めて恩師に送った感謝の書である。
韓国びいきの人が韓国人の女流ピアニストが世界の楽団を席巻したとの比較論で、豊島昇氏を蔑んでいるのは、おかしな論理だ。日本人が日本人を評価する当たり前のことをくさして、韓国人は素晴らしいというのは論理的におかしい。
特に今回コメント者は、韓国人と比較して論じているのでないから、なおさらおかしなコメントでしかない。
>>8
バッハの音楽はドイツ人音楽家にしか演奏できない。
長きにわたって日本人西洋音楽家を苦しめた都市伝説、
(現在ではとっくにに否定されている)自虐史観を振りまいた
演奏家のアホな言説を批判すると理解できない激しいお怒り。
その都市伝説をくずかごに投げ込んだのはよりによって
韓国人演奏家だと書いたから?
もうちょっと大人になってください。
今では国際的に活躍する非白人演奏家はたくさんいます。
韓国人のみならず、日本人にも中国人にも。
でも、最初にその壁をうち破りトップにたどり着いたのは
チョンキョンファという韓国人女流バイオリニストでした。
わたし自身その都市伝説にかなり影響され、レコードラックは
白人演奏家のものばかりでしたから、(その時代のクラシックファンの
大抵がそうでした)チョンキョンファの登場以来日本人演奏家の
レコードも買い、演奏会にもいくようになりました。
本来あなたのような見識の人は豊増昇などというエセ音楽家の
タチの悪い言説は、自虐史観と否定しなくてはいけません。
韓国人演奏家の名前を出したのが気に入らなかったのはわかりますが
チョンキョンファは、弟の指揮者チョンミョンフンとともに
非白人に用意されたガラスの天井を最初に打ち破った非白人演奏家として
記憶されるべき存在です。
changeさんが気にいらなくとも。
それにしても、トロイメライをピアノ協奏曲と書く人が、かみさんから
家1軒分くらいはクラシックにつぎ込んだわね、としかられる
人間にその土俵でケンカを売ることは、わたしならしません。