ダン・ブラウンは世界的ベストセラー『天使と悪魔』『ダ・ヴィンチ・コード』書く。
主人公はいずれも、架空の人物、ハーバード大学のロバート・ラングドン教授である。
『ダ・ヴィンチ・コード』では「ルーヴル美術館の館内で館長の射殺体が発見された。身体はダ・ヴィンチによる「ウィトルウィウス的人体図」を模した形になっていた。パリで講演を行い、書店でサイン会を行っていたハーバード大学のロバート・ラングドン教授は、フランス警察のベズ・ファーシュ警部に呼び出され、宗教象徴学の専門家として捜査協力を求められる」が物語の幕開けである。主人公をハーバード大学教授としているのであるから、当然、著者はハーバード大学の内情に熟知していなければならず、主人公は同じく「宗教象徴学の専門家」であるから、「宗教象徴学」専門に詳しくならなければならない。実際「宗教象徴」への言及はふんだんに出てくる。
だから、私は、書き手はハーバード
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昨年1月のランド研究所のSamuel Charap “Avoiding a Long War - U.S. Policy and the Trajectory of the Russia-Ukraine Conflict”が一番興味深い論文で、今日の状態を正確に予測していたと思う。浅学ながら、ミヤシャイマーやスコット・リッター、ジェフリー、サックスも大いに参考にしている。ハーバードの医学部は現在では腐っていると思う。何故こうなったのか?結局は金か?
<東大卒は独創性とは関係ない>
確かにそうですね。HARKNESS METHODで教育された高校生がハーバード大とかに入って行くのは推薦制度があるからでしょうね。
でも大衆社会の中国や日本や韓国や台湾では日本の共通一次テストみたいな入試制度は不可欠ではないでしょうか。私の知り合いでハーバードMBAを持った男が大学院で教えることは弁護士と公認会計士をどう使うかだと。でも、大衆はまず食わねばならない。食うためには企業に務めか弁護士になるか会計士にならねばならない。その為には大学に行かねばならない。
独創性は大きな教育制度の流れの中から独創性に優れた変わり者が偶然に生まれるみたいなものに期待をかけるしかないように思えるのです。
> 新しい概念を追求する競争である。
発明/発見が科学/工学が進歩する原動力だとすれば、益々テクノロジー万能となった現代社会で上記「競争」が熾烈になるのも必然だ。人間というのは全く因果な生き物である。だが、0か1かにはならないが、生来「独創」に不向きな人間の方が多数派だろう。従って、全ての人間が係る競争に巻き込まれたら堪ったものでない。この競争も西側、特に米国の独創性に富んだエリート層が焚き付け続けてきたのでないか。そして、基本的には貿易で食べていくしかない日本も、別の選択肢を見出せない限り、この競争から逃れることはできまい。即ち、少なくとも日本のエリート層に独創性が備わっていることは「死活的に重要」な条件ということだ。これは既に80年代後半には言われていたことだ。言っていたのは概ね「独創的」な人々だったろう。それは日本社会では「異端」であり、結局それらの声は掻き消された。一方では、米国が日本を植民地支配し続けるためには、多くの日本人が独創性に富んだり、英語ペラペラになったりしては困る―そうして日本では「自ら考えない」人間を「優秀な人材」とし続け、とんまな英語教育も一向に改めないのでないか。
孫崎さんの娘さんが意志さえあれば、日本のシンクタンク、役所、大学で働ける環境にあるのか、外国のように博士に対する配慮が整っているのかという点で大きな疑問を持っている。
現状の制度を保持、維持していこうとすれば、現在の社会制度の基本を覚え習慣づけることが必要であり、教育も暗記が中心になるのでしょう。
社会の中で、AI,ロボットなどが活躍する時代になれば、役所の機能も窓口業務から、相談業務に切り替わっていくのでしょう。また、現在のシステムでは外国との業務連携ができず、国際的標準に合わせていかなければ生産性がネックになってしまう。
新しい時代を創造する思考が欠かせない。創造する時間短縮が極めて大切になり、意思決定がスムーズに行えないと他国との連携がスムーズに進まない。
上部から下部迄スムーズな連携が欠かせず、流れを的確に見て変更していかなければ全体のシステムが正常に機能しない。常に問題意識を持たなければ対処できない。
日本の長所であり短所でもあるが、物事の決定が全体責任の形をとるため、創造性が欠落し、問題が解決しないしスピードが上がらない。生産性の向上ができないというのが現状の姿なのでしょう。
>>5
孫崎さんの娘さんの文学博士の専門分野はいわゆる純文学ですから、日本のシンクタンク、役所は無理でしょうね。しかし、日本の大学では大いに働けるのではないでしょうか。
自然科学や工学、経済学分野で日本人が米国で貰った博士号は日本の大学では崇敬されてきているし、博士号に対する尊重の念は外国には劣らないと私は思います。東大の文学部なんか孫崎さんの娘さんにラブコールを送っているに違いありません。でも、孫崎さんの娘さんは米国の文学部の質の向上に情熱を向けられるのではないでしょうか。
採り上げ恐縮です。「グループとしてアイデアを探求し、話す勇気、聞く思いやり、理解する共感を育む...自ら考え、集団が考える訓練」―日本でも社員研修等ならば実施されていそうですが、格好だけ。職場に戻れば「旧日本軍」体質丸出しも今尚珍しくない気が致します。そんな「軍隊」組織の帰趨は指揮官次第であり、日本社会は「バカな大将、敵よりコワイ」に為す術なしでしょうか。
わたしはゆとり教育世代で、こどものころは親戚のおじさんに
ゆとりちゃんと呼ばれたりしていた。
そのころにもこの手の議論がよくあった。
「エクセターのハークネス法」のはなしではなく、もっと漠然と、
「米国の教育では討論を重視している」というようなはなしだったとおもう。
それを聞いてわたしは、数学を討論でどうやって学ぶのだ、とかおもったりしていた(※)。
※日本の中学高校レベルの数学のはなしである。
いま「エクセターのハークネス法」のはなしを聞いてやはり同じことをおもうが、一方で、たとえば今のガザ戦争の問題を教えるなどは、そういう教育が適しているだろうと想像する。ただし、うまくいかせるには、生徒の資質はもちろんだが、それ以上に教師の実力が重要だろう。生徒ひとりひとりの議論を聞きながらうまく気づきを与え、突拍子もない質問にも適切に答え、全体の方向性をそれとなく誘導してゆくというのは、なみたいていのことではない。
さらに想像するのは、「エクセターのハークネス法」は「既存の知識を理解する教育」と別に矛盾しない。生徒たちは、エクセターに入学する時点で、すでに同年代の生徒の2年も3年も先の知識を身につけているかもしれない。また、エクセターの後、推薦で大学にすすめば、多分あきれるほどの詰め込みが必要だろう。
そう考えてくると、「エクセターのハークネス法」は、「既存の知識を理解する教育」を不要だと考えるべき事例だというよりも、適切に議論討論をおこなうことの重要性を認識すべき事例だと考えるべきではないかと思う。
さらにいうと、これは結局米国のエリート教育の伝統に根ざすものであり、米国では実際にうまくいっているのだろうが、仮に日本に導入してうまくいくかはまた別の問題だとおもうのだが、そこまで展開するのは想像がすぎるのでやめておく。
私は長年サヨクをやってきたし、今もサヨクの末席を汚しているキブンでいる。
私にとっては、サヨクはB層ばかりの日本において、比較的自分の頭で考えている層と思っている。
だが、実を言うと、これまで出会ったサヨクの思考回路に疑問を持つことは、多々あった。
サヨクは基本的に、というか、私が思うに「原則論」とか、英雄主義、レジスタンスが好きな人種である。だから、現実を認めない、とか現実論を否定する傾向が強いように思う。
ウクライナみたいに間違っていても、レジスタンスと認定すれば、闇雲に応援する習性がある。その意味では、事実現実より、レジスタンスかどうかみたいな短絡思考。サヨクの陥穽である。そんな短絡思考は、ジブンの頭で考えていないのと同じだ。
私は労働組合役員として交渉を何回も担当したが、平場の会議において「現実」を無視した原則論しか言わない連中に辟易した。しかも、非現実論に煽られて、現実を無視した「突撃」しか言わないアホみたいな労組幹部もいた。
サヨクは、非現実的な原則論が好きだな、と冷ややかに眺めていた頃を思い出す。
私は勝算もなく「突撃」しか言わない幹部や、原則論しか言わない連中(先輩)を見るにつけ、あぁ、大事なのは「現実」だな、とそんなふうに考えるようになった。
現実を踏まえることは、ジブンの頭で考える大前提である。
私は「現実主義者」と影で言われていたらしいが、ジブンとしては、満更でもない。何故なら、現実を踏まえることが、ジブンの頭で考えることの大前提だと思うから。
ヒロイズム、レジスタンスより現実主義のほうが、私は大事だと考えている。だが、誤解のないように言うなら、私は第三者として戦争を煽るようなヒロイズムやレジスタンスの危険性を肝に銘じているだけである。レジスタンスを否定するわけではない。
私は、サヨク冒険主義や英雄主義を排し、現実主義サヨクでありたいと考えている。だから、ウクライナの早期敗北と停戦和平、ハマス・イスラエル戦争の即時停戦を願ってやまない。
>>8
りゃんさん、鋭い指摘ですね。
デベイトと数学、ミスマッチ。よく知りませんが、ビルゲイツはひきこもりに近かったと勝手に推測してます。
私が敢えて共産党の中国と天皇制の日本を大衆社会の国とひとくくりにしたのは階級がないからです。米国だって英国王家には絶対に頭が上がらない。黒人を事実上不可触選民扱いして恥じません。その実態はインド同様だとニューヨークタイムス元黒人記者だったジャーナリストが論考してます。
江戸時代の京都は都市国家だったと私は観てます。宮家はマロとか言われ、大らかです。信長に壊された石山本願寺は後の大坂の全身ですが、やはり京都と同じ都市国家だった。大衆社会そのものだったと考えてます。
今、私が注目しているのは天皇家が共通一次テストを受けずに東大に推薦で入れることが出来るかどうかです。