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<ビュロ菊だより>No.67「追悼D」
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<ビュロ菊だより>No.67「追悼D」

2015-05-06 06:00

     1995年。つまり丁度20年前にあなたは何をしていましたか?ワタシはPCすら持っていませんでした。PCを持っていなかった。携帯も持っていなかった。それだけで素晴らしい過去。それだけで、その分だけは間違いなくクール。世界中が。

     

     ワタシは32歳でした。それまでにも本当にいろいろな事が、少なくとも32年間分はあって、ワタシは、何年も流れ流れた果てに、音楽という本流に辿り着いて、やっとデビューが決まった年でした。

     

     今では「第一期スパンクハッピー」と呼ばれるバンドが、ワタシを生まれて始めて作詞家にしました。ワタシは自分からは何にも成らない。いや、成れないのかもしれない。バンドがデビューすることになって、作詞家がいない。メンバーでヴォーカリストだった原みどりさんは作詞をしていましたが、ワタシにはそれがリリックにもヴァースにも思えなかった。これじゃダメだ。

     

     なので自分でやる事にしました。ワタシは生まれて始めてノートとぺんてるのマジックを持ち歩くようになって、作詞を始めました。ノートに作詞を書き綴るなんて、髪の長いフォークシンガーがやる、身も凍るほど恥ずかしい行為だと思っていた。そしてその仕事は今でも続いています。

     

     鈴木博文、近田春男、安井かずみ等がワタシの神々で、それを越えなければいけない。越えるというのがおこがましいならば、神々に跪きつつ、自分の供物を捧げ、身も捧げ、託宣が降りて来るのを持ち、書き留めなければ。

     

     そして、いざ始めてみると、その事は、難事ではなかった。ちゃらいという意味ではない。スムースという事です。ワタシはいつもと同じ様に、自分では出来る訳が無いと思いながら作詞家になって、がんがん作詞をする様に成りました。

     

     デビュー作のミニアルバム「マイ・ネイム・イズ」、それに続く初のフルアルバム「フリークスマイル」は、サウンドや演奏も去ることながら、あくまでワタシ個人にとってみれば、自分が作詞家に成った。という事実のフレッシュさ、その瑞々しい悦びに満ちあふれています。

     

     しかし、その年、同時に、ワタシの喉元に異教徒が刃を突き詰めました。オウム真理教でもない、震災という自然の猛威でもない彼等は無言のまま言ったのです。

     

     <今は刺さない。いつか我々に跪くことになる。どこまでお前が羽を伸ばそうと、我々の事は無視する事は出来ない>

     

     生まれ変わったばかりのワタシに対し、異教徒達は不敵な笑みとともに去って行きました。少なくとも、ワタシの眼前からは。

     

     数歳だけ年下の彼等の名はBUDDHA BRANDといいました。当然のごとく本名で活動していたワタシや仲間達に対し、彼等はホーリーネイムを持っていました。

     

     NIPPSCQMASTERKEY、そしてDEV LARGEというネーミングのセンスは、ワタシを怯えさせました。彼等がいかつくて怖いという意味ではありません。恐れる人々をたしなめてもしょうがない。それよりも、ワタシには彼等が、とんでもないエリートの、エレガンスで不敵な天使の様に見えました。

     

     それは、同世代のワタシに全くない、しかし後の時代の方向性を完全にフィックスしてしまう強度に満ちていたからです。

     

     きっとこのネーミングセンスは、欧米に於ける、十二使徒を始めとした聖書の登場人物達の名の様に、世に満ちるであろう。

     

     自分が羽ばたいた瞬間に、自分を脅かす物があるというのは、本当に素晴らしく、豊かな事です。

     

     「人間発電所」を、ワタシは毎日聴いた。その強度に怯えながら。そして、パーカーのソロを、ショーターのソロを、ドルフィーのソロを全部暗記してしまう様に、NIPPSの、DEV LARGEのヴァースを完全に暗記してしまった。

     

     Fの直前には必ず♯F7が鳴る様に、ワタシは「LIKE A」の後には「御用牙」か「ラスタファリアン」か「銭湯の煙突」が続く様に、そして「YO」の後には「そして天まで飛ばそう」が鳴っていました。「イルでいる秘訣知ってる」というフレーズは、文字通り異教との経文として、「天にまします我らが父よ」等と並び、ワタシの脳からひとときも離れた事はありません。

     

     もう逃れ成られない。忘れる事が出来ない。からだの中に、異教徒の偶像である異物が埋め込まれた様な感覚。

     

     そのままワタシは、20年を過ごしました。またしても本当に、いろいろな事があった。しかし胎内に埋め込まれた異教徒の偶像は、ワタシを苦しめも、そして楽しませもしなかった。

     

     それはただ、禍々しく埋め込まれているだけで、どうにもならなかったし、どうしようもなかった。DCPRGを作っても、スパンクハッピーが第二期を迎えても、「デギュスタシオン・ア・ジャズ」を発表しても、「南米のエリザベステーラー」を発表しても。

     

     彼等がワタシに突きつけ、埋め込んだ物は、海外旅行者が楽しく、そして最低限の謹みと畏敬でもって接する、異教徒の宗教建築や音楽の様に、ワタシをハッピーな観光客にしてくれなかった。ロックミュージックなんてえものは、ワタシにとって、奈良の大仏とか、サンマルコ寺院とか、モスクとか、そういった、単に物珍しく、素晴らしい、由緒ある建物です。

     

     身体に埋め込まれたモノリスが光り出し、振動し出したのは、20年前には想像もできなかったYoutubeという不思議なフォームの中に、あの異教徒の子孫達が姿を現した事からです。

     

    SIMI LABという恐るべき子供達は、QNDyyPRIDEOMSBHi-specという、明らかに彼等のホーリーネームを引き継ぐ名を持っていたし、彼等のフロウの中、ヴァースの中には、チョコミントのアイスクリームに於ける、粉砕されたチョコレートの欠片の様に、異教徒の託宣が埋め込まれていました。

     

     お若い方には、20年越し、30年越しという実感、へたしたら、10年越しという実感もリアルでないかもしれない。

     

     ワタシは誰もいない深夜のバスルームの中で、20年間ものあいだずっと、自分の体内にあった異教徒のモノリスという異物を、手づかみで引きはがした。力道山が深夜の相撲部屋で髷を切った様に。

     

     祝福の出血が滝の様に噴き出し、ワタシは50歳にしてラッパーになる事にしました。

     

     山下洋輔という最初の神の従者となったワタシは、その後、自ら信仰する神々のほとんど全員と接見しました(ウエイン・ショーター氏とさえ!)。

     

     1982年までに100キロ近かったワタシは、「太っていたら似合う服というのは、この世に無い」という、1983年に上京し、半年で43キロになって、自動的に「どんな服でも似合う」という状態からアーバンライフを始めました。

     

     故人の命名の元となった、服飾文化のパラダイムシフトは、「変に上手く行ってしまった」ワタシの人生をすり抜けた、偉大な価値観です。この世に故人が生まれなかったら、日本語のヒップホップは、全然違う、想像もつかない姿だったかもしれない。

     

     故人の教団名を出すまでもなく、RIPなどとは言えません。故人とワタシは、異教徒同士だったが故に、3歳差のまま、とうとう直接会う事はありませんでした。しかしワタシは、彼等の子孫とともに、次の時代の音楽を作ろうとしています。ワタシにとって、最も偉大なる異教徒の1人であるDEV LARGE氏の魂は、恐らく、まだしばらく、ここにあります。

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