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【第155回 芥川賞 候補作】『あひる』今村夏子
2016-07-11 11:59
あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来はわたしは知らない。
前の飼い主は、父が働いていた頃の同僚で、新井さんという人だ。新井さんはわたしの家よりもまだ山奥に住んでいた。奥さんが病気で亡くなってからは、のりたまと二人暮らしをしていたのだが、隣りの県で暮らす息子さん一家と同居することが決まり、それでのりたまを手放すことになった。息子さんの家は庭も駐車場もない建売住宅だから、あひるは飼えないのだ。新井さんは、わたしの父にのりたまを託すことにした。
うちには広い庭があった。好都合なことに、ニワトリ小屋まであった。
とっくの昔にニワトリはいなくなっていて、小屋の中には錆びた農具が入れっぱなしになっていた。父はそういう必要のなくなったものを全部処分して、金網を新品に張り替え、壊れたカギも付け替えて -
【第155回 芥川賞 候補作】『短冊流し』高橋弘希
2016-07-11 11:59
綾音が熱を出したのは七月初旬のことだった。
その日、綾音は私と一緒に朝飯を食べていたが、頭が痛いと言い、茶碗の飯を半分ほど残した。綾音の手を握ってみると、少し熱を持っている。しかし体温計で計ってみると、三十六度八分の微熱しかない。やや下痢もあったので、念の為に保育園は休ませ、小児用バファリンを飲ませ、もう一度、床に就かせた。ピンクのパジャマ姿の綾音は、布団に入るとすぐに寝息を洩らし始めた。タオルケットから伸びる綾音の小さな手を、再び握ってみる。普段の綾音の体温とは、何かが違う。じわりとした温もりの中に、茨のような鋭い熱感が僅かに混ざっている。胸騒ぎを覚え、パジャマの襟ぐりから腋の下へ、体温計をもう一度入れる。一分間、私は綾音の二の腕を支えて、体温計が鳴るのを待った。綾音はもう深い寝息を洩らしていた。アラームが鳴る。綾音の熱は、やはり三十六度八分のままだった。
会社へ欠勤連絡をした -
【第155回 芥川賞 候補作】『ジニのパズル』崔実
2016-07-11 11:59
そこに、いない
その日も、いつもとなんら変わらない日だった。学校は、相変わらず残酷なところだ。
さっきまで受けていた生物学の授業では、また、ジョンという線の細い、透明の影を持った白人の男の子が突然泣き出して、テーブルの下に隠れた。それで床に倒れるようにして寝転がり、仰向けの体勢で、駄々をこねる赤ん坊みたいに泣き叫びながら床をばんばん叩いていた。前にもそんなことがあった。ジョンは突然、泣き出す子だった。彼の感受性は、普通の人よりもうんと高いのだ。だからその時は、教科書に載っていたウサギの解剖図でも見てしまって傷付いたのかもしれない。もしかしたらジョンは、世界一優しい子なのかもしれなかった。
だけど学校ってのは本当に残酷なところだ。いや、学校というよりは、この世界なのだと思うけど、授業はこの世界と同じように止まることなく進んだ。まるで、ジョンなんて存在していないように。
あれほど泣 -
【第155回 芥川賞 候補作】『コンビニ人間』村田沙耶香
2016-07-11 11:59
コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの声。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。カゴに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。
売り場のペットボトルが一つ売れ、代わりに奥にあるペットボトルがローラーで流れてくるカラララ、という小さい音に顔をあげる。冷えた飲み物を最後にとってレジに向かうお客が多いため、その音に反応して身体が勝手に動くのだ。ミネラルウォーターを手に持った女性客がまだレジに行かずにデザートを物色しているのを確認すると、手元に視線を戻す。
店内に散らばっている無数の音たちから情報を拾いながら、私の身体は納品されたばかりのおにぎりを並べている。朝のこの時間、売れるのはおにぎり、サンドイッチ、サラ -
【第155回 芥川賞 候補作】『美しい距離』山崎ナオコーラ
2016-07-11 11:59星が動いている。惑星の軌道は歪む。太陽も位置をずらす。宇宙の膨張によって、恒星も少しずつ移動しているのだ。宇宙は常に広がっていき、星と星との間はいつも離れ続ける。すべてのものが動いている。
動きは面白い。動きに焦点を合わせると、「ある」という感じがぼんやりしてくる。猫も電車も、輪郭がぼやける。存在しているというより、動いているという風に思えてくる。境目が周囲に溶けて、動きだけが浮かび上がる。
高架橋の上にあるカフェで、透明なグラスに入った緑色のジュースを黒いストローでしゅるしゅる吸い上げ、マスタードの利いたホットドッグをあむりと噛み切る。駅の改札から溢れ出てくる人々を見降ろす。動きに集中すると、顔がぼんやりする。顔や姿の造作が霞み、行動によって発散される熱だけが際立っていく。
特別快速が到着したのだろう。動きが活発になる。人々が動きの線を引いていく。改札から、待ち合わせ場所へ。ある
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