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記事 10件
  • 【第152回 芥川賞 候補作】『惑星』上田岳弘

    2015-01-07 12:00  
     Title〈Conclusion 2020〉
     From〈Yozoh.Uchigami〉 2014/4/7
     To〈Dr.Frederick.Carson〉
     幾つもの扉が叩かれる。東京代々木の先端医療を施す総合病院の、イスタンブールの壮麗な寺院脇にひっそり建つ朽ちかけたアパートの、あるいはカリフォルニア州サンノゼのメガベンチャー企業の社長室において。それはまぎれもない契機であるのだが、扉を叩く側も無自覚なことが多い。引き金に続く連鎖は、よりよきことへ向かうのが望ましいのだが、彼または彼女は手前の都合で扉を叩くのみだ。もちろん、あくまで比喩的な意味で。実際に拳を使って戸を叩く者もいるにはいるが、今は、まあ、コミュニケーションの手段が発達しているから、電話をかけることも、メールを送信することも、FacebookやTwitterでメッセージをアップすることもある。
     それは、塗装の剥げた鉄扉

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  • 【第152回 芥川賞 受賞作】『九年前の祈り』小野正嗣

    2015-01-07 11:59  

     渡辺ミツさんのところの息子さんが病気らしい。母がそう言うのが聞こえたとき、さっきから喋り続ける母を無視して携帯の画面を見るともなく眺めていた安藤さなえを包んだのは、柔らかい雨のような懐かしさだった。

    「みっちゃん姉!」とさなえはささやいた。
     病気という不穏な言葉にもかかわらず、そしていま彼女が置かれた見通しの決してよいとは言えない展望にもかかわらず、急に雲間から一筋の光が差し、「渡辺ミツ」という名がさなえを照らした。
     その優しい光のなかに、ひざまずいて祈る一人の初老の女性の姿が見えた。赤いリュックを背負った小柄なおばちゃん、みっちゃん姉が頭を垂れ、握り合わせた拳の上に額を乗せていた。いつまで祈るつもりなのだろう。なかなか起き上がろうとしない。そこは教会のなかだった。モントリオールの教会。ステンドガラスを通して落ちてくる、えも言われぬ色合いの流体のような不思議な光で満たされていた。

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  • 【第152回 芥川賞 候補作】『ヌエのいた家』小谷野敦

    2015-01-07 11:58  
    2

     ヌエは、私の父である。いや、あったと言うべきか。

     母は、六十七歳でがんが発見されて、一年で死んだ。発見された時は、もう手術はできず、築地のがんセンターへ通って抗がん剤治療を受けていたが、効かなかった。実家の隣りの町の病院に二ヶ月ほど入院したあと、私の東京のマンションのそばのホスピスに移した。十二月一日に死んだが、それから五年たった十二月六日に、ヌエが死んだ。

     ヌエは、母ががんセンターで治療をするのに、一度もついて行かず、家では母に「死んじまえ」などと暴言を吐くといったことがあって、私も弟も見限り、母がホスピスに入って一月ほどして、見舞いに来たいと言い出したのだが母は拒否した。母と私と妻とで話していて、あれは何ともおかしな人だ、ヌエのようだ、ということで、母も「ヌエ」と言うようになり、母が死んだ後、私と妻の間では「ヌエ」で通っていたのである。



     子供の頃、初めて家を離れて

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  • 【第152回 芥川賞 候補作】 『影媛』高尾長良

    2015-01-07 11:57  
     波波迦の木の葉が緩(ゆっくり)と揺れている。彼女は襲衣(おすい)を肩まで滑(すべ)し、爪立って黒葛(つづら)巻の細刀を波波迦の木の枝に当て、押し切った。
      宙に舞う糠の様な粉を払い退け、腰の帯に枝を挟み入れて彼女は手近の枝へと移った。
      直截な尿(ゆまり)の臭いが樹々の間を破る。柔(にこ)やかな尾が、逆しまへ樹を駆け上がる中途で、風をはらんで高く揚がったまま静止する。樹々の内を探る栗鼠の二粒の眼が疾くぴ、ぴと四方へ奔り動く。其の先に、灰色の線がついと宙を掻き乱し、其の風に煽られて羽撃(はたた)きながら枝に停まる。枝の縁に堅い鉤爪を食い入らせると、烏は頑丈な嘴を開け、一声啼き、光る翼を拡げて幾許(いくばく)か飛ぶと、再び枝に停まる。
      葉の間に青い衣がちらと見え、彼女は咄嗟に樹の後に身を隠した。物部(もののべ)の館を出て来てから何刻も経っているだろう。宮の舎人(とねり)等が布留川に沿

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  • 【第152回 芥川賞 候補作】 『指の骨』高橋弘希

    2015-01-07 11:56  
     黄色い街道がどこまでも伸びていた。  その道がどこへ繋がっているのか、私は知らない。サラモウアには繋がっていないのかもしれない。しかしいずれにせよ、我々はその道を歩くしかなかった。  尤も、私はもう歩くことを止めていた。街道沿いの、一本の欅に似た樹木の下に身を預けて、目の前を通り過ぎていく、虚ろな人々を眺めていた。人々は重い荷物でも背負うかのように、身体をやや前屈みにして、足の裏で、黄色い土を擦るようにして、ゆっくりと歩いていた。長い影を引き連れて。その影が、あるとき足首へと縮んでいく。人間のほうが、前方へと倒れているのだ。そして、ドサリ。影と人間が、重なり合う。人間はもう動かない。影だけが、日時計のようにして、人間の周りを動く。  私の腹の上には、小さな鉄の塊があって、私はそれを、両手で強く握り締めていた。あたかもそれが、私の魂であるかのように。そして背嚢のどこかにあるだろう、指の骨の

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『鬼はもとより』青山文平

    2015-01-07 11:55  
    「こう言っちゃ、なんでござんすが……」
     と、下っ引きは言った。
    「こんなもんが、ほんとうに商いになるんですかい」
     目は、広めの坪庭に並んだ万年青の鉢に注がれている。
    「俺は安く値付けしているからな」
     奥脇抄一郎は答えた。
    「客はけっこう付いている」
     時は宝暦八一七五八年、十月半ばのよく晴れた日の午近く。場処は聖天様に近い、浅草山川町の裏店である。元々、小塚原に移るまで刑場のあった土地で、界隈の街並みが、江戸のどん詰まりだった頃を覚えている。
     隅田川に貼り付く最寄りの今戸町には瓦を焼く達磨窯が寄せ集まって、東の風が吹けば、示し合わせたように黒い煙が襲ってくる。ほど近くの吉原へ通う客のあらかたが、目の前の日本堤を行かずに山谷堀の舟を使うのは、土手下に隠れた追ぎが珍しくもないからだ。
     そんな吹き溜まりのような土地だけあって、誰もそこを御府内とは思っちゃいない。けれど、土地の名にはしっ

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『あなたの本当の人生は』大島真寿美

    2015-01-07 11:53  
    1

     この小説を書いたのはわたし?? それともあなた?
     あなたはだあれ?
     わたしはだあれ?
     だれかおしえてくれないかしら?
     
     四百字詰め原稿用紙三百枚分の没原稿(またしてもこんなに紙資源を無駄にしてしまった!)を前に、おまえそんなに森和木ホリーが好きなら弟子にならねえか、と鏡味氏に言われたのだった。編集部の一番隅の、本や紙の束が堆く積み上げられている机の前。そこが編集部の僻地であるのをいいことに机と窓の間のスペースまでも鏡味氏が勝手に利用しているせいで(まるで巣だ、と来るたびに思う)、通路としての機能は完全に失われてしまっている。鏡味氏からはわずかにアルコールの臭いがしているから、もしかしたら、ランチの時にビールくらいは飲んだのかもしれない。それでそんなことを言いだしたのかもしれない。
     鏡味氏の声はつねに聞き取りにくい。おれだっておまえ、なにも好きこのんで、おまえの原稿、没にして

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『宇喜多の捨て嫁』木下昌輝

    2015-01-07 11:52  

     「相手は宇喜多の娘だ。それを嫁に迎えるなど、家中で毒蛇を放し飼いにするようなものぞ」
     宇喜多家の居城・石山城(後の岡山城)に、そんな言葉が響いた。
     本丸にある庭で、木刀を振っていた於葉の太刀筋が乱れる。心地よく風を切っていた切っ先が、苦しげに呻いたように聞こえた。於葉は動きを止めて、袖で頬を伝う汗を拭う。
     声は大きくはなかったが、悪意は過分に含まれていた。まだ冬が明けたばかりの早朝の石山城内は静かで、嫌でも注意を向けずにはおられない。
    「宇喜多の娘」と、先程の言葉を於葉は復唱した。体を心地よく湿らせていた汗が、たちまち違う質感を帯び始める。
     きっと昨夜到着した東美作を支配する後藤家の嫁取奉行の声だろう。随分と年かさを感じさせる声質である。まさか、その宇喜多の娘が庭で木刀を振っているとは思いもしなかったのか。・表裏第一の邪将、悪逆無道の悪将・の異名をとり、毛利や織田にも恐れられる

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  • 【第152回 直木賞 受賞作】『サラバ!』西加奈子

    2015-01-07 11:51  
    第一章 猟奇的な姉と、僕の幼少時代

     僕はこの世界に、左足から登場した。
     母の体外にそっと、本当にそっと左足を突き出して、ついでおずおずと、右足を出したそうだ。
     両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていたのだろう。医師が、僕の腹をしっかりんでから初めて、安心したように全身を現したのだそうだ。それから、ひくひくと体を震わせ、皆が少し心配する頃になってやっと、僕は泣き出したのだった。
     とても僕らしい、登場の仕方だと思う。
     まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。あるのは、まず恐怖だ。その世界に馴染めるのか、生きてゆけるのか。恐怖はしばらく、僕の体を停止させる。そして、その停止をやっと解き、背中を押してくれるのは、諦めである。自分にはこの世界しかない、ここで生きてゆくしかな

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  • 【第152回 直木賞 候補作】 『悟浄出立』万城目学

    2015-01-07 11:50  
     「上り坂ってのは、どうしてこうも神経をすり減らすものなのかね」
     背負った行李を大儀そうに担ぎ直し、八戒はぶうと鼻を鳴らし、白い息を勢いよく宙に吐き出した。
    「あそこが頂上かな、と思って歩を進めると、決まって同じ風景がまた目の前に現れる。今度こそあの木のあたりがてっぺんで、そこから先は下り坂だろう、と見当をつけていたら、いつの間にか木の脇を通り過ぎて、やっぱり続くのは相も変わらぬ上り坂だ。どこまでも、どこまでも坂道?ああ、何だか絶望的な気分になってしまうよ」
     八戒が大きな耳をはためかせ、またもぶうと低い鼻音を鳴らすと、三蔵法師の乗る白馬の先で、悟空が舌打ちとともに振り返った。
    「おい、おしゃべりブタ。いい加減、その開きっぱなしの口を閉じろよ。そうだらだらと文句ばかり聞かされていたら、こっちまで気が滅入ってくるだろうが」
    「仕方ないだろ だいたい、こんな薄ら寒い眺めばかり続いて、愉快な気

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