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記事 10件
  • 【第158回 直木賞 候補作】『銀河鉄道の父』門井慶喜

    2018-01-10 17:30  
    1 父でありすぎる
     一日の仕事を終えて鴨川{かもがわ}をわたり、旅館に帰ると、おかみが玄関へぱたぱたと出てきて、上がり框{がまち}に白{しろ}足袋{たび}の足をすりつけながら、
    「宮沢{みやざわ}はん」
    「何です」
    「……!」
     目をかがやかせ、好意的な表情で、わけのわからないことをまくしたてた。
     ──わかりません。
     ということを示すため、政次郎{まさじろう}は、大げさに首をかしげてみせた。岩手県から来た政次郎には、京都弁というのは、何度聞いても外国語より難解なのである。
     おかみは、なおもにこにこしている。
     奥にひっこんで、ふたたび出てきたときには右手の指に電報送達紙をはさんでいた。手のひらほどの薄い洋紙に黒い枠線が引かれ、縦横{たてよこ}の罫{けい}が引かれ、そのなかへ毛筆で数字やカタカナが書き流されている。
    (もしや)
     政次郎はなかば紙をひったくり、凝視した。右下の発信人の

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  • 【第158回 直木賞 候補作】『彼方の友へ』伊吹有喜

    2018-01-10 17:30  
    プロローグ
     佐倉ハツという名前がいやで、自分で書くときはいつも佐倉波津子と書いている。
     ハツという名の由来は一月生まれだから「初」。父母はそこに出発の「発」、活発の「発」という意味もこめたそうだ。どうしてカタカナにしたのかと聞いたら、「モダンでしょ」と母は浴衣を縫いながら微笑んでいた。
    「外国語っぽいからって、お父様がカタカナになすったの」
     そういうのがモダンに思えるのは大正の御代までよ。
     そんな憎まれ口を叩いたら、「いいじゃない、あなた、大正生まれだもの」と母は頭に軽く針を当てて髪油をつけていた。内職の仕立物のときはそんな仕草はしない。だけど家族のものを縫うときは、そうやって母はいつも針のすべりを良くしていた。
     うっすらと涙がにじんできて、波津子は目を閉じる。
     最近、目を開けていても夢を見る。見る夢は昔のことばかりだ。
     朝、老人施設のベッドで目を覚ますと、日中はライブラリー

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  • 【第158回 直木賞 候補作】『ふたご』藤崎彩織

    2018-01-10 17:30  
     彼は、私のことを「ふたごのようだと思っている」と言った。
    お酒を飲んでいると、ときどきその言葉を使うことがある。ふたご。まるで同じタイミングで世に生まれて、一緒に生きてきたみたいだ、と。
     ふたご。その言葉を他人に対して使うと、生々しい響きになる。まるで生まれて初めて聞いた音や、見た景色も、同じみたいだ、と。
     私たちが一緒に生活を始めてから、何年になるだろうか。ふたりの背後には、チューハイの空き缶が高く積み上げられている。これもいつもの景色だ。
     グラスに氷を入れてお酒を飲むことを面倒くさがる彼は、お酒をいつも缶で買う。そして、五本、六本と飲み終えた缶が増えていくと、それらをタワーのように積み上げて、誇らしく見上げるのが、彼の趣味なのだ。
     いつもの風景。これがいつもの風景になったのは、最近のことだ。自分たちにこんな日がくるなんて、長い間想像することも出来なかった。
     ふたごのようだと

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  • 【第158回 直木賞 候補作】『火定』澤田瞳子

    2018-01-10 17:30  

    第一章 疫 神
     春風にしては冷たすぎる旋風が、朱雀大路に砂塵を巻き上げている。
     どこぞの門口から転がってきたのだろう。がらがらとやかましい音を立てて近づいてくる桶をまたぎ越し、蜂田名代は大路の果てにそびえる朱雀門を仰いだ。
     鴉か、それとも鳶か。巨門の甍に羽を休める影は豆粒ほどに小さく、二十一歳の若盛りの眼を以てしても、その正体は判然としない。
     飛鳥からここ寧楽に都が移されたのは、二十七年前。それだけに明るい陽射しの中で眺めれば、壮大な柱の丹の色や釉瓦の輝きは、いささかくすんで映る。
     どこかに獲物でも見つけたのか、大棟に止まっていた鳥が、不意に空へと舞い上がる。それを見るともなく眼で追っていると、先を歩いていた同輩の高志史広道が振り返り、
    「おい、何をやっている。ぐずぐずしていると置いて行くぞ」
     と、形のいい眉をひそめた。
    「は、はい。申し訳ありません」
     頭を下げた名代に、広

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  • 【第158回 直木賞 候補作】『くちなし』彩瀬まる

    2018-01-10 17:30  

     もうだめなんだ、とアツタさんに言われた。いつかはくるだろうな、そうだろうな、とは思っていた。だけど実際に言われたら想像よりずっと悲しくて、アツタさんのいない生活がいやで、両目からだらしなく涙があふれた。頰を伝って顎の先に溜まり、したたりおちて裸の胸を濡らす。
    「どうしても?」
    「うん、妻がね」
     妻がね、ときた。妻じゃあ、しかたない。離婚はしないともう何年も前に言われている。アツタさんは奥さんとお子さんのことをとても愛している。私のところに来るのは、家族の前で一番いい自分でいるための調整みたいなものらしい。
     アツタさんは固太りした大柄な体を、ふう、とため息でしぼませる。
    「ユマちゃんには悪いけど、暮らしは困らないようにするから」
    「お金はいいよ。もうそんなに大変じゃないし」
    「でも、なにかさ。金がいやなら、貴金属とか時計でも。十年も世話になったんだ」
     十年という言葉に胸を刺され、ま

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

    2018-01-10 17:30  
     診察を終え、会計を済ませたのは昼過ぎだった。病院を出たとたん、暑い日指しが桃子さんの頭上に容赦なく降り注いだ。陽炎が揺れている。さっきもらったばかりの薬を入れたポリ袋をぶらぶらさせながら、木陰伝いにバス停までの道を歩いた。
     いつもの喫茶店はそれほど混んでいなくて窓際の席に着いた。
     病院通いのあとはバスに乗って最寄りの駅まで行き、電車の待ち時間を利用して、駅前のロータリーが見渡せる喫茶店二階のこの席に座る。観葉植物に囲まれた柔らかなソファが心地よくて、かすかに流れる洋楽も好ましく、外出の締めくくりにここに寄って駅前の風景を見下ろすのが常だった。
     頼んだソーダ水を待ちかねたように口に含んだ。ピリピリとした甘さが舌を刺激してのど元を通り過ぎたとき、桃子さんは自分が思いの外疲れているのに気が付いた。暑い日差しにやられたのかもしれない、とろけるような睡魔に襲われて、グラスの底ではじける泡を覗

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『愛が挟み撃ち』前田司郎

    2018-01-10 17:30  

    1.
     4みたいに京子は、右足一本で立っている。
     肩まで届かない髪を無理に縛って顔が少し突っ張っているから、もともと切れ長の軽く垂れた目が多少釣りあがって見える。整った美しい顔立ちは、どことなく不幸そうに見え、いつも不機嫌だと思われる。今も上機嫌だったが、そうは見えない。
     ペーパーフィルターに量を計ってコーヒー豆を入れる。
     時々左右の足を入れ替える。床が氷のように冷たい。スリッパは薄汚れたから捨てた。最近のことのように思うけど、あれは結婚してすぐだからもう5年経っている。いや、もう十二月だから6年か?
    「いまいち判んないんだけどさ」と俊介は京子の方を振り返って言う。「子供って出来た方が良いわけでしょ? 生物的には」と続けた。
    「出来た方が良いって?」
     ちょっとだけ首を振り、苔緑色のどっしりとしたソファに寝間着のまま胡坐をかいている俊介にそう訊いたけど、言わんとしていることは何とな

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『雪子さんの足音』木村紅美

    2018-01-10 17:30  
     眠るように死んでまだきれいなうちに下宿人に見つかるというのが、雪子さんの理想の最期だった。その望みは叶えられなかったことを、八月の終わり、薫は出張さきの品川のホテルで朝刊を読んでいて知った。
     死因は熱中症。エアコンは使われておらず、窓も閉めきられていた。発見したのは、連絡が取れなくなったのを不審に思った遠い親戚で、死後すでに一週間経っていたというから腐敗が始まっていただろう。月光荘は薫が住んでいた二十年まえですでにかなりの築年数が過ぎていた。二階の下宿人には気づかれなかったか、さいきんはもう新しく部屋を借りる人はいなかったのかもしれない。
    「ずっと家にいて、わたしが死ぬまで炊事洗濯してやるのかと考えるとつらくて」
    「うちのも、もう四十よ」
     顔をあげると、隣席にいる白髪まじりの婦人たちのやりとりが耳に飛び込んでくる。朝食を食べ終わったころにやって来た彼女たちは母と同世代で、薫と同じ年ご

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  • 【第158回 芥川賞 候補作】『百年泥』石井遊佳

    2018-01-10 17:30  

     チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるのかもしれない。 前日は一日中豪雨だった。午後には授業を早めに終了して学生を帰らせ、翌朝窓を開けたらアパートの周囲はコーヒー色の川になっている。 そのとき携帯電話が鳴り、出ると受け持ちクラスのアーナンダだったが、「こうずいですから、きょうじゅぎょうはやすみます」 茶色の水をみつめながら私は言い、「……はい……せんせ……はい……」 とぎれとぎれの声がどうにか聞き取れた。伝達事項があるさいなど、面倒見のいい彼がたいていクラスの窓口になってくれていて、今日も気を利かして電話をよこしたのだ。電話を切って向かいの家の玄関に目を移す。門扉の上部分が、とつぜん水面から生え出したように見えるその状況から推して水の高さは一メートルを越えている。私の部屋がアパートの五階だったことをあまたの神仏に感謝しなければならない。 きのう、教室の

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  • 芥川賞・直木賞の候補作を無料で試し読み!

    2018-01-10 17:30  
    新進作家の最も優秀な純文学短編作品に贈られる、「芥川龍之介賞」。 そして、最も優秀な大衆文芸作品に贈られる、「直木三十五賞」。日本で最も有名な文学賞である両賞の、
    ニコニコでの発表&受賞者記者会見生放送も15回を数えます。
    なんと今回も、候補作の出版元の協力によって、芥川賞・直木賞候補作品冒頭部分のブロマガでの無料配信が実現しました。(『ディレイ・エフェクト』 宮内 悠介を除く。)【第158回 芥川賞 候補作】石井遊佳『百年泥』(新潮十一月号)木村紅美『雪子さんの足音』(群像九月号)前田司郎『愛が挟み撃ち』(文學界十二月号)宮内悠介『ディレイ・エフェクト』(たべるのがおそいvol.4)若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(文藝冬号) 【第158回 直木賞 候補作】 彩瀬まる『くちなし』(文藝春秋) 伊吹有喜『彼方の友へ』(実業之日本社)門井慶喜『銀河鉄道の父』(講談社)澤田瞳子『火定』(

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