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  • 【第162回 直木賞 候補作】湊かなえ「落日」

    2020-01-10 14:47
     思い出すのは、あの子の白い手。忘れられないのは、その指先の温度、感触、交わした心。

     あれが虐待だったとは、今でも思っていない。
     あれはしつけだった。あの頃のわたしはそう思っていたし、母もそう言っていた。順番は逆だったかもしれないけれど。
     両親に手をあげられた憶えは一度もない。ただ、母からよく怒られてはいた。コップの水をひっくり返したり、使い終わったクレヨンを箱の中に戻していなかったりすると、ダメでしょ、とか、いい加減にしなさい、と声を荒らげられていた。
     しかし、ベランダに出されるのは、そういうことが原因ではなかった。
     わたしには幼稚園に入った年から毎日、夕飯後に「勉強の時間」というものがあった。国語と算数と英語の三科目。初めは、遊びの多い幼稚園児用のドリルだったけれど、そんなものは年少組の夏休みが始まるまでで、年長組に上がる前には小学二年生用のドリルを終えていた。
     名門小学校の受験を目的にした、私立の幼稚園に通っていたわけではない。そもそも、あの頃住んでいた町には、名門とか関係なく、私立の小学校などなかったはずだ。覚えた漢字や英単語、九九を披露する場もなかった。
     そこで、少しおかしいな、とは感じる。
     勉強なんてしたことないよ。九九なんて、小学校で習うんじゃないの? 
     わたしのささやかな疑問に、周囲の子たちの一〇〇パーセントがそう答えていたら、わたしも自分の家が特別なのではないかと思えたかもしれない。だけど、どこの集団にも、たとえ田舎の公立幼稚園であろうと、特別な子は一人二人はいるものだ。九九など幼稚園に入る前にはマスターしていて、一〇〇年先までのカレンダーが頭の中にインプットされているマサタカくんや、一度楽譜を見ただけでそれを暗記し、ピアノを演奏できるチホちゃんのような子が。
     自分が特別なわけじゃない。むしろ、そんな子たちと比べたら、自分のやっていることはごく当たり前な勉強で、特別な子にすらなれていない。
     お母さんが望むような……。
     だから、ベランダに出されても仕方ない。
     ちゃんと覚えられないわたしが悪いんだ。バカなわたしが悪いんだ。全部マルだったらお母さんは笑顔で褒めてくれる。ほら、一〇〇点取れたらうれしいでしょう? そう言って、優しく頭をなでてくれる。
     だけど、わたしの頭はなんでもすぐに吸収できるような、柔軟性のあるものではなかった。繰り返し一〇回書けば何でも覚えられるわけではない。まばたきせずに凝視しても、頭の中に焼き付けられるわけでもない。
     一〇問中、初めて、三問以上にバツがついてしまった日、母は赤ペンをテーブルに叩きつけるように置き、ハア、と大きくため息をつきながら立ち上がると、情けなさそうに顔をゆがめ、ポツリと言った。
    「出ていって」
     出るとは、この部屋からということだろうか。2LDKのアパートの居間から、別の部屋へ。子ども部屋なんて作ってもらえていなかった。二つある部屋は、家族で寝る部屋とタンスなどを置いた物置部屋だった。
     すぐ行動に移せなくても、母から拒絶されたことはわかる。怒られたことが悲しくて、がっかりさせたことが申し訳なくて、見開いたままの目から涙がこぼれた。すると、母はさっきよりもさらに大きくため息をつき、それにコンマをうつように、舌打ちした。
    「お母さん、泣く子が一番きらい。頭の悪い子ほどすぐに泣くのよ。言葉で説明できないから」
     涙など、言われてすぐに止められるものではない。それでもどうにかしなければと両手で必死にぬぐっていると、片方の二の腕がぐいと引っ張り上げられた。その勢いで立ち上がると、今度は背中を押され、逆らわずに進んでいくと、目の前のガラス戸が開き、もう一度、背中に強い圧力を感じたかと思ったら、わたしだけがベランダに残されて、ピシャリと戸を閉められた。
     ガリン、とすべりの悪い鍵がかけられる音もした。シャッ、とカーテンも閉められた。
     ベランダに閉め出された最初だった。
  • 【第162回 直木賞 候補作】呉勝浩「スワン」

    2020-01-10 14:46


    四月八日 日曜日──



    AM10:00

     うすい雲が太陽にかかっていた。なのに空は、おどろくほど青かった。ありったけの幸福を、塗りたくったかのようだった。
     四月は残酷な季節だと、イギリスの詩人はうたった。わかるけれど不満もある。べつに残酷なのは、四月だけじゃない。
    「ねえ、ヴァンさん」
     肩をつつかれ我に返った。妙におどけた幼い声がせわしなく話しかけてくる。「こっち見てくださいよ。ほら、あれです、あれ」
     いわれるまま、丹羽佑月(にわゆづき)はふり返った。この半年でヴァンという呼び名にもすっかり慣れた。
     首をのばし後部座席のサイドウインドウへ目をやると、アスファルトの道が光を浴びていた。佑月たちが乗るハイエースの横を車が次々走り抜けてゆく。
     片側二車線の国道だった。前を見ても後ろを見ても、きれいにまっすぐのびている。ごみごみした都会とちがい、見上げるような建物はあまりなく、それがよけいにくっきりと直線性を際立たせていた。前へ進んでいるというよりも奥に吸い込まれていく錯覚を覚えるほどで、ここへくるまでの道行き、佑月は助手席のシートにゆられながら何度となく「消失点」という言葉を思い浮かべた。中学生のころ、美術の授業で教わったとき、妙に胸がざわついた記憶がある。すべてが消え失(う)せる地点。そこにたどり着いたらどうなるのか。考えるとおそろしかった。
     大人になって気づいた。ほんとうにおそろしいのは、むしろその先があることだ。終わらないということだ。絵画の技術じゃない現実の消失点は、近づくぶんだけ遠ざかる。
    「ヴァンさん、ほらほら」
     後部座席の男──サントに促され、絶え間なく行き交う車両の先をぼんやり見つめる。反対車線の路肩に、一台の乗用車が停まっていた。ライトブルーのファミリーワゴンだ。
     ちょうどぽっかり草むらになった空き地があった。車を降りている父親らしき男性、母親らしき女性、そしてまだ幼い男の子。男の子がもじもじと短パンをおろす。しゃがんで介助する母親の後ろで、父親が呆(あき)れ気味に頭をかいている。トイレが我慢できなかったのだろう。
     サントの早口が聞こえる。
    「ああいうの、おれ、マジ許せないんすよ。だってあのガキのションベンを、誰かが踏むかもしれないじゃないですか。臭いがつく可能性もあるでしょ? てめえのガキの不始末なんだから、てめえの車で始末しろって話ですよ」
     草むらでは母親が、ポケットティッシュで息子の手をふいている。
    「あいつらも、どうせ行き先はここなんでしょ? 見かけたらおれ、まっ先にやってやりますよ」
    「好きにしたらいいさ。運よく出くわしたらね」
     ええ、そうします、ぜったいそうします、おれ、やってやりますから──。
     と、車体が動いた。ハイエースが車一台ぶん前へ進んだ。座り直すまぎわ、佑月の目に五分刈り頭が映った。運転手をつとめるごつい男──ガスはむっつり押し黙ったまま、目の前の車列をにらんでいた。三人のメンバーのなかでとび抜けてたくましい身体つきをした彼は文句もいわず、都心からここまでずっとハンドルをにぎっている。
    「っていうかこの列、どうにかなんないんすか?」
     運転免許すらもっていないサントが悪態をついた。
     ハイエースが到着したとき、すでに順番待ちの列ができていた。二車線道路の側道、立体駐車場へつながる特設レーンの最後尾にならんで十分、のろのろと前進を繰り返し、ようやく入り口が見えてきたところである。
    「もういいじゃないすか。そこらに駐と(と)めて歩きましょうよ。いまさら駐禁きられたって痛くもかゆくもないんだし」
    「痛いよ。準備の途中で誰かに咎(とが)められたら」
     だからわざわざこの立体駐車場を選んだ。それぞれの「出発点」に都合がよい場所を。
    「ああ、うぜえっ!」醜い叫び。「駐車場不足って経営陣どんだけ無能なんすか? 素人じゃないんだから計画してつくれって話でしょうが。責任問題ですよ、こんなの」
     絵に描いたようなくそガキだなと、佑月は可笑おか(おか)しくなった。まあ仕方ない。未成年だからほんとにガキだし、おまけにネット遊びしか能がないニートくんだ。おかっぱ頭に細いあご。薄っぺらい胸板。威勢は虚勢。朝からずっと、声は上ずっている。
     いいさ。少しは我慢してやろう。彼のいうとおり、どうせすべてはいまさらだ。
    「ちくしょう、こいつら、ほかに行くところねえのかよ」
     ねえんだよ──。皮肉な想いで、佑月はそんな返事をのみ込んだ。
     メンバーのうち、湖名川(こながわ)出身者は佑月だけだった。埼玉県の東部、さいたま市に隣接するこの地域で彼は育った。生まれは西のほうだが記憶はない。小中高と湖名川で暮らし、大学で東京へ出た。ほとんど実家に寄りつかず、もう七年間、家族とは音信不通だ。
     新宿(しんじゅく)まで車でおよそ一時間。池袋(いけぶくろ)なら十分短縮。典型的なベッドタウンに遊べる場所などそうはない。
     いや、ここしかない。
     単調な風景をぶち壊す巨大な白い塊──湖名川シティガーデン・スワン。
     高さこそ三階にとどまるが、この本館の建物は横に、そして奥へ呆れるほどのびている。国内最大級の敷地面積を誇るショッピングモール。今も昔も湖名川市民の生活の中心をなす施設。
     佑月もずいぶん世話になった。初めての映画、初めてのゲームセンター、初デート……。
     べつに、恨みがあるわけじゃない。
     なんの気なしにバックミラーをのぞくと、反対車線のファミリーワゴンは消えていた。草むらが陽に照って輝いている。
     彼らの目的地がスワンなら、向かった先は別館の屋上駐車場か、わりと駐めやすい有料の青空駐車場のどちらかだろう。青空駐車場の奥には池がある。大きな貯水池だ。
     ハイエースが、また一台ぶん前に進んだ。サントはぶつくさ愚痴をならべている。気にしているのかいないのか、ガスはむっつりしたままだ。
     車が吸い込まれていく立体駐車場の入り口を見つめ、消失点か──と、佑月は思った。


    AM10:10

     川を越えると風景が変わる。それを目の当たりにするのが片岡(かたおか)いずみは好きだった。
     ふぞろいな建物や小さな公園などが散らかっているこちら側から、川を挟んだあちら側へ。ほんの数秒、橋を駆け抜けるあいだ、車窓は水面(みなも)に満たされる。それが川を渡りきったとたん、がらりと変わる。定規で区切ったような一画が視界を覆う。高さもサイズも色も形もほとんどおなじ戸建て住宅が、かっちり鮨詰(すしづ)めになって、まるで玩具(おもちや)のブロックでつくった箱庭みたい。
     橋を渡ったんじゃなく、じつはトンネルを抜けたのかしらと錯覚するほどその切り替わりは劇的で、ふわっと意識が浮かびそうになる。舞台の幕が上がったように、思わずつま先(ポワント)で立ちたくなる。
     この浮遊感を楽しみたくて、たとえ車内がガラガラでも席に座らず、いずみはドアにへばりつくことにしていた。とくにこんな晴れた日は、川面がきらきら輝いて、さしずめ光のトンネルをくぐる気分を味わえる。
     なのに今日は、まったく楽しくない。
     ミニチュアめいた箱庭を過ぎ、背の高いマンション群が車窓を埋めたとき、ぴょん、とスマートフォンが鳴った。
    〈おは。なにちゅう?〉メッセージの主は芹那(せりな)だった。
    〈おっす。おら移動中〉いずみの返信に芹那が質問を重ねてくる。〈スワン?〉
    〈いえす〉〈れいの?〉〈いえす〉
     泣き顔のスタンプを添えると、〈決闘、乙〉と返ってきた。
    〈いざとなったらぶっとばしんしゃい〉
     芹那の落ち武者みたいなネコのスタンプに苦笑しつつ、いずみはメッセージを返す。〈法律、こわし〉〈弁護士、高し〉〈いざのときはカンパよろ〉
     送られてきたネコスタンプは無表情で、これにもいずみは笑ってしまう。
    〈あとで報告する〉〈待ってる。がんばりんしゃい〉
     やりとりを終え、ため息をひとつ。がんばるといってもねえ……。
     芹那がおなじ高校だったらよかったのに。クラスまでいっしょでなくても、昼休みとか放課後につるめたら、きっと心強かった。
     我ながら勝手な注文だ。地元の友だちとは距離を置く──。一方的にそう決めたのはいずみだし、こんな薄情者に連絡をくれるだけでも芹那には感謝すべきだ。
     甘えすぎてはいけない。おおげさにいえばいずみにはいずみの生き方があり、芹那には芹那の世界がある。いまはこの、気軽に愚痴をいい合えるくらいの距離が、たぶんちょうどいいのだ。
     それにしても──とあらためて、いずみはこの憂鬱(ゆううつ)な日曜日のお出かけに思いを馳(は)せた。
     まったくもって、すこぶるたいへんに、理不尽だ。
     用があるならそっちから訪ねてくるのが筋じゃない? なんでわたしが電車に乗って三つも駅を越えなくちゃならないの?
     明日に始業式をひかえたこのタイミングで、わざわざいじめられるために。
     げっそりとしたため息がもれる。高校デビューは完全に失敗した。入学早々クラスメイトに目をつけられて、嫌われて、くだらないからかいがはじまった。からかいはやがて攻撃と呼べるものに変化し、気がつくとクラスじゅうが手に手を取り合い、いじめの輪を組んでいた。そのうちおさまるとみくびっていたのがまずかったのか、たんに運が悪かっただけなのか。
     学校だけの話ならまだ耐えられた。不運のきわめつきは、いじめの号令を発した張本人がおなじクラシックバレエの教室に通う生徒だったということだ。何が悲しくてそんな奴と放課後も顔を合わせなくちゃならないんだ。おまけにこうして呼びだされるなんて馬鹿げてる。
     電車が湖名川駅のホームへ滑りこむ。窓に、Tシャツを着た細身の少女が映る。黒髪をポニーテールにまとめ、すっぴんで、ピアスやネックレスもしていない。この純朴そうな女子高生を自己採点するならば、せいぜい六十五点というところ。
     かまうもんか。わたしには武器がある。ステージの上で跳ぶグラン・ジュテ。誰にも負けない自慢のジャンプ──。
     脳裏に、古館小梢(ふるたちこずえ)のつんと澄ました笑みが浮かんだ。いずみを呼びだした顔面偏差値Aクラスのサディストのほほ笑みが。
     ぶっとばす、ねえ……。芹那のアドバイスを思いだしながら、いずみは電車を降りた。足は西口改札へ向かった。湖名川シティガーデン・スワンの最寄(もよ)り改札である。


    AM10:20

     吉村菊乃(よしむらきくの)はスカイラウンジのいつもの席に座り、あの女が寄ってくるのを忌々しげに待っていた。
     今週も、自宅を出たのは午前九時ちょうど。湖名川シティガーデン・スワンのオープン時刻に玄関ポーチをわたりながら、まるで出勤みたいだねえ、と思った。それなら遅刻だと苦笑した。
     近所の停留所に着いたとき、ぴったりバスがやってきた。待たずに乗れたのも車内がガラガラなのも毎週のこと。ふわっと差し込む陽の光に、ブラインドを下ろすかどうか決めきれないまま、バスは目的地へ走った。
     湖名川駅前まで三十分もかからない。バス停から西口改札方面へ歩き、そばにあるスワンのエスカレーターで二階へ上がる。すぐ目の前に大きな自動ドアが現れる。まさしく玄関口だ。これをさっそうとくぐるのが菊乃にとって、雨が降ろうが槍(やり)が降ろうがゆずれない、日曜日をはじめる儀式であった。
     自動ドアの先はガラス張りの通路になっている。車道をまたぐ空中の連絡通路だ。清潔で品が良く、道幅はおどろくほど広い。これがピーク時にはしっかり混雑するのだから侮れない。まだ余裕があるこの時刻に通路の中央を悠々と闊歩(かっぽ)するのが菊乃は好きだ。人ごみにのまれて歩くのは疲れるし、危ないと感じることも多い。認めたくはないけれど、八十も間近の年齢になると足もとがおぼつかないときもある。
     歩を進めるたび、背筋がのびていく気がした。ささやかな高揚と、なんとなしの誇らしさ。この通路から連想するのは空港だ。
     夫が元気だったころ、よくふたりして海外旅行に出かけた。目を瞠(みは)るような景色や、舌が引っくり返るような料理。ありふれた路地にも発見があった。おなじ場所をぐるぐる回るタクシー運転手、汚いミサンガを売りつけてくる路上販売人。笑えない危機もあった。言葉すら通じない見ず知らずの他人に助けられ、優しさが世界をつないでいるのだと半ば本気で思ったりした。
     三ツ星ホテルの値段でウサギ小屋のようなホテルをつかまされたことだって素敵な経験と断言できるが、しかしいちばん楽しかったのは、これから出発するという直前、搭乗口へ向かうひと時だった。「はしゃぐんじゃないよ、みっともない」とたしなめてくる夫こそ、じつは舞い上がっていたことを菊乃はちゃんと気づいていた。
     事業を息子の秀樹(ひでき)に譲ってから夫が亡くなるまで、十年にも満たない期間ではあったけど、思い出はいまも輝いている。
     それでというわけでもないが、日曜日のお出かけに、菊乃は精いっぱいお洒落(しやれ)してのぞもうと決めていた。
     秀樹の嫁は「おめかししてウォーキングですか」と顔をしかめ、孫娘は「ウォーキングじゃなくてランウェイだもんね」とおだててくれる。いつの時代、どこの国でも嫁はうるさく、孫はかわいいものなのだ。
     連絡通路の先にお出迎えのオブジェが見えた。本館と別館にわかれたスワンの、駅と直結する別館エントランスだ。円い噴水のウエルカムオブジェはたいした大きさでなく、水柱も気持ち程度の高さしかない。石造りのへりもいささか安っぽいのだが、決まった時刻に作動するからくり仕掛けのおかげでぎりぎり面目を保っている。正式名称は「ジークフリートの泉」。常連客はたいていみんな「王子の泉」と呼んでいる。
     それを横目に、菊乃は進んだ。
     エントランスを抜けると一気に視界が広がった。目の前にはエスカレーターを備えた吹き抜けスペースがある。そこから左右へ木目調のタイルの床がうんとのび、そこらじゅうに店舗が連なっている。上下左右、どちらを向いても開放感でいっぱいだ。デジタル案内板が映す円い全体図にびっしり記された店名は、字が細かすぎて菊乃の目をチカチカさせる。別館といえど一階から三階まで|隈《くま》なく回ろうと思えばゆうに数時間はかかるだろう。通路や壁ぎわに置かれたソファやベンチは飾りではなく、切実なセーフティネットなのである。
     菊乃は吹き抜けに沿って歩くことにしていた。ひらけた空間が気持ちいい。昼前でさほど混んでもおらず、気分はショッピングモールの女王様だ。無人で動くエスカレーターを眺められるのもこの時刻ならではの特典だった。
     しばらく行くとふたたび連絡通路が現れる。眼下の交差点を斜めに渡り、別館から本館へ。
     ひときわ大きな吹き抜けスペースにたどり着く。広さだけなら別館も負けていないが、ここはちょっと迫力がちがう。胸の高さくらいあるフェンスから下をのぞくと、一階の広場は白を基調とした暖かみのある色合いで、巨大な円を形づくっている。上は三階のさらに先、ガラス張りの天井まで、空間がすこんと抜けている。壁の装飾もやたら細かく凝っていて、バロックだかロココだか菊乃にはわからないが、ともかく由緒ある塔だとか神殿といった風情だ。エスカレーターすら、ここでは古代が生んだ奇跡に見えるからおもしろい。
     そしてここにもからくり仕掛けの噴水がある。広場の真ん中に置かれたそれは王子の泉よりひと回り大きく、素材もデザインも二倍か三倍こだわっていて、おそらく値段もはるかに高い。
     スワン名物、「オデットの泉」。みなの呼び名は「白鳥の泉」。ゆえにここは白鳥広場。まあ、そのまんまだ。
     白鳥広場はソファやベンチがたくさん置かれ待ち合わせの定番スポットになっている。特設ステージを組みヒーローショーやコンサートを催すこともある。菊乃もたまに足を運ぶが、数分眺めて立ち去ることがほとんどだ。やはり人ごみは苦手である。
     暖かさに誘われガラスの天井を見上げる。ほかの場所より一段高くなったそこから降り注ぐやわらかな陽の光を浴びていると、何やら荘厳な気分になってくる。
     休憩もかねてお手洗いに寄り、壁ぎわのソファに腰かけてひと息ついてから、菊乃は後半戦にのぞんだ。
     白鳥広場から先は、長い直線的なつくりになっている。二階と三階の通路は真ん中を吹き抜けが貫いていて、左右にわかれたフロアの行き来には渡り廊下を使わねばならない。ほどよい間隔でエスカレーターが設置されており、その場所の吹き抜けはちょっと大きくなっている。
     そろそろ人が増えはじめていた。家族連れやカップルに追い抜かれるたび、歳だねえと、がっかりする。
     白鳥広場から数えて四つ目のエスカレーターを過ぎる。この先が、菊乃の目的地だ。
     本館のどんつき。五つ目のエスカレータースペースの向こうに、透明な筒がすうっと空へのびている。五階ぶんくらいの高さだろうか。このエレベーターの頂上に、菊乃が目指すスカイラウンジはあるのだった。
     やれやれ。ようやく着いたね。
     さすがにくたびれた。悔しいが、ウォーキング呼ばわりもあながち的外れじゃない。
     呼んだエレベーターを待つあいだ、菊乃は一階を見下ろした。
     最後の噴水は、白鳥の泉に負けぬ大きさと立派なつくりをしていた。待ち合わせに便利な広場になっている点もおなじだ。ただ噴水の、水を囲うへりが、黒い。床のタイルもそれに合わせたモノトーンになっている。例のごとくここを「オディールの泉」と呼ぶ者はわずかで、通称は「黒鳥の泉」だ。
     到着したエレベーターに乗り込む。箱が屋根を越え、さらに上空へのぼってゆく。本館の最北端にそびえるエレベーターの筒から見ると、正反対の屋根がこんもり盛り上がっているのがわかる。白鳥広場のガラス天井だ。
     上からだと細長い長方形の建物にしか見えないが、じつはこのスワン本館にはちょっとした遊び心が隠されている。エレベーターの筒がのびるこちら側の地上から向こう側の盛り上がった最上部まで、側面の白壁に銀色の線が斜めに走っていて、これを遠くから眺めると羽をたたんだ鳥の身体に見えなくもない。つまり建物自体を白鳥に見立てた趣向になっているのだ。するとこのエレベーターの筒はまっすぐのびる長い首。道路を挟んでとなり合う巨大な貯水池を湖とみなせば見事、「白鳥の湖」が出来上がる。ついでにいうと緑と茶色の外壁をもつ別館は白鳥が棲(す)む森のイメージなのだとか。ここまでくると呆れるより可笑しさが勝り、菊乃はこの冗談をわりと気に入っている。
     エレベーターがスカイラウンジに到着した。乗ったときと逆側のドアが開く。白鳥の頭は全面ガラス張りの壁から四月の陽光を受け入れていた。二十くらいあるテーブルに客の姿はまばらだ。
     厨房(ちゅうぼう)との仕切りになったカウンターへ目をやったとき、むっと眉間(みけん)にしわが寄った。制服姿の若いウェイトレスが、おなじような顔をした。またきたのか、という顔だ。
     ふん。またきたよ。文句でもあるのかい?
     ぷいっと視線を外し、案内も待たずに店の奥、白鳥のくちばしのほうへずかずか進む。年明けから勤めだしたらしいお団子頭の彼女とは、どうも馬があわない。さっさと辞めてしまえばいいのに──。
     こうして午前十時二十分現在、菊乃は貯水池を見下ろす窓ぎわのいつもの席に腰をおろし、お団子頭の彼女が注文をとりにくるのを忌々しげに待っているのだった。


    AM10:30

     ようやくハイエースを立体駐車場に駐めることができた。日曜日は一時間待ちも珍しくないが回転率はそこそこ良い。図体(ずうたい)はディズニーランド並みでも多くの地元民にとってスワンは近所の便利な施設にすぎず、日用品を買って帰る者もいるし食事だけして出ていく者もいる。モール内にはフィットネスクラブや英会話スクールといった生活に密着した施設もある。かつて丹羽佑月がここを訪れる主な目的はDVDのレンタルと書店通いだった。
    「アマゾンでいいじゃないっすか」
     サントが神経質に笑った。「ネトフリでいいし。わざわざ出かけるなんて無駄無駄ですよ」
     佑月は適当に受け流した。本は手に取って選ぶ主義だし、当時はまだネットフリックスのような配信サービスは充実していなかった。しかしそれを伝えたところで、この青っ白(ちろ)い少年は納得しないだろう。納得させる気もない。それこそ無駄だ。
     サントにとっては自分の信じる世界だけが正しい世界で、真実なのだ。
     そして人間とは、きっとおおむね、そのようなものなのだ。
     これを言い表す気の利いたことわざか警句じみた表現を探してみたが、すぐには浮かばなかった。ボードリヤールあたり、何かいっていそうな気がするのだけれど。
    「というかいまどき、コンテンツに金を払うなんて縄文人ですよ」
     映画も音楽も漫画も小説も、すべてネットを通じて無料で手に入るんです。どうせクリエイターは広告費で稼ぐんだ。ビタ一文だって払う必要なんかない。これは大企業から搾取されまくってるパンピーの正当な権利ですよ──。
    「ざまあみろってんだ」
     ひひひ、と痙攣(けいれん)するようなサントのうめきに、いったいこの話のなかで彼が何に対し「ざまあみろ」と投げかけたのか、佑月にはわからなかった。わからなかったが、ことさら粘っこい彼の口ぶりは胸に響いた。もしもサントの伝記を書くなら、帯の惹句(じやつく)は「ざまあみろ!」だと佑月は思う。
    「しっかし見た目、マジで玩具みたいっすね」
     手にしたブツをねっとり眺め、サントがいった。手のひらにおさまるサイズのグリップ。ぬっとL字に突き出た胴体。子どもでもわかるその形状。ごろっと無骨な、拳銃(けんじゆう)だ。
    「質感ちゃちいし、重量感ないし」
    「二発で使い切りの仕様だからだ」
     ぼそりと、ガスが応じた。今朝合流してから、彼がサントに応答するのは初めてだった。
    「強度の代わりにコンパクト化した。暴発のリスクを抑えるために威力も弱くしてある。仕留めるときは連射するほうがいい」
    「ふうん」サントの笑みがひくついた。「猫は、一発でいけましたけどね」
     着替えを済ませた佑月たちはハイエースのシートを倒した後部座席で向かい合っていた。窓は即席のカーテンでふさいである。熱っぽい車内灯にむしむしと汗をにじませながら、三人の目は山盛りの拳銃に注がれていた。ガスが自前でつくった模造拳銃だ。
     それっぽいのは形状だけで、金属がむきだしの見た目からして本物でないのはあきらかだった。海外のマニアが公開している設計図をもとに試行錯誤を重ね、3Dプリンタと板金技術を駆使し完成に漕(こ)ぎつけた──らしいが、正直あまり興味はない。ただ事前に確認した性能に関しては合格点をあげてもいいだろう。
     ひとりあたり二十個、合計六十個。弾丸もガスの手製だ。計画が決まってからの半年間で、よくここまでそろえたものだと、この点は素直に感心している。
    「猫と人では骨格の強さがちがう。人は、思ってる以上に頑丈だ」
     ふたたび「ふうん」とサントがうなった。どこか見下すような響きがあった。
     ガスが淡々とつづける。「狙うのは頭部がいい。眉間を直撃すれば一発でも充分だろう」
    「前にもそれ、聞きましたけど?」サントが肩をすくめる。「まあ、どっちでもいいっすよ。楽しめれば」
     いつにも増して挑発的な物言いだった。緊張ゆえだろうと佑月は察する。びびっているのだ。
     一方のガスはふだんと変わらぬ仏頂面だ。筋肉質の大きな身体に五分刈り頭。細い瞳(ひとみ)は不機嫌にも見えるし、泰然としているようにも見える。
    「君のほうは大丈夫なの?」
    「なんすか、その言い方」佑月の問いに、サントが顔を赤くした。「おれがしくじるとでも思ってんすかっ」
    「そういう意味じゃない。ただの確認だ」
    「調子のんないでくれません? ムカつくんすよヴァンさんの、その余裕ぶったムカつく態度」
    「悪かったよ。だけどここで言い争っても仕方ないだろ?」
     ちっ──。舌を鳴らしつつ、サントは自分のデイパックを漁(あさ)った。それから放るようにゴーグルをよこしてきた。
     プラスチックのしっかりしたフレームだった。飾りのレンズに薄く傷がついていた。中古品なのだろう。
     佑月は、右のこめかみの部分に備えつけられた小型カメラにふれた。
    「配信は十一時からです」
     すべてはプログラム済み──。そう主張するかのように大きなノートパソコンを開き、サントはキーボードを軽快に叩(たた)いた。
    「ぜんぶ自動なんだね」
    「あたりまえでしょ? まさか終わってからここに戻ってきて、こちょこちょいじるつもりだったんすか?」
     佑月は肩をすくめて応じた。
    「何もかも記録されます。永遠に残るでしょうね。ヘタレは未来永劫(えいごう)、馬鹿にされつづけることになりますよ」
     ひひひ。
    「ヴァンさんのブツもくださいよ」
     佑月は釣り竿(ざお)のケースを三つ、ふたりの前に置いた。チャックを開ける。中から、黒く艶(なま)めかしい棒状の物を取りだす。
     すっと鞘(さや)を払うと、美しい刀身が車内灯に照らされた。サントが息をのんだ。ガスの熱い視線を感じる。
     祖父の家の物置からくすねてきた日本刀である。
    「まあ、銃がきれたときの保険みたいなものだけどね」
    「──いいなあ。こいつであの家族連れを斬っちゃいたいすね。あのガキの首をはねて、ママさんのケツに突っこんだらおもしろくないですか?」
    「やめろ」
     強い声がした。ガスが、サントをにらんでいた。
    「変態みたいな真似はするな。汚れる」
    「はあ?」サントが目を見開いた。「汚れる? なんすか、それ。汚れるウ? よごれるううう」
     ひゃっひゃっひゃと笑いだす。
    「マジ、ガスさん、ウケますよ! いや、マジで。汚れるもくそもないでしょう。手当たり次第にぶっ殺そうって奴らが、何をきれいに保とうっていうんすか?」
     ガスは反応しなかった。
    「まあ、いいや。ここまできたらお互い、ごちゃごちゃ説教はなしでいきましょうよ。どうせもう二度と、会うこともないんだし」
    「そうだな」とガスが答えた。「会うことはない」
    「ええ、せいせいしますね」
    「ところで、このカメラはどうやって動かせばいいんだ」
     サントがのけぞった。「スイッチを入れるだけでオッケーに決まってるじゃないですか! 猿でもできるから安心してちょ」
     ひゃっひゃっひゃ──。
    「あ、それともガスさんもしかして、いつもかけてる牛乳瓶の底みたいな眼鏡といっしょにゴーグルのかけ方とバナナの皮のむき方をお家(うち)に忘れてきちゃったのでは?」
    「サント」ガスが、サントの背後を指さした。「見られてるぞ」
    「へ?」
     サントがカーテンの閉まったサイドウインドウをふり返った。ガスが模造拳銃を手に取った。流れるような動作でサントの後頭部に銃口を当て、引き金を引いた。
     ドン、ドン。
     ずるっ。
     サントはドアに万歳の恰好(かつこう)でへばりついて倒れた。身体が痙攣していた。後頭部にあいた穴から血がどくどくと流れた。
    「あらら」佑月の口から笑いがもれた。「汚れちゃいましたね、シート」
    「──べつにいいだろ。返すわけでもないんだ」
     この車を手配した男がそういうのなら、佑月に文句はなかった。
     三人が知り合ったのはネットの掲示板とSNSでだ。半年前から直(じか)に会い、いっしょに準備を進めてきたが、本名すら名乗り合っちゃいない。自己申告を信じるならガスの年齢は三十代半ば。かつてパイロット志望で防衛大学校に在籍し、視力の低下を理由に退学したという。
    「ええ、かまいません」佑月は笑う。「使える拳銃の数が増えたし、『エレファント』の主人公もふたり組です」
     ガスは黙ったままサントの血と、死体が垂れ流す汚物から守るように拳銃を引き寄せた。佑月もそれにならった。
    「ルートはどうします?」日本刀を差しだしながら尋ねる。「サントくんの代わりに、ぼくと白鳥からはじめてもらってもいいですけど」
     佑月とともにスタートし、別館へ乗り込んでジークフリートの泉を目指す。これが予定していたサントの動きだ。
    「変更はいらない」鞘をにぎったガスが、ぼそりという。「おれは、黒鳥からやる」
     了解です、と佑月は返す。銀行強盗や要人暗殺ってわけじゃない。お互い好きにすればいい。
    「ぼくは二階からそちらへ向かうんで。鉢合わせしないように気をつけましょう」
     ガスがこくりとうなずき、腕時計を見た。「そろそろ出る」
     腰を上げたガスに声をかける。
    「じゃあ一時間後──靖國(やすくに)で会いましょう、かな」
     不謹慎なジョークに、ガスが小さく唇をゆがめた。


    AM10:40

     山路智丈(やまじともたけ)が大きなあくびをしたとき、後輩の小田嶋力(おだじまちから)が詰め所に戻ってきた。正式名称は「第二防災センター」だが、智丈には詰め所のほうがしっくりくる。
    「本日も盛況なり」
     小田嶋が肩をすくめ、やれやれといったふうに眉(まゆ)を寄せた。
    「この調子じゃ、今日は出動祭りになるかもですよ」
     智丈のそばのデスクへ向かい、椅子をみしりと鳴らす。この後輩はラグビーでならした立派な体軀(たいく)の持ち主で、いかにも頼れる警備員という見てくれだ。再就職組の智丈はというと、いまいち覇気のない垂れ目にひ弱そうななで肩。たるみはじめた腹回りにいくばくかの貫禄(かんろく)があるやなしやという体たらくである。
    「そういえば、さっそく子どもが転んでたなあ」
    「山路さんの前で?」
    「うん。ぶつかりそうになってさ。危なかった」
    「そりゃあヒヤッとしますね」
     子どもの怪我より親の文句が面倒だ。「なんでよけないんだっ」と怒鳴られたり、「あんたのせいで転んだんだぞっ」と責められたり、後日クレームの電話をいれられたり。
    「まあでも、カメラに残るだけここはマシですよ。年末に行かされた現場はひどかったですもん。屋外のイベントでカメラなし。揉(も)めたら悪い悪くないの水掛け論で」
    「揉めたの?」
    「少しだけ」と、小田嶋が照れたように頭をかいた。「喫煙所でもないのに煙草吸ってたおっさんに注意したんです」
     相手は家族連れの父親で四十代くらい。若い警備員に注意されたのが気にくわなかったのか、吸いかけの煙草を小田嶋の靴に投げつけてきたという。
    「ムカついて、迫っちゃって」
    「あ、それはまずいね。まずいよ。気持ちはわかるけど」
    「ええ。反省はしてます。いちおう」
     小田嶋がからりと笑い、智丈はやれやれと息を吐く。
     警備員とはいうが、べつに特別な権限があるわけじゃない。ふつうのアルバイトに毛が生えた程度で、むしろよけいに気をつかう。喧嘩(けんか)腰でのぞめば威圧的、高圧的だと苦情の種になりやすい。たとえ客同士が殴り合い寸前の喧嘩になろうと、実力行使は禁じられている。後ろから羽交い締めなんてもってのほか。身体を割り込ませ、殴り殴られを阻止するくらいがせいぜいなのだ。警備会社から派遣されている智丈たちの立場では、店舗側が守ってくれないこともある。理不尽なクレーム一発で出勤停止というケースも少なくない。
     ゆえに基本スタンスは穏便路線一択だ。「注意」というより「お願い」。命令口調はぜったい避ける。わめき散らす不良少年をなだめるために、なぜかこちらが謝りたおす。周囲の客は冷たい視線を浴びせてくる。なんでぺこぺこしてるんだ? その制服はコスプレか? 情けない──。
     そういう仕事なのだと、智丈は割りきっていた。割りきらなくちゃ心がもたない。心がへたると何もかもが嫌になる。嫌になると、いろんなものが壊れてしまう。壊すわけにはいかないから、やり過ごす。世の中とはそういうものだといい聞かせて。
    「でもほんと、気をつけてね。客と喧嘩になって、いきおいで辞めちゃう子って多いから」
     去年の夏にもひとり、もめ事を起こした後輩がいる。客にからまれ思わず手をだす──。ありがちにして最悪のケースだった。本人の意固地な性格から会社とも衝突し、結局、後味の悪い自主退職にいきついた。彼の教育係だった智丈も嫌味な上司にこってりとしぼられた。
    「馬鹿といっしょにしないでくださいよ」小田嶋が苦笑で応じる。「ちゃんと我慢しますって。だってここ、天国ですもん。めったにないラッキー配置でしょ?」
     その点は智丈も大いにうなずく。湖名川シティガーデン・スワンはまちがいなく良い現場だ。
     いま、この詰め所には智丈を含め十人の警備員が勤めており、うち五人が巡回に出払っている。第二防災センターは主に本館を担当する部署だが、この広いフロアの、それも三階ぶんをたった五人でカバーするなんて物理的に不可能だ。十人全員でやったって似たようなものだろう。しかし店側は人件費をかけたくない。そこで導入されたのが最新式の防犯カメラシステムだった。
     智丈が座るデスクには九つのモニターがビンゴカードのようにならんでいる。それぞれに行き交う人々の姿が映っている。動きは多少ぎこちないが昔に比べると格段にきれいなカラー映像だ。フロアの天井に設置された防犯カメラは、店舗を除く共有エリアのおよそ九十五パーセントをカバーしていて、それだけに数は膨大だった。モニターはそのなかのひとつをランダムに、ばんばん切り替えながら延々と映している。九つぜんぶに目を凝らし、真剣に異変を探そうとすれば気が変になるだろう。そもそも人間の能力を超えている。
     代わりに働いてくれるのがAIだ。不審な挙動やトラブルを自動で察知し、アラーム音を鳴らす。それを主任クラスの人間が確認し、出動か否かを決める。たんなる過剰反応で問題なしの場合も多いが、効率の良さに疑いはない。このシステムのおかげでスワンの警備員は詰め所でのんびりできる。オープン時と閉店時に入り口や駐車場に立つのはほとんどポーズにすぎない。
     恵まれている。ほかの現場の同僚からやっかまれるたびそう思う。
     望んだ転職ではなかった。給料だって下がった。けれど丸五年ここに勤めるうちにすっかり腰が落ち着いた。もっかの悩みは家のローンと子どもたちの進学問題、そして運動不足である。
    「あのおばあちゃん、今日もきてました?」
     朝イチで駐車場の見回りをしていた小田嶋が、コーヒーをすすりながら訊(き)いてきた。
    「ああ──」朝は別館とつながる連絡通路の入り口に陣取っていた智丈は、宙を見上げ記憶を探った。頭に、すたすた歩いてくる真っ青な服が浮かんだ。「──見かけたよ。けっこう良さそうなカーディガンを羽織ってたっけ」
    「靴は」
    「いつもどおり」
     小田嶋がニヤリとする。もはや名物になっている「日曜日のおばあちゃん」だ。毎週昼前に現れ、まっすぐスカイラウンジへ向かう彼女はいつもめかし込んでおり、しかし靴だけは歩きやすそうな運動靴なのである。それがアンバランスで、小田嶋などは彼女を話題にするときちょっとからかうような口ぶりになる。
    「金持ちも歳には勝てませんか」
    「金持ちかはわかんないよ」
    「スカイラウンジの女の子がいってましたよ。ムカつくって」
    「なんで」
    「わがままで偉そうなんですって」
     ふうん、と智丈は返した。だからって金持ちとはかぎらない。それに君たちだって、いつまでも若くはないんだよ──そんなお説教はひかえる。ここは職場だ。できるだけ快適に、安楽に、お金をもらうための場所。それ以上でもそれ以下でもない。説教するおっさんの無力さは、とっくに思い知っている。
     ぴーん、とアラームが鳴った。
     中央のモニターの左上に、注意を促す赤い丸印が点灯する。智丈はそれを見て、おや、と身を乗りだした。どうせまた転んだ子どもにでも反応したのだろうと思ったが、どうやらちがう。
     来場者であふれる通路の真ん中で、女性がひとり、おろおろと周囲を見まわしていた。


    AM10:50

     亀梨洋介(かめなしようすけ)は緊張と、ほんのちょっとの苛立(いらだ)ちを抱え四角いベンチソファに腰かけていた。スワン本館の一階。広場を囲うように配置されたベンチソファは、洋介と同様にくつろぐ客たちで埋まっていた。お年寄り、家族連れ、そしてカップル。視界の先で大きな噴水──白鳥の泉が水柱を立てている。洋介の背後にあるカフェの有名チェーン店でコーヒーやパイを買い、のんびり噴水を眺める者もいる。近くのマンションで暮らす洋介にとって、スワンは学校とおなじくらい馴染(なじ)みのある場所だ。
     腕時計を見る。ふだんはスマホで済ませているが、今日は入学祝いの品を引っ張りだしてきた。
     十時五十分。
     チノパンのポケットからスマホを取りだす。着信もメッセージもない。
     苛立ちが増す。すでに二十分、待ちぼうけをくっている。
     なんだよ。昨日はあんなにはしゃいでいたくせに。
     菅野由衣(すがのゆい)はバイト先の先輩だ。去年の秋口、大学のそばの居酒屋で働きだしたとき、仕事のイロハを教わった。ちゃきちゃき動き、元気いっぱい。憎まれ口も愛想のよさで許されるタイプの女性である。
     初めはムカついていた。カメ、カメと気安く呼ばれ、「うるせえな、ブス」と心のなかで悪態をついていた。それがいつの間にやら仲良くなって、気がつけば心惹(ひ)かれていた。
     洋介はこれまで、女に困ったことがない。すらりとした長身に、すっきりした顔立ち、我ながら気が利くし弁もたつ。おかげで小学校のころから彼女が途切れたためしはなく、クラスや学年で、学校で、あるいは地域で、モテモテだった。それなりのランクを求める女の子が寄ってきて、こっちもランクを見極めて、付き合ったり離れたりを繰り返した。歴代の彼女のなかにはファッション誌の読者モデルになった子もいる。
     そんな洋介だから、大学でもとっかえひっかえ、女遊びに精をだすつもりだった。じっさい新歓コンパで彼女を見つけ、サークルで愛人を見つけ、飲み屋でセフレを見つけた。愛人とセフレのちがいはよくわからないが、ともかくそういうふうに楽しんでいた。
     ところが去年、三年生になったとき、急にすべてがつまらなく思えた。理由は不明だ。就職活動やら卒業やらが迫ってきたこととも無関係じゃないのだろうけど、はっきりはしなかった。仕送りで遊びほうけ、金が尽きれば女たちにおごってもらう生活に、ついに飽きがきたのかもしれない。
     なんとなくはじめたバイト。やたらと活気のある居酒屋はサークルOBが店長をしている店で簡単に採用された。汗水たらすのはセックスのときだけと決めていた洋介は初日でうんざりし、二日目で辞めたくなり、三日目で辞める決心をし、四日目の休む理由を探していたところに、由衣が現れたのだ。
     思い返すと当時の自分は「いらっしゃいませ!」の掛け声すら適当で、オーダーまちがいを謝りもしない典型的駄目バイトくんだった。そんな洋介に由衣は容赦なかった。次の日も洋介が出勤したのは、このくそ女を惚(ほ)れさせて、ゴミのように捨ててやろうという暗い欲望のためだった。
     それがどうして、こうなってしまったのやら。
     由衣は十八で親もとを離れ、たったひとりで生計を立てていた。学校に通うわけでもなく、ふたつのバイトを掛けもちし、お金を貯めていた。いつか自分の店をもちたいのだと彼女は語った。小さな定食屋、あるいは弁当屋。五年がんばった、あと三年もすれば──。
     付き合ってくれと頼んだのは洋介のほうだ。由衣はぽかんとしていた。なんだか急に可笑しくなって、思わずふたりで笑い合った。定食屋も弁当屋も、洋介にはダサい仕事に思えたが、なぜだか由衣といっしょなら悪くない気がした。
     せっかくだから一度は就職してみろと由衣にいわれ、いまは外食チェーンを狙っている。学んだノウハウが、いずれふたりの店の役にたつかもしれないからだ。
     メッセージが届いた。〈すまん。寝坊った。走る〉
     走るって、池袋から何キロだよ──。
     思わず笑ってしまう。そのことにあらためておどろく。昔の自分なら予定はキャンセルし、ナンパに繰りだしていただろう。
     洋介の地元が湖名川だと知り、スワンに行ってみたいと誘ってきたのは由衣のほうだ。洋介は渋った。ここだと、知ってる人間に出くわす確率が高い。泣かせた女、恨まれている男。山のようにいる。
     それでも由衣の願いなら応じてあげたい。ときめきや強烈な性欲とはちがう、何かこう、そばにいたいという感覚。そばにいてほしいという感覚。
     緊張は、すきあらば由衣を家族に紹介しようと企(たくら)んでいるせいだ。
     人生ってほんと、何がどうなるかわからないな。
     苦笑をもらした拍子に、ふと、目を奪われた。駐車場のほうから歩いてくる奇妙なロン毛の男。ごついゴーグルをかけ、重そうなレザーのショルダーバッグを担ぎ、ごつごつしたチョッキを着ている。そして腰に、時代劇のような刀をさしている。
     イベントの出演者? そう思って広場を見渡すが、とくにステージなどは見当たらない。
     時刻は間もなく十一時。噴水の前で屈伸運動をはじめたロン毛を、洋介はぼんやり眺めた。
     ロン毛が、ごついゴーグルにふれた。辺りを見まわし、洋介に目を留めた。口もとが、ニコリと広がった。
     知り合いだろうか。ゴーグルのせいでよくわからない。
     ショルダーバッグに手を突っ込んだロン毛が、ゆっくりこちらへ歩きだす。なんだろう、誰だろう──洋介の疑問をよそに、どんどんどんどん、近づいてくる。
     と、由衣からメッセージが届いた。
    〈電車、乗った。楽しみ〉
     ちぇっ。勝手いってらあ。でもまあ、そうだな。
     楽しもう。
     そんな返信をしよ、
     ドン。


    AM11:00

    「ちょっとあなた、待ちなさい!」
     呼び止めると、お団子頭のウェイトレスがふり返った。不貞腐(ふてくさ)れた顔つきにカッと頭に血がのぼり、吉村菊乃はテーブルを拳(こぶし)で叩いた。それからフォークを、皿のナポリタンに突き刺した。「あなた、これが何か知ってるかしら?」たっぷり嫌味をまじえ、フォークを掲げる。
     不満げな表情を隠しもせず、相手がぼそりと答えた。「……ソーセージですけど?」
    「ええ、そうね。びっくりだわ」大げさに、菊乃は肩をすくめた。「わたし、このお店のナポリタンが大好きなのよ。毎週のように食べてるの。もう数えきれないくらい」
     毎週日曜日、たどり着いたスカイラウンジでゆっくり紅茶を飲んで疲れを癒(いや)す。お腹がすいたところでナポリタンを注文する。食欲次第でサンドイッチのときもあるが、いま、それはどうでもいい。
     お団子頭の彼女の顔がどんどん曇ってゆく。それが菊乃の苛立ちに拍車をかけた。
    「ソーセージはハムに替えてちょうだいといったはずよ!」
    「──いつもの、としか伺ってませんけど」
    「それが『いつもの』でしょっ」
     ぶすっとしたまま、「じゃあ替えてきます」と皿を下げようとする。
    「待ちなさい」堪忍袋の緒がぶちっと切れた。「その態度は何? お客さまは神さまだって教わってないの?」
    「それはちがうと思います」お団子頭の彼女が、堂々と菊乃を見下ろした。「なんでもいうことを聞けるわけじゃないですし、『気に入らないからタダにしろ』とかいわれても困ります。できるサービスしかできません」
    「まっ」
     菊乃は目を丸くした。「できないことなんてひとつも頼んでいないじゃないっ」
    「『いつもの』でぜんぶわかれっていうのが無理です。だってウチに『いつもの』なんてメニューはないですから」
     絶句するよりない。なんだその屁理屈(へりくつ)は!
     夫が興した物流会社で、菊乃は長年ばりばり働いてきた。取引先のわがままに付き合ったりご機嫌をとったりはあたりまえのこと。それが客商売だと性根に染みついている。
     いくら若いアルバイトといえど、非常識がすぎるんじゃないか? こっちは毎週通っている上客なのに。
    「店長さんを呼んでちょうだい」
     はん、と鼻で笑われた。
    「早くしなさい!」
     怒鳴りつけると、ほかのテーブルに座る客たちがそっと眉をひそめる気配を感じた。まるでワイドショウでやり玉にあがるクレーマーの気分だ。怒りでフォークをにぎる手が震えた。せっかくのお出かけが台無しだ。
     カウンターへ向かうお団子頭の背中が憎らしくてたまらない。いっそこの手で絞め殺してやろうか──。
     ドン。
     カチャン。
     とつぜんの破裂音にびっくりし、にぎっていたフォークを床に落としてしまった。思わずといった調子で天井を見上げる。ガラスの向こうに、さわやかな青空が広がっている。
     次の瞬間、下の階から、悲鳴。


    AM11:10

    〈防災センターより連絡です。ただいま館内において火災が発生いたしました。ご来場のみなさまは係員の誘導に従い、速やかに安全な場所へ避難してください〉
     火災ねえ。
     ドン、ドン。二階へ上がるエスカレーターの上に立った丹羽佑月は、手すりに背中をあずけた体勢で、二階の通路を走る中年カップルに模造銃を連射した。一発目と二発目のどちらが当たったかはわからないが、夫らしき男性が肩口を押さえすっ転んだ。女性のほうが悲鳴をあげて駆け寄った。なかなか澄んだソプラノだ。
     射程距離はそこそこあるが、遠くからでは威力が落ちる。あの男は大した怪我じゃないだろう。運がいい。
     空の拳銃をぽいっと投げ捨てる。下から、カーンと音が響く。一階を見下ろすと、白鳥広場はひどいことになっていた。ベンチのそばで人が倒れ、床に人が倒れ、白いタイルに血が赤い染みをつくっていた。撃ち終えて捨てた拳銃がバラバラと黒い点を打っている。手当たり次第に撃ちまくった結果にしては美しい模様じゃないかと佑月は思う。
     エスカレーターで運ばれるあいだ、ぐるりと周囲を見渡した。白鳥広場の中心を、天にのぼっていく感覚だった。悲鳴や泣き声に自動音声の館内放送が加わってうるさいことはうるさいが、意外に耳障りではなかった。天井から降り注ぐ四月の陽光。この巨大な円柱の、ひだまりのシェルターが、二十一世紀製バベルの塔が、あたかも丹羽佑月のためにあるみたいだ。
     目の端を何人か、走っていく者がいた。素敵な気分なので見逃してあげる。
     肩にずっしりと食い込むレザーのショルダーバッグから新しい拳銃を取りだす。二階に着く。すぐそばの携帯ショップの店先に、店員らしき女性が突っ立っていた。両手を胸におろおろしている。パニックで思考停止という感じだ。
     佑月と目が合い、口をパクパクさせた。
    「火事だそうですよ、お嬢さん」
     構えた拳銃の引き金を、ボブカットの彼女の、喉(のど)のあたりをめがけて引いた。ぎゃっ、といううめきとともに彼女がへたり込んだ。弾がかすめた首から血がしたたっている。この距離で外すとは。自分のセンスのなさに呆れながら二発目のトリガーを引く。
     ガチッ。
     引ききれずに固まった。弾詰まりだ。その場合はすぐに捨てろとガスはいっていた。製作者の忠告に従い拳銃を放り、あらためて新しいやつをにぎる。そのあいだも、ボブカットの女は腰を抜かして震えているだけ。楽なもんだ。
     ドン。
     額にしっかり銃口を当て、撃った。脳みそが飛び散るなんてことはない。しょせんは自家製、そこまでの威力はない。けれど彼女は糸が切れたように突っ伏した。それで佑月は満足し、ついでだから残った弾をお腹のあたりに撃って、空の拳銃をぽいっと捨てた。
     二発しか撃てない模造拳銃は消耗品もいいところで、すでに佑月は十個ほど消費していた。仕留めた獲物は六体くらいか。いちいち確認していないから生き死にまでは定かじゃない。
     ドン、ドン、きゃあ! ぽいっ。
     出くわす獲物に銃弾を浴びせながらアンティークショップやカフェをやり過ごす。ゆるくくねった直線状の通路は中央が吹き抜けになっていて、左右にフロアがわかれていた。見通しはいいが人影は目につかない。まだ残っているのは、よほどどんくさい奴だろう。
     獲物に逃げられても深追いせず、佑月は悠々と通路を進んだ。目的地に着くのは正午の予定だ。あまり早すぎると恰好がつかない。何より日曜日の真っ昼間にガラガラのスワンを闊歩するという貴重な時間を楽しまないのは罪だろう。
     立ち止まってみたり、ふり返ってみたり。スワンという巨大で空虚なオブジェをじっくり観賞し、堪能する。佑月のためだけに存在するアートを。
     やがて一階フロアの奥のほうから、ドン、ドンという音がした。きゃああ! という叫びがセットで聞こえた。黒鳥の泉からスタートしたガスにちがいない。思ったより距離がある。場所はちょうど白鳥広場と黒鳥広場の中間地点だ。とっくにすれちがってもいいころなのに。
     一階の、花壇がある広場を、逃げ惑う客たちが猛然と走ってきた。映画のワンシーンを眺める気分で見下ろし、せっかくなので上空から狙い撃ちしてみたが、さすがにこの距離とあのスピードでは当たらなかった。老いも若きも男も女も、スプリンターみたいないきおいで走っている。火事場の馬鹿力ってやつかしら。
     ガラスが割れる音がつづけざまに響いた。ガスはずいぶんのろのろやってるらしい。警察がくるまでだいたい十分間。防災センターもパニックになるだろうからもう少し猶予があるかもしれない。警備員は無視していい。奴らはしょせん飾りにすぎない──ガスはそう断言していた。半信半疑に思っていたが、事実、佑月たちを止めようとする勇者はただのひとりも現れていない。幸運に恵まれているのか、現実とはしょせんこんなものなのか。
     と、体格のいい五分刈り頭の男が一階フロアに現れた。ガスだ。声をかけようかと思ったがやめておいた。取り憑(つ)かれたような速足には鬼気迫るものがあり、下手に刺激をすればこちらに敵意が飛び火しかねない危うさが漂っている。ドン、ドン、ガシャン。砕けたショウウインドウへもう一発。マネキンが爆発。はは。イカれてやがる。やみくもに拳銃をぶっ放しながらずんずん進む五分刈り頭を狙って拳銃を構えてみる。当たる気がせず、佑月は背を向けた。
     渡り廊下を使って左右のフロアを行ったりきたりしながら、通路沿いにならぶ店舗をのぞく。逃げ損なった者がいたりする。震える彼らや彼女たちに笑顔で近づき、「大丈夫ですよ」と声をかける。そして銃弾を浴びせる。
     ドン、きゃあ! ドン、ぽいっ。
     ひと気がなくなった通路に、ミリタリーブーツがコツン、コツンと気持ちよい音をたてる。
     コツン、コツン、ドン、きゃあ! ドン、ぽいっ。
     気がつくと佑月は鼻歌をうたっていた。『ワルキューレの騎行』から『密室の恐怖実験』へ。タランティーノは天才だが、少し才に溺(おぼ)れすぎている気がしないでもない。
     コツン、コツン、大丈夫ですよ、ドン、きゃあ! ドン、ぽいっ。
     エスカレーターがある吹き抜けはガラス天井になっていて、やわらかな光が差し込んでいた。そこを通り過ぎるたび、得もいわれぬ崇高な気持ちになった。
     コツン、コツン、大丈夫ですよ、ドン、ドン、嫌っ、やめて、お願い、ドン、ドン、 ぽいっ、ドン、ガチッ、ちぇっ、ぽいっ。
     通路の正面から走ってきたカップルが、佑月を見て足を止めた。馬鹿じゃないの? なんで足を止めるんだ? そのままのスピードで駆けてこられるほうが弾を当てにくいのに。
     白鳥広場でもそうだった。目の前で人が銃殺されているのに、ほとんどの客は動けずにぽかんとしていた。まったくの木偶(でく)人形、当てやすい射的の景品。まあ「その他大勢」とはこんなものだろう。見せ場もなく死ぬような連中は、しょせんエキストラ、モブ要員にすぎないのだ。
     ドン、ドン、ぽいっ。あれほど重たかったショルダーバッグが羽のように軽くなってゆく。
     そろそろ目的地が見えてくる。この計画を思いついたとき、まっ先に決めた旅のゴール。丹羽佑月という登場人物のエンディング、消失点。

     
  • 【第162回 直木賞 候補作】川越宗一「熱源」

    2020-01-10 14:46
    序章 終わりの翌日


     トラックが荒い運転に揺れ続けている。
     幌が張られた荷台は薄暗い。ひしめく十二名の兵士の汗、饐えた体臭、遠慮ない八月の熱。それらが混交した、粘つくような蒸気が充満している。
     寒い。
     私は掌で首の汗を拭いながら、間違いなくそう感じる。正確には、凍えるような寒さに骨を摑まれているような、妙な感覚がずっと体から離れない。いつからそうなったかは覚えていない。けど戦場に出るまではなかった。
     両手を、肩にもたせ掛けた銃へ抱くように回した。この数年間、敵兵や女だからありえる面倒から私を守ってくれたのは、この銃だけだった。
     誰も何も話さない。エンジンの唸りと不整地に転がるタイヤの音だけが、ただ続く。
     無理もない。私は他人事のように思う。五月にドイツを下したばかりの私たちソヴィエト連邦の兵士は、これから新しい戦場へ駆り出される。
     新しい戦争の相手は、日本(ヤポーニヤ)という。いまやたった一国で世界と戦う極東の帝国。すでに満州とサハリン島で、戦闘が始まっている。
     外から喧騒が荷台に差し込んでくる。目的地が近付いてきたらしい。解放感に駆られたのか、兵士たちはぽつぽつと会話を始める。
    「クルニコワ伍長」
     私の右隣に座る兵士が囁いてきた。大柄な上体に載せた角ばった赤ら顔は、煉瓦のように見える。
    「もし自分が死にそうになったら――」
     赤ら顔はいかにも哀れっぽい声を使った。
    「キスしてもらえませんかね」
     周りから、品と悪気のない笑いが薄くさざめく。
    「伍長くらいの美人とキスできるんだったら、命の一つや二つ惜しくない。伍長の赤褐色の髪はきっと美しい。せっかくなんだから男みたいに刈り込まず、伸ばした方がいいです。その珍しい紺色の瞳はどんな男も一目見ただけで――」
    「黙ってろ、ルィバコフ上等兵」
     感じた煩わしさを、私はそのまま言葉にした。
     赤軍には女性の兵士も少なくない。とはいえ数は男のほうが圧倒的に多い。自分の女性的な特徴をあげつらわれるのは慣れていたし、言った奴に常に圧し掛かっている死の不安を思えば、別に腹も立たない。ただ、面倒であることは否めない。
    引き裂くようなブレーキ音と共にトラックが急停止した。男たちは姿勢を崩す。
    「到着だ。降りろ、もたもたするな」
     助手席を降りてきた軍曹が怒鳴る。無言で硬質な表情に戻った兵士たちは背囊を背負い直して銃を担ぎ、舟型の略帽を被り直してぞろぞろと降車していった。
     地面に降りると、まとわりつく熱気を潮風が一気に拭ってくれた。夏の眩しさに思わず目を眇める。霞む視界に澄んだ藍色の海が広がり、戦場の泥や埃から解き放たれたように感じたが、もちろん錯覚だった。
     コンクリートで舗装されただだっ広い一帯は騒然としている。クレーンが戦車や各種の車両、大小の砲を次々と吊り上げ、隙間なく接舷された輸送船に下ろしている。続々と到着する兵士たちが船のタラップを上り、あるいは艀で運ばれる。
     タタール海峡(間宮海峡)を望むソヴィエツカヤ・ガヴァニ港の埠頭は重機の唸り、軍靴の足音、作業を阻む強い潮風への悪態、苛立った号令で溢れている。
    「整列、気を付け」
     軍曹が吠える。指示通りに小隊は並び、踵を鳴らす。
     背筋を伸ばした私たちの前に、中隊長のソローキン大尉が長靴を鳴らして現れた。物憂げな眉目をしていて、削げた頰と青髭がどこか冷たい印象を与える。
    「諸君、いよいよ戦闘が始まる」
     中隊長は細い顎を震わせて、勇ましく演説を始めた。その脇で中隊附の若い将校が、持って来た木材をイーゼルのように三脚に組み上げ、大きな地図を掲げた。口に針を引っ掛けて釣り上げた魚のような形の南北に細長い陸地の図に、私はまだ知らされていない戦場の大体の見当をつけた。
     サハリン島。ここソヴィエツカヤ・ガヴァニ港からタタール海峡を挟んで百キロほど東にある。
    かつては全島がロシア帝国の領土だったが、四十年前の戦争で島の真ん中あたり、北緯五十度から南を日本が領有している。
    「八月九日の開戦以来、満州へ侵攻した我が軍は順調に進撃を続けている。サハリン島でも国境地帯で優勢にある」
     つまりサハリンの我が軍は、国境で釘付けになっているらしい。
    「我々はこれより船でサハリン島へ向かう。今日の夜に出航して明日の朝、国境から六十キロほど南、日本軍前線の後背にあたる塔路なる港町に奇襲的に上陸し、一帯を制圧する。重要な役目である、勇戦すべし」
     そこで中隊長はいったん言葉を切り、兵士たちを見回した。
    「ひとつ伝えておく。昨日十四日、日本は降伏した。本日正午には皇帝自ら、ラジオ放送で国民にも知らせている」
     ざわめき始める兵たちの機先を制するように、中隊長は声を張り上げた。
    「だが、奴らは不法にも我が軍との戦闘を停止していない。我々も容赦はしない。地球に残った最後のファシストどもが死を望むならば、我々はそれを与えるだけだ」
     戦争とは、どうやったら終わるものなのだろう。私は不思議に思った。
    「これは正当な戦いだ。四十年前に奪われたサハリンの半分を、我らの手で取り返すのだ」
     勇ましい口調で、言い訳がましく中隊長は付け足す。戦争を続けたいのはソヴィエト連邦のほうかもしれない。
     以上、と中隊長は締めくくる。兵士たちがばらばらと敬礼すると、続いて下士官たちが「乗船だ、支度をしろ」と威張り始める。兵士たちは機械のように無表情に動き出した。
    「クルニコワ伍長」
     いつのまにか横に立っていたソローキン中隊長の声に、私の体が勝手に動く。背筋を伸ばし、軍靴の踵を鳴らす。
    「話がある、ちょっといいかね」
     中隊長は青く細い顎を撫でながら言った。中隊長が兵隊に直接話しかける機会は稀だ。けれど、何の用か訝るような人間らしい心の動きは兵隊には許されない。
    「はい(ダー)」と答えて、先に歩を出した中隊長の背中についていく。「進め」という号令と、気怠げな行軍の足音が背後から聞こえた。
    「きみは後から合流すればいい」
     私がわずかに感じた心配を先回りするように中隊長は言った。兵隊たちの前で空疎な言葉を並べていたさっきと違い、口振りに理知的な雰囲気があった。
     船積みの喧騒の中を、私たちは無言で歩く。潮風はなお強く、クレーンにぶら下げられた戦車が大きく揺れる。作業員たちが悪態を吐き、白地に青い横縞のシャツを着た水兵が歩兵と言い争っている。乗船を待つ兵隊たちに政治将校(ポリトルク)が戦争の意義を熱心に説いている。
    「兵隊になる前はレニングラード大学の学生だったそうだな。何を学んでいたのかね」
     不意に言いながら中隊長は歩速を落として、私の右に並んだ。それから、私の表情に気付いたのか苦笑した。
    「きみが魅力的であることに異論はないが、他意もない。新しい部下のことを知りたいだけだ。百七人だったか、きみが撃ち殺したファシストどもは」
    一週間ほど前に上官になったばかりの男は、パンの数でも数えるように言う。私は「はい」とだけ答えた。
    「百八人目に手を挙げる勇気は私にはないね。で、大学では?」
    「民族学です」しかたなく答える。「卒業はしませんでしたけど」
    「なぜ民族学を」
    「なんとなく」
     素っ気なく答えたのは、説明がいやだったからだ。中隊長もそれ以上は聞かなかった。
     その時に相思相愛だった蒙古(タタール)系の若者について、より深く知ることができるかもしれない。今となれば何の意味もない理由だった。深く知る前に恋人は死んでしまった。
    「卒業しなかったのは」
    「軍に志願したからです」
     大学に入学した翌年、一九四一年の六月。ドイツ軍がソヴィエト連邦に濁流のようになだれ込んで来た。国中がとつぜん祖国愛に目覚め、無数の若者たちが軍に志願した。彼らは続々と前線に送られ、ドイツ戦車のキャタピラに残らず踏みつぶされた。その中には私の恋人もいた。あの混乱の中、戦死の報が届いたのは奇跡だったろう。
     ドイツ軍は九月にはレニングラードの近郊に到達した。男がほとんどいなくなった街で大学の女友達四人と徴兵事務所に飛び込んだのは、その時だった。
     ソヴィエト連邦の各地で、私のような女たちが前線を求めた。戦争の熱狂、突撃の号令、重砲の援護、機関銃のうなり、敵の断末魔、そして復讐の許可を望んだ。男のように髪を刈り、粗製濫造の見本のような軍服に袖を通し、雪解けのぬかるみに転がり、爆風をくぐり、銃を撃ち、手榴弾を投げ、吠え、泣き、戦った。
     ドイツ軍はまるで中世の城攻めのようにレニングラードを包囲した。増援も燃料も食糧も途絶えた街を、砲弾と冬と飢餓が襲った。かつてはロシア帝国の帝都サンクトペテルブルグだったこの街に遺された貴重な家具や図書の類は、食べ物でないものを食べるための煮炊きや一時の暖のために、あらかた燃やされた。すぐに摘発されたが、人肉を売る店も出た。私の両親の命を奪ったのは砲弾だったが、避難できるだけの体力は飢えと寒さがとっくに奪っていた。
     言った本人に直接聞いたわけではないが、ヒトラーはレニングラードを住む人ごと地上から消滅させようとしたらしい。スラブ人などソヴィエト連邦の諸民族は劣性民族で、適度に間引いて奴隷にするのがちょうどよいと思っていたそうだ。
     こうして私が生まれ育った街から、私を生み育てたものは無くなってしまった。死体と瓦礫と廃墟の中を駆け回り、私はファシストの金ぴかの階級章を撃ち抜いていった。
     寒い。そう感じながら足掛け三年の月日を持ちこたえるうち、戦況は逆転した。ドイツ軍は包囲を解いて後退し、いつのまにか私たちの砲弾がベルリンに降り注ぐようになり、戦争は終わったはずだった。
     視界が眩しく拓けた。輸送船が出港して行ったばかりの岸壁に、私と中隊長は立っていた。空は曇りがちだが、晴れ間が青白く光る。ひっきりなしに船舶が往来する細い入江の先に海が広がり、水平線が薄い靄に霞んでいる。
    「アレクサンドラ・ヤーコヴレヴナ・クルニコワ伍長」
     改まった呼び方に振り向くと、ソローキン中隊長は手を後ろに組んだ将校らしい姿勢で私を見つめていた。
    「はい」
     何度目かわからない返事をすると、中隊長は辺りを見回した。船を見送ったばかりの作業員や水兵たちはあらかた引き揚げていて、太いロープを始末する数人が遠くにいるだけだった。
    「ベルリンで政治将校を射殺したらしいな」
    「はい」
     事実だから、答えは端的になる。