プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は『週刊ゴング』の創刊と休刊まで……。 イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!



<参考記事>
汚れたハンカチ王子騒動……ベースボール・マガジン社の黒歴史/ターザン山本インタビュー

『週刊プロレス』と第1次UWF〜ジャーナリズム精神の誕生〜■「斎藤文彦INTERVIEWS⑥」





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ターザン山本さんや斎藤文彦さんに『月刊プロレス』が『週刊プロレス』に週刊化した当時の話を聞いてるんですが、ライバル誌だった『月刊ゴング』はどのような経緯で週刊化に踏み切ったんですか?

小佐野 『週プロ』の週刊化が83年の7月ですよね。翌年の5月に『月刊ゴング』も週刊化するんですけど。あの当時のプロレス雑誌って『月刊ゴング』と『月刊プロレス』の2強時代だったんです。

――月刊時代の売り上げは『月刊ゴング』が上回っていたそうですが、『月刊プロレス』の週刊化が脅威となったんですか?

小佐野 いや、週刊と月刊だと読者層やパイが違うじゃないですか。売り上げ云々は関係なかった。ただ、81年から『ビッグレスラー』や『エキサイティングプロレス』といった雑誌が相次いで創刊されましたよね。その雑誌も『週プロ』に続いて週刊化されたら、さすがにマズイんじゃないかという会社の判断があったんですよ。

――『ゴング』だけ取り残されてしまうんじゃないかと。

小佐野 ちなみに当時の『月刊ゴング』の編集長は竹内(宏介)さんじゃないんですよね。竹内さんは編集顧問という立場で日本スポーツ出版の社員ではなかった。竹内さんが日本スポーツ出版を退社したのは198012月。

――かなり早い時期に辞められてるんですねぇ。退社の理由はなんだったんですか?

小佐野 ひとつには『月刊ゴング』創刊から携わってるから自由にやりたいという気持ちや、会社への不満もたぶんあったんでしょうね。

――竹内さんはもともと『月刊プロレス』の編集長でしたけど、ベースボールマガジン時代から反骨精神が強い方ですよね。
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作/アカツキ

小佐野 その頃のボクは大学1年生で『月刊ゴング』のアルバイトという立場だから裏側のことは何も知らない。竹内さんが退社後は。ボクシングとキックの担当だった舟木(昭太郎)さんが編集長になったんです。

――のちに『ゴング格闘技』創刊に携わる舟木さんですね。

小佐野 『ゴング』編集部の正式な社員は竹内さんと木さんだけだったんです。アルバイトで宍倉(清則、のちに『週刊プロレス』次長)さんとボクがいて、嘱託でウォーリー山口さん、ボクシング担当のアルバイトで原(功)さん。

――『ゴング』には巨大帝国のイメージがありますけど、少数精鋭での制作だったんですね。

小佐野 月刊誌ということもあったし、基本は外部への依頼原稿ですからね。舟木さんはプロレスのことはよく知らないので、実質竹内さんひとりで作っていたんですよ。その竹内さんが離れることになったので、それまでバイトだったボクが編集者にならざるをえなくなったんです。立場はアルバイトだけど、ひとりの編集部員。それまで一般の会社勤めをしてた清水(勉)さんが入社し、ボクが新日本プロレスの私設ファンクラブをやっていたときの仲間だった小林(和朋)くんも加わって、編集部のかたちができてきたんですね。

――当時の日本スポーツ出版にはどれくらいの人間がいたんですか?

小佐野 あの頃は『イレブン』というサッカーの雑誌もあったけど、20名いるかいないかの小さな会社ですよ。

――『月刊プロレス』のベースボールマガジン社よりは会社規模は小さいですが、売り上げは『月刊ゴング』のほうが上だったんですよね。

小佐野 だって面白さが全然違いましたから。ファン時代から『月刊プロレス』と『月刊ゴング』を読んでいたけど、『ゴング』のほうが圧倒的に面白かった。

――何が決定的に違ったんですか?

小佐野 『ゴング』には遊び心があったんですけど、一番はビジュアルですね。創刊してすぐに『ゴング』は2ページのカラーグラビアを導入したんですけど、それがもう衝撃的で。それだけで売り上げが違ったといいますね。

――カラーグラビア2ページだけで?

小佐野 ボクが『月刊ゴング』を初めて買ったのは昭和45年本誌6月号なんです。表紙をパッとめくるとドン・レオ・ジョナサンのハイジャックバックブリーカーのカラー写真が掲載されていて、裏面がアントニオ猪木のコーナーからのキック。モノクロ特集ページでは囚人男コンビクトに密着していて、コンビクトが洗面所で顔を洗ってる姿を後ろから隠し撮りしてるような写真が載ってる。子供心にはもう大興奮ですよ(笑)。

――試合写真を画一的に載せる編集ではなかった。

小佐野 竹内さんは美術部出身だし、映画も大好きだから。映画のポスターみたいにビジュアルを大切にしてたんですよね。たとえばスカル・マーフィーが来日したら、ゴムの骸骨のおもちゃをかじらせて写真を撮ったり、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックにはビール瓶の横で手を広げさせて、その手の大きさを見せつけたりとか。読者の視覚に訴える編集をやってたんですよね。

――いまだに小佐野さんの記憶に刻まれてるわけですもんね(笑)。

小佐野 『ゴング』は昭和433月創刊(本誌5月号)なんですけど、最初グラビアページがディック・ザ・ブルーザーのアップの顔に馬場さんの16文キックの足がのめり込んでる写真。記事の見出しは「16文キックの正体」。馬場さんは足しか見えない。写真をそんなトリミングをする編集者、当時はいなかったんですよ。

――記事内容にも違いはあったんですか?

小佐野 あの頃の『ゴング』は『東スポ』の桜井康雄さんが主筆だったのかな。実際に海外取材していたわけではなく、写真からイメージを含まらせて書いていたと思うんだけど(笑)。

――想像だけで「マスカラス、ドロップキック22連発!」と書いたファンタジー活字ですね(笑)。

小佐野 『ゴング』は海外情報が強かったし、「私のプライバシー」という企画ではプロレスラーたちが衣食住を語っていたりして、読者の質問でインタビューをする企画もありましたね。その一方で門茂男さんの連載があったりして……

――門さんって暴露系の色が強くて当時からすれば異色の存在ですね。

小佐野 いま読むとけっこう踏み込んだ内容なんですよ。馬場と猪木のライバル物語「獅子と龍」という連載なんだけど、まあこれが生々しい……。「え、馬場と猪木は心の中でこんなドロドロしたことを考えてるのか……」って。子供として読むと幻滅する内容。というように、硬軟織り交ざっていて『ゴング』はプロレスのおもちゃ箱みたいな本だったんです。

――読者時代の『月刊プロレス』で印象に残る企画はありましたか?

小佐野 ないですねぇ。

――ない(笑)。

小佐野 『月刊プロレス』は内容が地味だった。向こうは鈴木庄一さんが主筆だと思うんですけど、鈴木さんの記事は文体が古かったんですよね。インタビュー記事にしても、どう読んでもその選手のしゃべり口調じゃなかったする。選手が「~~あろう」なんて言わないでしょ。

――キャラクターができてないんですね。

小佐野 なので『月刊ゴング』との差は開く一方だったと思いますよ。

――巻き返し策として『月刊プロレス』は週刊化することになるんですね。

小佐野 さっきも言いましたが、舟木さんは『ビッグレスラー』や『エキサイティングプロレス』があとを追って週刊化したら大変だという考えがあったんだと思うんですよ。

――早めに手を打って『月刊ゴング』も週刊化するべきだと。

小佐野 ただ、竹内さんは週刊化に反対だったんです。その理由は、週刊化するとスキャンダルを扱わないといけなくなるから。

――『週プロ』の週刊化がうまくいったのは、毎週のように事件が起きて刺激的な誌面が作れたからという話ですね。

小佐野 あの夏に新日本内部でクーデターが起きたことは『月刊ゴング』も記事にはしましたけど。それまでは外国レスラーが来日するとかがメイン記事であって、スキャンダル系はせいぜい引き抜きくらいですよ。それも月刊時代の『ゴング』がスクープしちゃってましたし。

――『月刊ゴング』がスクープに強かった。

小佐野 そこは他の雑誌とは信頼度が違いましたよ。竹内さんと馬場夫妻、竹内さんと新間さんの絆は深いから太刀打ちできなかった。だって新聞相手にも負けなかったですから。

――月刊誌が新聞に負けないって凄いですよ!(笑)。

小佐野 でも、レスラーの引き抜きはまだしも、リング外のゴタゴタやスキャンダルを竹内さんが追いたくなかったんですよ。『週プロ』と我々のやりたいことは違ったというか……あの当時の山本さんはプロレス界の梨元勝みたいなイメージがあったんですよね(笑)。

――ワイドショー型マスコミだった。でも、竹内さんはそこで勝負はしたくなかったんですね。

小佐野 竹内さんは週刊化するなら関わらないと。実際に最初は『週刊ゴング』には関わらなかったんですよ。週刊化された以降も『月刊ゴング』は2年ほど出続けて、竹内さんはそこで自分の好きな本を作り続けていたんですよね。なんだかんだ週刊化にはアドバイスをしながら、竹内さんは自分のやりたことを貫いていた。『月刊ゴング』がなくなったあとは『週刊ゴング』でも記事を書いてましたけど、時流を追うことはしない。ある意味で贅沢な編集者生活ですよね(笑)。

――ベーマガが『週プロ』と月刊誌の『デラックスプロレス』を出していたように、『週刊ゴング』と『月刊ゴング』の2誌体制だったんですね。

小佐野 月刊のほうには竹内さんと清水さん、週刊にはボクと小林くん、海外担当のウォーリーさん、あとファンクラブ仲間でもあった田中(幸彦)くんが新入社員として入ってきた。自分の意志ではなく否応なしに週刊に回されたんです。竹内さんも清水さんもいない。編集長の舟木さんはプロレスを知らないから、柱は経験の浅いボクと小林くんなんですよ(笑)。

――相当厳しい船出だったんですねぇ。

小佐野 もう大変でしたよ。週刊化3号目でUWF分裂問題を取り扱ったんですけど。竹内さんと仲のいい新間さん取り計らいで、ボクはハワイに飛んで、当時UWF所属だったラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田のフリー宣言をスクープしてるんですよ。

――UWFから離脱する、と。

小佐野 でも、選手たちは帰国すると「あの記事は捏造だ」ってひっくり返した。ボクは捏造記者になってしまったんですよ(苦笑)。

――いったい何があったんですか?

小佐野 団体を続けたいUWFの反・新間派が「そういう事実はない」としたかったんでしょうね。帰国したレスラーたちと話をしてフリー宣言を撤回させて、記者会見で捏造と発言させた。ボクのスクープは作り話ではあるとされてしまったんですよ。あのときの新間さんの計画では、UWFの選手全員にフリー宣言させて、「UWF軍団」として全日本に上がる、と。馬場さんもOKを出していたんですよ。その流れに沿ってボクは動いてたんですけど……

――UWFの反・新間派の巻き返しにあってしまったんですね。

小佐野 こうして捏造記事を載せたということで、週刊化したばかりの『ゴング』の評判はガタ落ちになってしまったんですよねぇ。

――UWFとの関係も悪くなりますよね。

小佐野 当時佐山さんの個人マネージャーだったショージ・コンチャがUWFとくっついて、佐山さんがザ・タイガーとして復活するんですけど。ショージ・コンチャは新間さんと仲が悪いので『ゴング』を取材拒否してたんですよ。

――佐山タイガー復活を『ゴング』は扱いづらくなりますね。

小佐野 そこでの救世主は三沢タイガーだったんです。佐山さんが復帰した無限大記念日の前日に三沢はメキシコから帰国。『週プロ』は無限大記念日の模様が表紙、こっちは虎のマスクを被った三沢の2代目タイガーマスクが表紙だった。

――虎対虎の報道合戦(笑)。

小佐野 そのあと『週プロ』はUWF路線を突き進むんですけど、9月に新日本から選手大量離脱劇が起きて、長州たちがジャパンプロレスとして全日本プロレスに参戦するじゃないですか。そこは『ゴング』の独壇場ですよ(笑)。仕掛け人の大塚(直樹)さんのことはファンクラブの頃から知ってるし、ボクは高校時代に大宮スケートセンターで長州さんの取材もしたことあるんです(笑)。ボクは週刊化に伴って全日本担当になったんですけど、その頃になると馬場さんも担当記者として認めてくれて、いろいろと話せる間柄になりましたし。

――最初は戸惑いがあった週刊記者の生活が楽しくなってきたんじゃないですか? 

小佐野 楽しかったですねぇ。取材で走り回ってる時間が楽しくて楽しくて。それにボクはおもちゃ箱のような雑誌を作りたくても、竹内さんのようなデザインセンスに優れてなかったので(笑)。週刊誌は自分でレイアウトしてる時間がないから社内デザイナーにすべて任せますから。

――ライバル誌の『週プロ』も動きは気になりました?

小佐野 あの当時『週プロ』から誰が全日本に取材を来ていたのかもおぼえていない。それくらい気になってなかった。印象に残ってるのは、UWFが潰れるか・潰れないという時期に福島でUWFの興行があって。「これが最後の興行かもしれない」ということでなぜかボクが取材に行かされたんですよ。興行終わりの帰りの電車の中で原稿を書いていたんですけど、違う席で山本さんも何か書いてたんです。「山本さん、何を書いてるんですか?」って覗いたら、たぶん佐山さんの連載手記なんですよ。ちなみにボクは大塚さんの連載手記を書いていて(笑)。

――お互いの色が出てますね(笑)。『週プロ』と取材姿勢の違いは感じましたか?

小佐野 ボクはプロレスラーに対して同じ業界の人間という接し方でしたね。マスコミとしては間違ってるかもしれないけど、みんな同じ仲間。レスラーもそういうふうにボクらのことを迎えてくれたんですね。逆に『週プロ』はレスラーと一緒に飲んだりしてバカやったりはしない。

――距離を取っていたんですね。

小佐野 かといって、『ゴング』が記事に手心を加えるかといえば、決してそんなことはなかった。ボクとしてはその選手にとってイヤな記事を書くとするじゃないですか。「アイツに書かれるなら仕方ない」と思われるくらいの関係になろうと。

――それは難しい作業ですね。

小佐野 それでも結局、全日本担当記者時代には、個人として取材拒否を2回受けてますからね。