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>>15 追記
シングルの男性、シングルの女性が増えています。結婚の選択が低くなっており、人口減少社会の歯止め方策を政府が考えており新しい税制を敷こうとしているようです。本質的には移民受け入れの選択が不可欠と見ていますが、あなたは移民についてどのように考えていますか。以前反対のようなコメントを見たように記憶しております。いかがでしょうか。
>>16
おはようございます。コメントありがとうございました。
今晩以降、ここに考えを記していきたいとおもうので、孫崎さんの記事はすすみますが、またここを御覧ください。
演劇「太平洋食堂」国際交流基金Stage Beyond Borders はこちらから無料視聴できます。(日・英・仏・露・中・スペイン語字幕つき)
https://memento-c.com/ThePacificFreeView.html
>>9
私のコメント孫さんのメルマガを読んでの感想です。あなたにはなにも関係ありません。。絡まないでください。
記事を読み返してみると
>>まさに香港の民主化弾圧と同様の効果を
とか、ちゃんと書いておられる。昨日の孫崎さんの放送はまだ見ていないのだが、嶽本あゆ美氏は、目配りの効いた方なのだろうなと感じた。台湾についてはどのような発言をなさるだろうか。
>>16
change さん、おはようございます。移民についてどう考えるかということですが、今回の記事に関連してもう少し書きたいので、さきにそちらをかたづけます。
14で「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」について書きましたが、これはまさに「社会主義」とか「無政府主義」などと同じく、当時最先端の「イデオロギー」「主義」だということを申し上げたかったのです。
透谷は引用した文章の冒頭近くで、
「悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず。徳川氏時代の戯作家は言へば更なり、古への歌人も、また彼の霊妙なる厭世思想家等も、遂に処女の純潔を尊むに至らず、云々」「夫れ高尚なる恋愛は、其源を無染無汚の純潔に置くなり。純潔より恋愛に進む時に至道に叶へる順序あり云々」とあります。日本には(特殊な状況・文脈で処女を重視したというようなことはあったに違いないとおもいますが)、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」、つまり、性体験のない男女が出会って恋愛し、それが結婚に通じ、愛情にもとづきながら結婚生活を維持して、子孫を残していく、というような考え方はなかったことを透谷は嘆いているわけです。
しかし当時日本人の庶民の9割以上は農民で、とくに豊かでもない普通の農民であれば、いまでいう中学2年、3年生くらいになれば、労働も一人前、性愛も一人前、というわけで、男も女も「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」などなんのこっちゃという感じだったでしょう。changeさんが9で一端を議論しておられるような結婚観のほうが、よほど当時の庶民にしっくりきたはずです。もちろん乱倫だったというようなことはなく、それなりの秩序があったに違いないのですが、そういう状況を、当時日本にやってきた、無知だが善良な欧米白人中流婦人がどうみたか、というようなことを考えてみたくなります。
くわしく展開しませんが、「処女の純潔」が意識されるのは、女子の高等教育普及と無縁ではないというようなことは直感的に理解していただけるのではないでしょうか。
さて、そこから百数十年、今では、ただの庶民が、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」を主張したり、反米革命を希ったりするほど偉くなったわけですが、その(十分条件とはいえませんが)必要条件はなんだったのか。
ひとつは、明治維新からはじまる西欧近代を模範とした日本の近代化であり、戦後についていえば、1950年代頃の米国に強く影響された米国支配ということになるだろうと考えています。
まあ、それだけなんですが、こういうことにどうも無自覚なヒトビトが多い感じをいつも受けているので。
なかなか移民にいきつきませんが、今晩以降、もう少しここで続けます。よければおつきあいください。
>>22
あなたお真摯な物事に対する考え方を理解しました。
私は共鳴できるかできないかより、その人がその人なりに一生懸命考えれば、親であってもとやかく言うべきではなく、子供に体験させる事が大切だと考えている人間であり、実行してきました。
子供の一人は、自分で選択した国立大学に現役で入学しながら、自分の生きる道を真剣に考えたのでしょうか。2ヶ月ほど通ってから退学し翌年にほかの国立大学のほかの学科に入学しなおしました。
移民の問題は、私自身が日本という国をどのように持っていくか、解決していません。りゃんさん自身にも未解決の問題が横たわっているのであれば、あなたの考え方を問いません。なかったことにしてください。ただ、移民問題は、人権の基本問題であり、人間に対する慈悲の心でもあり、深い洞察が必要であり、「信じる」という世界に入ると理解はしています。宗教が欠かせないと見ているのです
>>22
>1950年代頃の米国に強く影響された米国支配ということになるだろうと考えています。まあ、それだけなんですが、こういうことにどうも無自覚なヒトビトが多い感じをいつも受けているので。
「自覚」があるから、あなたは米国に追従し、傀儡になるわけですね。相変わらず、スキだらけの粗雑さ。
あなたのいうヒトビトはどうでもよいのです。一人称のみでどうどうと自分の意見言ったら、いかがか?
もはやchangeさんがご覧になるかどうかもわかりませんが、続きを書きます。
今回は、大石誠之助の人物像についてです。劇は(この欄で紹介くださっている方がいますが)見てないのですが、今回記事の嶽本あゆ美氏の文章からすると、大石は、サヨクっぽいヒトビトにとって、ちょっと進んだ、見習いたい、素晴らしいセンパイ、と言った感じで描かれているようです。みなさんのコメントを見ても、そういう捉え方に誘導されているとおもいます。
創作においてそういう描き方をすることになんの問題もないし、事実、そういう面がおありだっただろうとは思います。いまウィキペディアでみると、2018年には、「人権思想や平和思想の基礎を築いた」として新宮市の名誉市民に認定されているようです。素晴らしい人物ですね。
しかし、アナキズムに傾倒し、幸徳秋水や堺利彦らとも交流があったひとが、当時の水準において、ただの素晴らしいだけの人物だったのだろうかとおもうのです。想像でしかありませんが、天皇に危害を加えるような会話は集まりの際に確実になされただろうとおもっています。そうでなければアナキストでも社会主義者でもありません。大石は「止める側」だったのかもしれませんが。
もちろん、それが共同謀議の水準に達していたという証拠などないだろうし、いずれにせよ、現代の水準からすれば、旧刑法に規定のあった大逆罪そのものが現行憲法からして違憲ですが、しかし、つい最近も、孫崎さん自身が、人権においては各国には各国の水準があるのではないか、それを米国流で押し付けてはならないとも要約できるようなことをおっしゃったとおもいます(わたしの言葉での要約です)。さらにその現行憲法そのものが、たとえば罪刑法定主義にしてもベッカリーアにはじまる西欧近代の所産を受継しているし、言論の自由にしても同様です。
ところが、自分たちの立っている場所が西欧近代のいきついた場所であり、それにそって日本が近代化されたからこそ、庶民も偉くなったのだ(これについては前回書きました)という自覚のなさそうなヒトビトが、罪刑法定主義にしても言論の自由にしても大逆事件当時の日本レベルでありそうな露や中国を熱烈に支持している。
大石誠之助は、こういうヒトビトに「ちょっと進んだ、見習いたい、素晴らしいセンパイ」とおもわれても、なんだか孤独を感じるのではないかとおもうのです。ま、こういうヒトビトは、問題の所在さえもわかってないようですが。
次回で最後です。次回は移民について書きますが、じつは、いままで書いたこととまったく無関係ではありません。
今回は移民についてです。今回で最後です。
数年から十数年くらい前ごろには、さかんに移民について議論がなされていたとおもいます。自民党の一部からは移民一千万人計画が提唱され(たとえば毎年20万人を50年間つづける)、当時の民主党の一部からも同様な提唱があったはずです。さらに大人数を提唱する野党もあったかと記憶があります。また安倍政権下で日本は本格的に労働移民をうけいれはじめました。
日本には外国人が出入りしており、そのうちの一部が日本に定住することは不自然ではありません。何人と具体的にいえるものではないですが、少数の外国人を受け入れていくことに反対するものではありません。ただ、在日韓国朝鮮人など、経緯上受け入れざるを得ませんでしたが、彼らの一部は本国とからんで、日本社会にマイナスのインパクトを与えたこともあったことを忘れるべきではありません。
そして、今問題の移民は、オリジナルの日本人の人口が減る中、労働移民として今後数十年かけて千万人単位の外国人を受け入れるというものであるものだということを認識する必要があります。
これについて右寄りの議論をみていると、おおむね「グローバリズム勢力の日本弱体化計画」という観点が多いですが、そんなことよりも、日本社会がそういう外国人増加に単純に耐えられないと考えています(移民に関連して欧米でおきているような問題がさまざまおきるようになる)。
明治の近代化は知力体力行動力などにまさる精鋭が、主として外国に出て異文化をもちこんだものです。それをチャンスとして栄達したひとびとも多いでしょうが、大石誠之助は幸福な死に方はしてないし、漱石はロンドンで精神病になりました。かれらはそれでも名を残しましたが、その何倍のひとびとが、ただ斃れただけだったと想像しています(たぶん探せばそういう研究もあるとおもいますが、今のところ知りません)。
労働移民は、生きて生活している異文化が、知力体力行動力がふつう(あるいは日本人の高齢化をおもうとふつう以下)の日本人の隣にやってくるものです。それとも、日本人の済まない過疎地に、移民だけの集落がつくられて住むようになるかもしれません。数十年かけはするが、千万人単位で。
明治の近代化で異文化を受け入れることは必然的だったとおもいます。しかし、経済成長のために異文化を、上に述べたようなかたちで受け入れることがはたして必然なのか。
わたしは経済成長は必要だという論者ですが、経済成長のために移民が絶対に必要なのなら、経済成長しなくてもいいとおもっています。そういう優先順位で考えています。
他でも書いているので、ほとんど書きっぱなしで推敲できてませんが、趣旨をくみとっていただければとおもいます。