『戦後史の正体』は2012年8月に出版した本である。日本の外交・安全保障政策が対米依存を強める中で、その理解には占領時代からの流れを理解しなけらばならないと思い書いた。
その後、日本の外交・安全保障政策はますます米国への隷属性を強めた。
そして多くく変わったのは、日本のマスコミは米国政府の見解に合致したもののみを流し、対ウクライナ戦争、対中政策等これらに批判的な変化的見解はほとんど主要マスコミに出てこない。
そうした中、大阪の経済界の団体、「クラブ関西」で「日本―対米従属の形成過程ー」を講演した。これについては次の発信をした。
「ウクライナ問題や中国問題、今日日本のマスコミは一方的見解を流し続ける。これに接する多くの日本人に「実は」と言っても反発をかうだけ。その中歴史を振り返り異常さをわかってもらおうと「日本―対米従属の形成過程ー」の講演依頼が来たのでないか。私の印象。」
勿論、『戦後史の
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私は、前の投稿で、「ウクライナ応援団左翼はネオコン、戦争屋と同類に成り下がったと見ている」と書いたが、改めて自分で書いてみて、自分でシックリいったというか、自分なりに切り口が整理できたな、と思ったので、少し更に展開したい。
といっても、実質的には例によって親米批判(悪口?)に関する分析視角に過ぎないので、またか、というムキには読み飛ばしていただきたい。
では、述べさせていただく。
今、ウクライナ応援団は、左翼であろうとネトウヨであろうと、皆親米というよりは、もっと悪質なネオコンの論理と同一である、という意味で、実質的な親ネオコン論者である、と規定したほうがよい、と考えている。
ウクライナに対する武器支援に賛同し、戦争継続を支持するウクライナ応援団はネオコンと同じ立場にたっている。だから、親米というより、親ネオコンとすることが、実質的本質的に正しい評価であるから、そのように批判する必要がある。
こう評価したほうが、何が問題か、より焦点が絞られると考える。
また、例えば、現下のパレスチナ戦争については、「米国やイスラエルが正しいなどとは一言も言っていない。」などと言いながら、ハマスの軍事力行使をテロと断罪し、ポグロムを持ち出して、何故か英米西側批判せずにロシア批判をするのも、親ネオコン論者的手法の一種ではないか?
その証拠にゼレンスキーはいち早くイスラエル支持を打ち出した。
ダゲスタンの「反ユダヤ暴動」については、「ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、反ユダヤ主義的な騒動は、ウクライナで活動する西側の諜報機関によってソーシャルネットワークを通じて組織されたものであり、世界を不安定化させるための広範な努力の一環であると述べた。」と述べている。
https://www.rt.com/russia/586268-dozens-arrested-dagestan-riot/
https://www.rt.com/russia/586307-dagestan-governor-cowardly-animals/
真相は分からない。しかし、ネオコンにはロシアを陥れる動機がある。だから、こうした闇雲な偏向したロシア批判は、実にネオコン的である。それだけではない。これは闇雲な中国批判にも当てはまる。
闇雲な中露批判、即ちアメリカ帝国ら西側の非を棚に上げた批判は、全てネオコンの論理と同じである。
だから、私はこれから、ウクライナ応援団左翼だけでなく、「米国やイスラエルが正しいなどとは一言も言っていない」と言いつつ、中露批判だけを熱心にするだけの輩も含めて、実質的に親ネオコンと規定して、批判することにしたい。
闇雲な中露批判は、親米でもネトウヨでもなく、親ネオコンである。こう見ると、問題の所在がクリアになると考えられるが、いかがだろうか?
この場合、ネオコンは、軍産複合体、戦争屋、グローバリスト、特権的エリート、ウォール街的金融資本主義者、等、庶民を喰い物にして戦争によりボロ儲けするヤツラ、全てに置き換えてもよいと考えている。
今、ウクライナやパレスチナの戦争に置いて、西側批判を抑制しつつ、何故か闇雲に中露を非難し、責任を転嫁する連中に対して、「この親ネオコンが!」と喝破することは、適切な批判の手法ではなかろうか?
>>9
全面同意です。
>>10
ご同意いただき、ありがとうございます。
問われているのは、「ネオコン」を支持するのかどうかだと考えています。
その上で、多極化する国際情勢のなかで、短絡的中露批判はネオコン的言説だと、捉え批判の目をむけることに意義はあるのではないかな、などと思いました。
こんど、ウクライナ応援団の先輩にあったら、「先輩、それ、ネオコンと同じですよ。左翼が、そんなんで良いんですか?」とか。チクリと、さりげなく、言ってみたいものです。
>>11
私は最近ポスト構造主義に魅せられてきました。中国のマルクスレーニン主義はアダムスミスを包摂し、シカゴ学派を胸に抱き、更には、中国共産党の若きブレーンはポスト構造主義のデリダを熟読してるんじゃないかと私は推測するに至ってます。
何故なら、ゼロサムを頑固否定し、ウインウイン、多極支配を発想するには二項対立の脱構築の理解が大前提とならざるを得ないと思うからです。
本の若者は科学だけでなく哲学学習にも中国の若者に劣っているのではないかとサスペクトする次第です。
>>12
>二項対立の脱構築
おっしゃるとおりですね。
かつて、組合活動家時代、交渉において、ひたすらやっていたことは、お互いの利益即ち妥協の探りあいでした。
米帝打倒!日米安保粉砕!は学生時代のスローガンに過ぎません。
わたしのホンネは、日中露米とのウィンウィンが理想です。
>>13
そうですね。
>>12
フレデイさん、こんにちは。
日本のポスト構造主義理解については、浅田彰とか東浩紀とかがブームをつくり、今でも一定程度かれらの本は売れているんじゃないですか。わたしは、ごく幼かったり、子ども時代だったりで、ブームの頃興味はなかった。
それにわたしはアラン・ソーカルの「知の欺瞞」なんかのほうに共感を感じる方で、今もそれほどは興味はないです。
しかし、文化系の知的上位層による理解という観点で言えば、たとえばドゥルーズの影響の深い宇野邦一の「反歴史論」という文章がゼロ年代の東大入試現代文の題材になっていたとおもいます。調べたことはないけど、高偏差値の大学の文化系学部の入試には、たぶんこの手の文章がよく使われているだろうとおもいます。大学側の、この程度の文章は読んでほしい(そして入学後はデリダなども読んでほしい)という気持ちのあらわれなのでしょう。
フレデイさんのお考えのように、「中国共産党の若きブレーンはポスト構造主義のデリダを熟読」しているのなら、日本から40年くらい遅れていますが、ぜひ読みこなしてすぐれた解説書が中共で出版されることを期待しています。
と同時に、「中国共産党の若きブレーン」によるデリダ読解が、習近平独裁あるいは中共共産党一党独裁をどう評価するのか、そのあたりにはたいへん興味を感じます。自分で調べる気にはならないので、なにかわかったら是非ご教示をよろしくお願いします。
>>15
>習近平独裁あるいは中共共産党一党独裁をどう評価するのか
構造主義にしても、ポスト構造主義にしても、イデオロギーの相対化が肝要ということなら、そもそも中共共産党一党独裁など、どうでも良い話。
まだ、自由民主主義の神話を信奉するのか?
多極化時代にそぐわない、古臭いネオコン的コメントである。
はは、またよく知りもしないでいっちょかみしてるね。
相対主義なら相対主義といえばいいんで、脱構築などという用語を発明する必要はないんですよ。
あなたには、サラリーマンの処世本がお似合いだと思うよ。
あ、今気づいたから、
https://ch.nicovideo.jp/magosaki/blomaga/ar2171037
にもレスしといてあげたよ。
>>17
>習近平独裁あるいは中共共産党一党独裁をどう評価するのか
これは、旧態依然とした脱構築以前の質問だ。
このレベルの質問しか出来ないのに、人のことを「いっちょかみ」などと、嘲笑う姿勢は自らの浅学蒙昧を晒しているに等しい、ということ分からないか?
私は「自由民主主義の神話を信奉するのか?」と訊いた。簡単な質問ではないか。
私が訊いた意味、理解できていないようだから、説明してやる。
今、世界は多極化している。それは、中露が世界のリーダー或いは有力なプレイヤーとしてたち現れ、BRICSやイスラム圏の大国化も著しい。
その意味では、近現代をリードした西欧文明、西欧的価値観が揺らいでいるということだ。
もっと言うなら、「自由民主主義」というネオコン的価値観が崩壊の淵にたっているということだ。
そして、「中共共産党一党独裁をどう評価するか」、という前提には自由民主主義の絶対視が無いと、基本的に質問の意味がない。
これが脱構築以前のネオコンイデオロギーでしか無いことは、現実を見るなら、理解できるだろう。
ま、具体的に言わないと、小学生には分からないかもしれないから、例示してやる。
ウクライナへの武器支援は、自由民主主義を守るためにという理屈により、正当化されている、ことを考えてみよ。これこそ、ネオコンイデオロギーだ。
しかし、そうではない、というなら、その中味を答えれば良い。
>あなたには、サラリーマンの処世本がお似合いだと思うよ。
しかるに、上記のような、低レベルな返ししか出来ず、そもそも脱構築の意味も、簡単な質問の意味も分からないなら、無視したら良いではないか?
私は批判しているだけだから、返信はいらない。質問があっても、無視してくれれば、それ以上は追求しない。これ以上、答えられないだけと見做すのみだ。