11月29日重臣会議で若槻礼次郎、近衛文麿、岡田啓介、米内光政、 広田弘毅と5名の元首相は開戦に反対である旨天皇を前に発言しています。
1941年11月5日御前会議で日本は「十二月初頭の武力発動を目途に戦争準備を促進する」という方針が決定されています。
ただ、元首相などの重臣の意見を聞くべきだとの天皇の言葉で11月29日重臣会議が開催されました。
ここでの発言を『木戸日記』を引用する形で防衛庁防衛研究所戦史室著『大東亜戦争開戦経緯(5)』が掲載しています。もともと、カタカナ文で書かれているのを、ひらがなとし、主要論点を紹介します。
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陛下より大変な時代になったねのお言葉あり、若槻直ちに之に奉答した。
(注:若槻礼次郎は元大蔵官僚、1924年から1926年首相。ロンドン海軍軍縮会議
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御前会議で方針が決まっていながら、天皇がぎりぎりになって重臣会議を開く。元首相らの話を聞く。この行為は大和朝廷の伝統美意識に従えば、「戦争しない」という下々へのシグナルだと私は考えます。
問題は、そのシグナルを軍部が汲み取れない。その多くの人材を蛮風豊かな九州(私は恥ずかしながら熊襲の末裔、ここは尚武の地)そして東北に求めた。軍部で粗野が主流になっていくのは当然の帰結。織田軍団が京都に入城した状況と同じでしょう。皇室の奥ゆかしい流儀は彼らにとっては馬耳東風。
外交で努力するにしても外務省が陸軍軍務局長の手に堕ちて、麻痺状態。日本全体が陸軍軍務局長という「ポスト」にハイジャックされている。
ここで我々は学ばなくちゃいけない。それはシビリアンコントロルです。これを可能にするのは、大仏次郎の教訓ですが、単なる政治力では駄目。パリコミューンを生き抜いていぶし銀のクレマンソーみたいな人物の存在です。我々は政治を冷やかに見るのでなく。本当の政治家を見出し、育てて行く努力を休むことなく続けなければならない。怠ると「ポスト」が日本をハイジャックする。
このようにして始まってしまった戦争のもたらした結果。
<戦没者230万人>6割「餓死」の学説も 無謀な作戦が惨劇招く
毎日新聞 8月15日(金)10時33分配信
<戦没者230万人>6割「餓死」の学説も 無謀な作戦が惨劇招く
太平洋戦争での戦没者230万人について「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」と語る作家の半藤一利さん=高橋昌紀撮影
日本は15日、69回目の終戦記念日を迎えた。日中戦争や太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属は、政府見解によると約230万人。その内訳は不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。兵站(へいたん)を軽視した無謀な作戦がこうした惨劇を招いたとして、昭和史の著作が多い作家の半藤一利氏(84)は「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」と指弾している。
【半藤さんが語る】戦没者230万人の意味とは?
総務省、厚生労働省などによると、1937~45年の戦没者230万人を戦死、病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していない。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、敗戦で記録を残すのが難しかったことなどが影響している。
歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。
個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月~43年2月)では、日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。
そうした日本軍兵士の生死を左右したのは「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で知られる「戦陣訓」だった。太平洋戦争開戦前の1941年1月に東条英機陸相(当時、後に首相)が全軍に示達し、降伏は不名誉なこととされた。
勝利か、しからずんば死か--。「皇軍」の兵士たちは文字通り、そうした状況に追い込まれた。戦死を免れても、補給を断たれてしまっては餓死するしかない。大本営参謀らのエリート軍人について、半藤氏は「緒戦の勝利におごり、自己の実力を省みず、攻勢の限界線をはるかに越えた」と戦略上の失敗を指摘したうえで、「人間をまるで、将棋の駒のように扱った」と批判している。【高橋昌紀/デジタル報道センター】
という事になるわけですね。
戦争は一旦始まってしまうと、止めようとする者は皆「非国民」と弾圧され、一銭五厘の赤紙で招集された兵士たちは兵站の補給もなく死地に送り込まれて行って無駄な死を遂げたわけです。
送り込んだ指導者たちは責任を取らなかったのは日本では当然のことですよね。
>>2
「戦争は一旦始まってしまうと、止めようとする者は皆非国民と弾圧され云々」で表現された云わば病気にこの祖国が再びならないように努めなくちゃいけないと感じました。でも、あの大戦後30年ほど経て連合。。。軍が浅間山荘で敗北するまでに多くの仲間を総括した絶望の逃避行を行ったことを思い出してます。この列島の民族にそういった傾向が厳然としてあるのじゃないか、と疑いながら、更に強く自ら戒める必要があると感じています。
太平洋戦争を日本の精神史としてみた時、確かにそこにある異様なものを感じます。ああいう異様さは確かに浅間山荘やオウムにも通じるものがありますが、太平洋戦争以前と考えるとあまり思いつきません。島原の乱ももっと現実的だったし、西南戦争ももう少し健全な諦観を感じます。太平洋戦争の異様さは「健全な精神」と「リアリズム」がともに何か化け物のようなものに食いつぶされ、無責任なエリートとマスコミが作り上げた「お国のため」「天皇万歳」という似非精神主義に取って代わってしまったことです。国全体が狂っていました。多分回りからは正気に思えない。でもその熱狂はその国の人間しかわからないでしょうね。
やはり精神崩壊の鍵は関東軍にあると僕は思います。アヘンなどを資金源にした組織がまともな訳がない。そしてなぜ長州閥が満州を牛耳っていたのか?三井も井上馨が絡んでますよね。僕はその辺に一番興味があります。
>>4
おっしゃる通り、関東軍や満州国をより深く知ることは現代的な意味もありそうです。
何かで読みましたが、米国CIAがアフガニスタンやイラクでやっていることには麻薬取引もあるんだ、ということです。そんな話を読みますと、米国CIAは合衆国の一機関なんですけど関東軍や満州国みたいに主権を持ち勝手な行動をしていると見られないことはない。言い換えれば、日本と関東軍・満州国の関係が現代米国と現代米国CIAの関係と相似していると見るわけです。もしその見方が正鵠を得ているとすれば、現代は非常事態にあると見ても可笑しくないことになります。
>>5
コメントありがとうございます。日本と関東軍・満州国の関係が現代米国と現代米国CIAの関係と似ているという話、面白いなと思います。関東軍には確かに諜報部隊とでも言うべき人物がいますよね。不思議と戦後に引き継がれていますが。あと長州とイギリス(上海)の関係も気になります。考えてみれば伊藤と井上馨は長州ファイブですよね。留学させたのはアヘンと関わりの深いジャーディン・マセソン社。やつらがただで留学させるはずはなく、絶対に何か狙いがあったはずです。
人に推測でものを話すなといっておいて、自分はやりたい放題ですね。すみません。
>>6
ジャーデン・マセソン社、懐かしいです。若い時、商売で接触したことがあります。勿論、アヘンじゃありません。場所はシンガポールでした。推測は仮説です。仮説は科学の母。真理探究の為に頑張りましょう。